12 Humpty Dumpty
Humpty Dumpty sat on a wall,
Humpty Dumpty had a great fall.
All the king’s horses,
And all the king’s men,
Couldn’t put Humpty together again.
ヒュウゥ・・・
風を巻いて粉雪が舞う。
マンションのペントハウスから出ると、今シーズン初めて到来した寒波で、どんよりと重い雲が雪を降らせていた。何もない屋上は、無機質なモノトーンの世界のようだ。
薄っすらと雪が積もり始めているコンクリートの上に裸足で立つ空は、対峙するハロルドの様子を静かに眺めていた。
マンションに近づいてくるらしいパトカーのサイレンが、遠くから聞こえてくるが、それを知るのはハロルドの方だけだ。空は補聴器のモードを対人に切り替え、感度をMAXに上げている。
(・・・攻撃を避け続けることができれば良いのですが)
カイとハロルドの様子から、もう近くまでFOIと警察が来ているらしいことは解った。マンションに到着して屋上に駆けつけてるまでに、あとどのくらい時間が掛かるのか。
それまで、ハロルドのチェーンから逃げ続けることは難しいと思う。空は今の自分の身体の状態と体力を考えて、全力で動けるのは5分程度だと計算していた。
ハロルドは空気の臭いを嗅ぐように辺りを窺うと、一気にカタをつける構えでチェーンを飛ばす。
ヒュンッと空気を切り裂く音と共に、チェーンの先に着いた円錐型の錘が真っすぐに空を襲った。
(助けはかなり近くまできているようです・・・)
短期決戦のように立て続けに仕掛けてくる攻撃を、空は紙一重でかわしながら考えた。錘は直線的に飛び、また手元に戻されては再度突いて来る。その動きは3m以上あるチェーンが付いているとは思えないほど早く、狙いは正確だった。長さ3mの槍で突かれているような感じだ。致命傷を与えないように、狙いは手か足に絞っているようだ。
けれどそんな攻撃は、彼にとっては肩慣らしかウォーミングアップのようなものだったのだろう。腕と手首だけを使った直線攻撃は直ぐに終わり、チェーンと錘は弧を描くような動きも取り始める。
攻撃の形は複雑になり、かわす空の方も動きを大きくせざるを得ない。
チェーンに巻き付かれるにししても、錘で貫かれるにしても、触れられたらそこでゲームセットになる。力と体力では遠く及ばない相手に勝るのは、動きの速さだけな空だが、もう既に息が上がっていた。
「・・・ハァ・・・ハァ・・・ハァッ・・・ッ」
肩で息をしながら波状攻撃を避けた時、雪で濡れたコンクリートで空の右足が滑った。
そのまま足を蹴って真横に跳び、左手で支えながら転がって体勢を立て直すが、その瞬間、下腹部に弾けるような痛みが走る。
傷口が開いたのだと解った。
(・・・包帯がありますから・・・零れることは・・・無いでしょう)
手を腹部に当てることもせず、次の攻撃をかわすことに集中する空だが、体勢は低いままを保たざるを得ない。体力的には、そろそろ限界が近いと判断する。
(避けて・・逃げるだけでは・・・・)
空は素早く周囲に視線を巡らす。
ペントハウスのガラス戸にもたれ掛かって眠ったカイが、立ち上がろうとする様子が見えた。
(Ripper・・・)
人格が交代し、表情も雰囲気も猟奇殺人犯のそれとなった男が、こちらに向かって歩き出す。
ハロルドの斜め後ろから近づいて来るRipperに、空はそれをチャンスとするべく動き始めた。
気付かれ無いよう少しずつ位置を修正し、攻撃を避けながら、空はRipperに近づいて行った。
(・・・Ripperの身体を盾に出来れば・・・)
けれどそんな空の目論みは、呆気なく見破られた。
傷の痛みと疲労と寒さで、スピードが落ちた空の足首をチェーンが捉えて巻き付く。ハロルドが腕を振り上げると、空の身体は軽々と宙に浮き、背中からコンクリートに叩きつけられた。
「ーーーーッグ!」
衝撃で胸の傷も開いたようで、思わず口から呻きが漏れる。
チェーンが引っ張られ、空の身体がズルズルと引きずられていった。
「ーーーゥオッ」
けれど、声を上げたのはハロルドの方だった。
薄く積もった雪を、空は引きずられながら片手で集め、それを彼の目元に投げたのだ。
一瞬緩んだチェーンから足を開放し、空は残る力を振り絞って跳ぶ。
その先には、Ripperの身体があった。
手を伸ばし、その指先が届く寸前、空の背中をチェーンの錘が貫いた。
「---ガハッ!」
錘は貫通して左胸から飛び出し、くぐもった空の声と共に再び引かれて元の位置に戻ろうとする。
「ァアアアッーーーっ!」
絶叫を上げた空の身体は、Ripperの足元に崩れ落ちた。
「・・・殺すな、と言われてただろ」
倒れた空の身体を足で仰向けにしながら、Ripperが怒りを含んだ声でハロルドに言う。
「心臓は外した・・・」
ハロルドは、むっつりと答えた。
「ふん・・・じゃ、後は好きにさせてもらうよ。時間も無いようだし、まだ生きてるなら先に止めを刺しておいた方がいいからな。捜査官だろ、コイツ」
Ripperは、ポケットからメスを取り出し、空の上に馬乗りになった。
ハロルドはそんな彼に背を向け、苦悩に満ちた表情でガラス戸の方に向かう。FOIと警察が来たら、Ripperの役目が終わるまでは彼らを阻止しなければならない。それがカイの望みなのだから。
かろうじて意識はあったが、空はもう動くことが出来なかった。
(・・・ダメ・・でしたか・・)
Ripperの身体を盾にして、ハロルドの攻撃を防ぐという目論見は達成できなかった。チェーンで胸を貫かれ、更にそれを抜き取られたダメージは大きく、体力もとっくに限界を超えている。
(・・・それでも・・・何か)
出来ることがあるならそれに縋りつきたい。空は、重い瞼を必死に持ち上げ、目の前にあるRipperの顔を視界に収める。
冷酷な笑みを浮かべて醜くゆがんだ・・・Ripperの顔・・・
けれどその顔の上に、二重写しのようにカイの顔が浮かんで見えた。
そしてその唇が震えながら動いているのを、空は読み取った。
「・・・カイが・・・泣いています・・・ごめんなさいと・・・言いながら・・・」
空は掠れた声で、朦朧とした意識の中で小さく呟いた。
「ハッ・・・何を言ってるんだ・・・何でそんなコト解るんだよ」
冷ややかな声で答えたRipperの手には、声よりも冷たく光るメスが握られている。
「さあ?・・・カイの言葉を・・・借りるなら・・・『救われない魂』を持つ・・・・者・・・同士だからかも・・・しれません」
息を切らせながら、それでも空は呟きを止めなかった。そんな空の声に、Ripperは喉を鳴らして小さく笑うだけだ。
「・・・泣きながら・・・ありがとう・・・海と・・・言って」
空の言葉を聞いたその瞬間、Ripperの身体が硬直した。
今にも振り下ろされようとしていたメスが、宙で止まる。
けれど空は、そんな彼の変化を知ることは出来なかった。
急速に意識が遠ざかる。真っ黒な雲を背景に、白い雪が降っている。
そんな光景の中で、脳裏に浮かんだのは博の笑顔だった。
フッと口元に笑みを浮かべた空の頭が、カクンと倒れる。
「・・・何で・・・それを・・・」
Ripperの呟きが、宙に漂った。
初めてRipperが、カイの本来の人格と話をしたのは少し前の事だった。
カイが投げかける質問に、最小限の返事をしていたRipperだったが、最後にカイが言ったのだ。
「僕に名前を付けたのは、日本人だったんだ。カイと言うのは日本語で『海』という漢字だと聞いたことがある。君はもう1人の僕なのだから、これからは君を海と呼ぶよ」
Ripperでいい、と答えると、それは役目だろうと言ってカイは笑った。
「違うっ!・・・俺は・・・俺はそんな言葉が欲しかったんじゃない!」
Ripperは空の上に跨ったまま、激しく頭を振って叫んだ。
ごめんなさい、と謝って欲しかったわけじゃない。ありがとう、とお礼を言って欲しかったわけじゃない。欲しかったのは、殺戮衝動を満たした時の快感だけだったはずだ。
(・・・いや、違う)
ずっと前から、出来る事ならば、自分の存在をカイに認めて貰いたかった。憎まれても嫌われても、恐れられてでもいいから、と。
けれど、カイはもう対話することでRipperの存在を認めてくれていた。だからもう、最後にカイが用意してくれたこの状況を受け取って、後は消えても良いと思っていたのだ。
Ripperの身体から力が抜け、メスがその手から滑り落ちようとしたその時、彼の身体に何かが飛びついてきた。
「やめてっ!」
叫びながら、ドカッと身体ごとRipperにぶつかって来たのはジーナだった。
屋上に辿り着いた捜査官たちは、戸を抑えるハロルドを無視してガラスを叩き割る。怯んだハロルドの相手は豪とエディが行い、ジーナと博が屋上に飛び出して走り出す。
ハロルドは、もうここまでと観念して、一切の抵抗はしなかった。
僅かに早かったジーナが、床を蹴ってRipperの身体に体当たりをかます間に、博は空の身体に覆いかぶさった。
「空ッ!・・・聞こえますかっ⁉・・・」
博は素早く彼女の鼓動と呼吸を確かめるが、吐息を感じることは出来ず、途切れがちな鼓動が確認できただけだった。
「まだ、ダメです!・・・空!・・・まだ、逝くのはダメですっ!」
自分の胸に空を抱き取って必死に呼びかける博の傍で、ジーナはRipperの身体の上に馬乗りになり、ヒップホルダーから銃を抜き出していた。
「許さないっ!」
その時、遅れて駆け付けた真がジーナを羽交い絞めにして止めた。
「き、気持ちは解るが、やめとけっ!」
直ぐ傍で起こっているそんな騒ぎなど耳に入らず、博はただ空を抱きしめて声を掛け続けていた。
けれど空の身体は、冷え切って氷のようになっている。胸と腹部に巻かれている包帯は血を吸って重く、着ているパジャマをを真っ赤に染めていた。左胸から溢れる血が、コンクリートの上に広がり、その上に落ちる雪がスゥっと消えて行った。
真を振りほどいたジーナが、だらりと雪の上に投げ出された空の手を取る。
(ここで死んだら、貴女も許さないんだから・・・)
ジーナは、きつく唇を噛み締めて強く彼女の手を握りこんだ。
手術室の前の廊下で、博は長椅子に座って俯いていた。ジーナは廊下を行ったり来たりして、何も言わず黙って歩き続けている。
「・・・今まで何度も、こんな風に待っていることはありましたが、慣れるようなものじゃありません。これまで、空はちゃんと戻って来てくれましたけれど・・・」
独り言のように呟く博に、ジーナは足を止めて近づいてきた。
「・・・そうよね。でも、今回はここで祈る力は2人分よ。だから、きっと・・・」
ジーナはそこまで言うと、再び廊下を歩きだす。言葉の続きを、心の中で何度も繰り返していた。
(大丈夫、空は必ず戻って来る。大丈夫、空は・・・)
長い時間の末、漸くドクター・ヴィクターが廊下に姿を現した。
(まったく、どれだけボロボロになれば気が済むんだ、あのバカは)
最大限に不機嫌そうな顔には、そんな感情が露わに浮かんでいる。
「・・・空は?」
博とジーナの問いかけに、ヴィクターは説明を始めた。
「左胸の貫通創は、錘が引き抜かれて往復したので、大穴が開いてグチャグチャだった。心臓は無事だったが肺を貫通している。先ずそこから処置をしようと胸の包帯を外したら、乳房の方の傷は完全に開いていた。いや、むしろ深くなっていて包帯が無かったらそれこそ剥がれ落ちていただろうな。腹部の方も、同じように傷が開いていて、包帯を取ったら中身が飛び出してくるくらいだったぞ」
医者らしくない表現も混ぜながら話すヴィクターは、そのくらい感情が昂っていたのかもしれない。
「集中治療室に入れたが、体力的に難しいかもしれない。2日程度もてば、何とかなるが。中に入るなら1人だけ・・・」
そこまで聞いたジーナは、頭を下げるとひと言だけ告げて、背を向けて歩き出した。
「後は、任せたわ・・・」
そんなジーナの後ろ姿に、博は小さな声で答える。
「ありがとうございます・・・ジーナ」
彼女だって、空の傍に付き添いたいだろう。愛する相手を心配する気持ちは、自分と変わらない筈だ。けれど、どうしても譲ることはできない。
博はそんな気持ちを抱えながら、特別に許されて集中治療室の空の傍に座るのだった。
博が心をすり減らしながら空に付き添っている間に、Ripper事件の詳細については次々と明らかになっていった。
解離性同一性障害であることから、カイ・バセットは警察病院の精神科に預かりの身となっている。毎日の取り調べには、淡々と全てを話しているらしい。
ハロルド・バックリーの方は、警視庁で取り調べを受けているが、こちらもそれなりに正直に供述しているようだ。
けれど、彼らの罪状はあまりに多く、全てが明らかになるにはまだ時間が掛かりそうだった。
空が生死の境をさまよっている間、博は片時も傍を離れず、ずっと彼女の手を握り続けている。メンバーたちが暇を見つけては交代で様子を見に来たが、彼に声を掛けることも憚られていた。
そして2日目の早朝、何とか危機的状態を乗り越えた空は、漸く意識を取り戻した。
博が握っていた彼女の指先が、ピクリと動き、やがてゆっくりと瞼が上がる。
ぼんやりと彷徨っていた視線が、博の顔を認めると、彼女の唇が微かに震えた。
「空・・・何も言わなくていいです・・」
博は空の耳元で囁き、その顔を両手で包み込んだ。
そっと顔を近づけ、彼女の額に自分の額を当てる。そしてひと言だけ、思いを込めて囁いた。
「愛しています」