第百九十話:禁忌への踏み込みーーー同時詠唱
右手から、青白い《加速》の残光が溢れ出す。
左手から、紫の深淵を纏った《減速》が渦を巻く。
二つの相反するベクトルが、アルトの胸中、魔力回路の起点で出会った瞬間――。
世界が、伸びた。
正確には、アルトの思考という名の針だけが、停滞した世界から引き抜かれ、制御不能な速度で突き進み始めたかのように感じられた。《アクセラレーション》が知覚を極限まで引き延ばし、周囲の時間は蜜のように粘り気を持って硬直していく。一秒が、十秒に。十秒が、数世紀に等しい密度を孕んで停滞しているかのような錯覚。
その、永遠にも似た「静止」の中で、アルトは詠唱を開始した。
光の術式を編み、その網目に闇の数式を無理やり捩じ込む。本来、二つの回路を分けて行うべき干渉を、アルトは自分というたった一つの器の中で、互いを食らい合わせ、相殺させながら、強引に並列存在させているかのようだった。
それは、同時詠唱などという生易しいものではなかった。自分という存在を、過去へと引き戻そうとする重力と、未来を追い越そうとする斥力の「衝突点」へと変えてしまう、自虐に近い試み。
魔力回路が、悲鳴を上げた。
いや、それは悲鳴という音ですらなかった。骨の内側、神経の束が、巨大な力によって雑巾のように絞り上げられ、繊維の一本一本が千切れそうになる感覚。
理を超えた膨大な魔力が、出口を失ったまま回路の壁を叩き、破断に至る一歩手前の臨界点に触れ続けている。崩壊と均衡の境界を、何度も踏み外しかけながら、それでも辛うじて踏みとどまっているかのような、制御を逸脱しかける暴力的な魔力の奔流だった。
「……ッ、────」
声にならないノイズが、焼けた喉の奥で火花を散らす。
視界の端が、沸騰したような赤に染まった。鼻から、耳から、溢れ出した熱い液体が、遅延した時間の中でゆっくりと宙に浮き、赤い真珠のようにアルトの周囲を漂う。
だが、演算機となった彼の手は止まらない。一節でも、一記号でも思考が揺らげば、体内で飼い慣らしている二つの獣が解き放たれ、この世界の裂け目の均衡を壊しかねない。あるいは、自分たちの存在を維持できているかどうかすら、判別できないほどに、因果の輪郭はもはや掴めないほどに崩れていた。
止めれば、崩れる。崩れれば、否定される。
不完全な式を、世界は認めない。この地獄を完遂しようとすること。それ以外の可能性は、すでに彼の視界からは消え去っていた。
「アルト……ッ!」
レイナの叫びが、遅れて届く。
時間の遅延により、彼女の声は地鳴りのように低く、重く、アルトの鼓膜を震わせた。彼女の表情が、スローモーションの中で苦悶に歪んでいく。
だが、彼女はただ叫んでいるだけではなかった。レイナの纏う闇が、否定の流れそのものに「歪み」を生じさせるほどに食らいつき、アルトの周囲で荒れ狂う因果の渦に干渉し続けている。アルトが作り出そうとしている「隙間」を誰よりも信じ、その闇を鋭利な「針」へと変質させ、魔王の虚空を睨み据えていた。
「やめろ、それ以上は、魂の輪郭が揺らぐ──」
シエラの声が、短く断裂した。
彼女の瞳には、アルトの回路がただ焼けているだけではなく、その定義そのものが書き換えられ、変質しているかのように錯覚するほどの異常が映っていた。止めればすべてが終わると理解しながらも、今の彼女には、その暴走を止める術がない。ただ、天の理が一個の人間によって蹂躙されているかのような異常な光景を、理論上の限界値を測り続けるかのように、一刻も目を逸らさずに見届けていた。
アルトの膝が、わずかに折れた。
重力さえもが敵に回ったかのような圧迫感。
だが、彼はその膝を、震える意志の力だけで押し戻した。
呼吸が成立しないかのような錯覚。
肺が、加速する酸素の要求と、遅延する肉体の動きの狭間で、機能そのものを一時的に剥奪されているかのような沈黙。吸う。吐く。その根源的な律動が、宇宙の理を書き換えるほどに困難な動作へと変わっていた。
(……まだだ。まだ、足りない)
詠唱の節が、半分を越えようとしていた。
魔力回路が、今度は不気味なほどの「沈黙」を見せた。砕けたのではない。熱に耐えかねた回路の壁が液状化したかのように感じられる、輪郭を保てなくなりつつあるかのような錯覚。本来混ざり合ってはならない定義外の魔力が、アルトの精神を直接侵食し始めているように思えるほど、境界が曖昧になり始めていた。
針のように研ぎ澄まされた意識の海に、ノイズが走る。
自分が誰であるか、なぜここにいるのかという輪郭が、加速の果てに曖昧になっていく。
ライトは、聖剣を構えたまま、その光景を魂に焼き付けていた。
アルトが何をしているか、理論は分からない。だが、自分たちを生かすために、彼が変わってしまうことを受け入れてしまったように感じられた。あるいは、二度と戻れないかもしれないと直感していた。
ライトの右腕の熱が、アルトの苦痛に共鳴し、制御を逸脱する寸前にあった。彼の力は今、未完成のまま、かつてないほどに臨界へと達しかけていた。
「……アルト、お前を一人にはさせない」
ライトの掠れた声が、停止した世界の中で唯一の熱源として響く。
ステファニーの魔力が、アルトの周囲に薄氷のような被膜となって張り付いていた。
それは回復などではない。壊れていく回路の破片を、彼女の魔力が必死に、震える指先で繋ぎ止めようとしている――少なくとも、彼女はそうしようとしているつもりだった。崩壊の進行を一瞬だけ鈍らせているようにも見えたが、それが実際に効果を上げているのか、それともただの錯覚か。彼女は神が授けた定義外のエネルギーに押し返されながらも、必死に食い下がった。
ステファニーの指先から、血が滲んだ。魔力供給という名の「接続」が、彼女の神経をも焼き、それでも彼女は離さない。
「……お願い。壊れないで、アルトさん……っ!」
その声は、もはや神への祈りではない。理不尽な運命に抗おうとする、剥き出しの叛逆だった。
詠唱の節が、成立の直前にまで迫る。
アルトの視界は、もはや白銀の虚無に塗り潰されていた。思考の加速は「自己」という器を軋ませ、現実と演算の境界が完全に溶け落ちたかのように感じられた。
鼻から滴った赤い真珠が、停滞した空間に複雑な幾何学模様を描き、それがそのまま、誰が制御しているのか曖昧になっていく術式の一部として組み込まれていくかのようだった。
それでも、演算だけは止まらなかった。
アルトの意志が起動したはずの禁忌の式が、今や彼の肉体に負荷をかけながら、詠唱を継続しているかのように感じられた。
(……一瞬。その隙間に、楔を)
魔王という虚空が、世界のテクスチャを剥ぎ取りながら鎮座している。
その「否定」が走る直前、事象が確定する前の、コンマ数秒の空白。
加速した思考の果てに、アルトは、ついにその針の穴のような間隙を捉えたと認識した。
式は、成立に触れかける。
それは、成立してはならない式が、この世の理を捻じ曲げて強引に書き込まれようとしていた瞬間だった。
「今だ──ッ!!」
アルトの声が、戦場を貫いた。
それは叫びなどではない。自らを焼き切りかねない臨界点に触れ続けながら、辛うじて均衡を踏みとどまり、それでも最後の一節を「事実」として固定しようとした者の、冷徹な宣告。
直後、静止していた世界が、爆発的な質量を持って動き出した“はずだった”――。
あるいは、最初から何も動いていなかったのか。それすらも誰にも分からない、混濁した因果の渦へと。




