第百八十三話:それでも、前へ
「ライトさん、止まれ」
アルトの声が、思考の直接伝達として脳髄に響く。
ライトは、止められた。
極限まで加速していた心身を強引に静止させた瞬間、魔王から溢れ出す虚無の圧が、正面から彼の全身を押し潰しにかかった。動いている間は、恐怖を身体の速度で置き去りにできる。だが、足を止めた瞬間に、それは影のように追いつき、彼の襟元を掴んで引きずり倒そうとする。
玉座の影が、不意に揺らぎ――ライトを見た。
初めてだった。シエラという名の未知なる理を観察していた魔王の視線が、一瞬だけ外れ、ライトという微細な個体の上に等しく落ちた。
それだけで、ライトの足は石床に縫い付けられたように重くなる。重力がましたのではない。世界というシステムそのものが、ライトという個体の存在を不許可としたかのような、存在が、薄れていく。
右腕の熱が、恐怖の色に変質する。剣を握る指先は、血液が通わなくなるほど白く強張り、肺は収縮し、次の呼吸の方法を忘れていく。
(これは、戦えない。……勝てるわけがない)
脊髄から立ち上がる本能が、そう叫んでいた。視界が急速に狭窄し、端に、いくつもの女の顔が浮かんだ。
それは特定の誰かではない。幼少期から積み重なってきた、圧倒的な力を持つ女性たちに対する畏怖、拒絶、そして理解が届かない断絶。彼女たちの視線は、いつもライトの意志を無慈悲に暴き、無力化してきた。
恐怖ではないと思っていた。自分はただ、女性が苦手なだけだと。
だが、それは……恐怖だったのかもしれない。
自分の領土を侵食され、定義を奪われることへの、どうしようもない拒絶。シエラの前でも、レイナの前でも、彼は無意識にその恐怖を隠し、戦うための形を保っていただけだった。
ライトの視線が、逃れるようにシエラへと向いた。
彼女は動かない。《常世の福音》を維持したまま、虚無の中に床を繋ぎ止めている。彼女の背中は、ライトを振り返ってはいない。だが、そこだけが、崩れていなかった。
彼女は最初から、未完成な自分たちを信じて、ここに立っている。
(ここで引けば……俺は、一生、自分の定義を奪われたままになる)
「ライトさん。周期、来ます。……三、二――」
アルトの声。
ライトは動かなかった。震えが止まらない。魔王の視線が、魂の奥底にある卑屈な自分を嘲笑っているように感じた。圧が肺を潰し、肋骨が軋む。右腕の熱は、もはや警告ではなく、爆発寸前の断末魔のような咆哮を上げていた。
その絶望的な硬直を察し、ステファニーの祈りが、一瞬だけ乱れた。
アルトが設計した「正解」の秒数が訪れる。
今動けば、魔王の虚無の衣に生じた計算上の綻びを叩ける。
だが、ライトの意志は、恐怖という名の鉛に沈み、引き金が引けない。
「――ライトッ!!」
迷いなく、レイナの声が届いた。
それは叱咤でも、激励でもなかった。ただ、彼の名を呼ぶためだけに発された、熱い鉄のような響き。
理由は分からない。計算でも、義務でもない。
ただ、彼女がその名を叫んだ瞬間に、ライトの中の断絶が、一瞬だけ、ほどけた。
「……おおおおおッ!!」
ライトが、踏み込んだ。
指示の通りではなかった。アルトが設計した最適軌道より、半歩だけ、深く。
それは合理ではない。設計者であるアルトを裏切る、致命的な計算外。だが、恐怖に押し出されるようにして踏み出したその半歩の深淵が、魔王の虚無の衣に、これまでになく太く、残酷な亀裂を入れた。
アルトが、息を呑む。
(……計算外。いや、成立しているのか!?)
ライトの剣が、魔王の外縁を捉えた。
完全な一撃ではない。魔王の肉体を断つには至らない。だが、それは確かに、魔王という絶対の理に、不純な傷跡を刻み込んだ。
玉座の影が、大きく揺れた。
魔王が、ライトを見た。
今度は、暇つぶしの観察ではない。
自らの法則を乱した不快な現象を排除しようとする、より能動的で冷酷な殺意。
ライトは、震える右腕で剣を握り直した。
恐怖は消えていない。むしろ、魔王が自分を敵として認識したことで、圧は数倍に膨れ上がっている。膝は笑い、右腕は炭になるような痛みを放っている。視界は白濁し、意識の端から自分が削り取られていくような代償を感じる。
だが、彼は止まらなかった。
「アルト、次だ……! 次を、よこせ!」
震える声で、ライトが咆哮する。
その瞬間、戦場の位相が、音を立てて歪み始めた。
シエラの眼差しが、わずかに鋭さを増す。彼女の指先から溢れる福音の光が、ライトの背中へと集中し始めた。
ライトの全身が、自らの光属性と福音の共鳴により、白銀の輝きを放ち始める。
恐怖を燃料に、前進という代償を払い続ける男の剣に、極限の光が宿る。
位相が、軋み始めていた。




