13 London Bridge is broken down
London Bridge is broken down,
Broken down, broken down.
London Bridge is broken down,
My fair lady.
部屋の中は散乱していた。
壺はひっくり返り、蓋が外れて転がっている。足の踏み場もない。
(・・・片づけないと)
部屋を飛び出し、雨の中を走り続けた。ここはスラムの路地だ、と思いながらいつしか足を止めた。
片付けの事など、とっくに頭の中から消えている。息苦しさを覚えながら、歩いていると橋があった。
(・・・知ってる)
スラムの中を流れる、どぶ川に架かる橋だった。橋の下には壊れた木箱や割れたビール瓶、どうやっても売り物にならないゴミが山と積まれている。ここで過ごした夜は、数えきれない。
木箱の間に潜り込んで、膝を抱えて丸くなる。子供の頃、こんな風に辺りに注意を払いながら隠れていた。ふと見ると、近くの箱の上にビートがいた。
灰色の鳥は、こちらをチラッと見ると、翼を広げて飛び去ってしまう。
(ああ、もうビートには、幸せに暮らしていける場所があるんですね)
安堵の笑みを浮かべつつ、胸の中が締め付けられるような感覚を覚えた。
(・・・・これは、寂しい・・・と言う感覚でしょうか)
けれどきっと、いつものように無かったことになる感覚なのだ、と思う。
そして、ふと気が付くと、近くに彼の姿があった。
(傍に行かないと!)
立ち上がろうとするが、どうしても足が動かない。彼はこちらに顔を向けることも無く、背を向けて歩き出す。
(待って・・・待って下さい!)
必死に手を伸ばすが、届かない。
(お願いです!・・・待って・・・置いて行かないで!)
頭の上からミシミシと音が聞こえるような気がした。
(・・・ああ、橋が・・・落ちるんですね・・・)
縋るように伸ばした手が、諦めたようにパタンと落ちた。
「・・・空?」
心配そうな声と共に、暖かい手が額に置かれた。
「ツライですか?・・・痛みますか?」
優しく暖かい声は、彼のものだ。空は、瞼を上げた。
「まだ、熱が下がりませんね・・・」
博はそっと顔を近づけ、彼女の眦に唇をつけ、吸い上げるようにキスをする。そして、もう片方の眼にも、同じようにして流れるものを拭きとった。
「悪い夢でも、見ましたか?」
そして彼は、空の頬に残る湿り気を指先で辿った。
「・・・私は・・・泣いて・・・いたんですか?」
「ええ・・・悲しかったのですか?そんな感じでした。・・・蓋をして、無かったことにしますか?」
自分の方が悲しそうな顔をして、博は優しく空の髪を撫でながら問いかける。
「・・・もし・・また泣いたら・・・今のように・・・してくれますか?」
空は真っすぐに彼の眼を見つめて、小さな声で問い返した。
「ええ、勿論。何時だって、そうしますよ。抱きしめて・・・今は出来ませんが」
怪我さえなければ、彼女を腕の中に抱きしめて、大丈夫だからと伝えながら唇で涙を拭うだろう。
「・・・それなら・・・蓋はしません・・・そのままに・・」
傷ついた肺が、続けて声を出すのを邪魔しているのだろう。けれど空は、微かに微笑んでそう告げた。『悲しい』という感情も、受け入れて行こうと思った。彼の傍にいられるのなら、何があってもきっと大丈夫なのだから。
「博・・・傍にいて良いですか?・・・一生・・」
生きている限りは、ずっと傍にいたい。その後の事は・・・どうなるのかは解らないけれど。
「一生どころか、僕の方は永遠に傍にいるつもりですけどね」
彼はそう言って、彼女の額にキスを落とした。
空の意識が戻った翌日、面会時間を待ちかねたようにやって来たのは、真とジーナだった。
「ご心配・・・お掛けしました」
酸素マスク越しだが、空はしっかりと2人に話しかける。
「肝が冷えたけど、こうして顔が見れたんだから良かったよ」
「空ぁ~~、良かったぁ~~。もう、食事はできるの?」
怪我が怪我だけに、起き上がることは全くできない空だが、消化器系に異常は無いので、今朝から少しずつ流動食を食べさせて貰っていた。
「ええ、昼食はお粥とコンソメスープを少量食べてくれましたが・・・流石にまだ食欲はないみたいです。まだ熱も残っていますし、あちこち痛いはずですから」
博が替わって答えると、ジーナは持ってきた紙袋からゴソゴソと何かを引っ張り出した。
「花さんから言付かってきたわ。プリンなら食べられるんじゃないかって。あと、小夜子から入院中の着替えも持って行くように頼まれたの」
保冷剤と一緒に包まれたプリンの容器を空に見せ、ジーナはにっこりと笑った。
「どう?食べる?」
「はい・・・」
いそいそとスプーンの用意を始めたジーナに、博が声を掛けた。
「ジーナ、しばらく空の傍にいて貰えますか。僕は、真と話すことがあるので。空、大丈夫ですか?もしかしたら、1時間くらいは掛かると思うのですが」
ジーナと空から、承諾の返事を貰うと、博は真を伴って病室から出て行った。
カンファレンスルームを借りて中に入り、椅子に腰を下ろした博に、真が訝し気に聞く。
「何の話なんだ?わざわざ、こんなところ借りて」
「ここなら、誰にも聞かれませんしね。特に、空には聞かせたくないんですよ」
机を挟んで座る博の表情は、厳しいものになっていた。
「・・・っうコトは、空に関する話か」
「ええ、真にしか話せません。先に言っておきますが、これから話すことは誰にも口外しないでください。勿論、空には絶対に」
真が空と出会ったのは、博と同時だ。それ以来ずっと、近くで彼女を見てきた。当然、彼女の過去も現在の状況も全て知っている。
「解った」
真のきっぱりとした返事を聞くと、博はこの腹違いの弟に頭を下げた。
「ありがとう・・・。僕はずっと、空の過去の事を少しずつ調べてきたのですが・・・」
最初に浮かんだ疑問は、彼女が自分の幼児期を語った時だった。
『子供の頃から、感情に蓋をするように、辛いとか悲しいとかを感じないでいた』
その言葉に、いくら知能指数が高いとは言え、幼い子供にそんな事が出来るのだろうか、と思った。
人間に限らず、幼い個体は保護を必要とする。そのために基本的に親を求めるものなのだ。人間なら猶更、親に愛情を求めるものだ。
それを自ら、幼児が諦めたり拒んだりするものなのだろうか、と。
「そして、折に触れて、僕は彼女に昔の事を聞いてみたんです。そして、解ったことがありました」
空の記憶は、ビートを譲り受けた時からはっきりとしていた。聴覚障碍者となる前の記憶もしっかりあったので、障碍が引き金となって記憶力が良くなったわけではないようだ。
けれど、ビートと暮らすようになる前の事は、かなり曖昧で断片的であった。
一般的に、幼児期の記憶は誰でも曖昧だったり断片的だったりするものだが、空の場合はその時期の前後に明らかな違いがある。
「本部のハイマン教授の意見を聞いて、資料も送ってもらいました。それで、僕は結論を出したんです。ビートを貰った事、或いはその相手の老婦人がキーなのではないか、とね。そこで、当時その老婦人の事を知っている人を探してもらっていました」
私的な調査なのでFOIの力を借りるわけにはいかない。信用が置けて有能な私立探偵を紹介してもらい、調査を依頼した。
空の話だと、老婦人はビートを譲った後、入院してそこで亡くなったと言う事だった。その辺りも手掛かりにして貰ったが、何十年も前の事で、しかもスラムの住人のことだから、当時その辺りに住んでいて今も存命の人間を探すだけでも困難だった。
「ずいぶん時間が掛かりましたが、幾つかの事が解りました。老婦人の名はレナ・ホーンと言い、若い頃は移動サーカスの旅芸人でした。持ち芸は、催眠術だったようです」
レナ・ホーンの技量がどの程度だったのかは解らないが、少なくとも暗示に関する知識はあっただろう。催眠術にしろ暗示にしろ、どれだけ相手に信用されているかが重要になって来る。
「そして、彼女の死因は癌でした。入院して間もなく亡くなっています。身寄りは無かったようです」
レナ・ホーンは長い間一人暮らしで、ビートを大層可愛がっていたという報告もあった。
そこまで話して、博は居住まいを正した。
「ここからは、僕の推測が多くなります。そのつもりで聞いて下さい」
レナ・ホーンは自分の病気を知った時、残されるビートの事を真剣に悩んだ。身寄りの無い彼女には、頼めるような相手はいなかった。自分の入院費や葬儀代を考えると、ビートに残してやれるお金の余裕などない。しかもヨウムは長生きで、人間と同じくらいの寿命がある。
誰かに頼むなら、若ければ若いほど良い。身の回りで知っている子供は、同じアパートに住んでいてネグレクトを受けている女の子だけだ。
レナはその子供に声を掛け、時には食べ物やお菓子を与える。愛情に飢えていた子供は直ぐに懐いて、レナを信用するようになった。
「うん、納得できるな。でも、それと空の心は、どう繋がってくるんだ?」
「そのまま順調にいけば、レナはビートを空に譲って終わったでしょう。けれど、レナは不安だったのではないでしょうか」
自分が死んだあと、この子供はビートを幸せにしてあげられるのだろうか。そもそも自分1人が生き延びる事さえ難しいのに、と。
「僕はそんなレナの漠然とした不安を、確実にするような何かがあったのではないかと考えて、当時スラムで起きた事件を全て調べてみたんです」
FOIの記録が役に立った。その結果、空が7歳の時にあった多くの事件の中から1つだけ、これはと思えるものがあった。
未解決の殺人事件で、被害者は3人。いずれも小学生男児で、残された手がかりは現場に1つだけ残っていた裸足の小さな足跡だった。
「ここから更に、推測・・・いえ、想像になっていますが・・・」
もし仮に、子供の空がその事件の犯人だったと仮定しよう。動機や犯行方法は、置いておいて。博は、淡々と説明を続けた。
レナが不安に思っていた時期に、ある日その子供が血に汚れて帰ってきたところを見つける。
部屋に連れて行って話を聞くと、これはマズイと思った。
レナにはビートを託す相手はその子以外にいなかったし、自分に時間が無い事も解っていた。
そして決意する。
この子を警察から匿い、この先も同じような事をしないように、強く暗示をかけるのだ、と。
殺人事件の方は、迷宮入りになりそうだとアパートの他の住人から聞いた。
レナは知識を総動員して、限られた時間を全て使って、子供に暗示を掛ける。
「この事件の事は全て忘れなさい。心の奥に閉じ込めて、ドアに鍵を掛けなさい。間違っても、2度とその扉が開かないように」と。
そして、その扉をビートそのものに設定する。
「ビートがいる限り、その扉は開かない。鍵はビートそのものだから」と。
扉が開いてしまったら、取り返しがつかない恐ろしい事がある。
と、強く念を押す。
そして更に、毎日少しずつ、同じような殺人をしないように、様々な暗示をかけてゆく。
「激しい感情を持たないように、いえ全ての感情に蓋をして、感じないようにしなさい」
心の部屋をイメージさせ、灰色の扉の手前に蓋の付いた壺を置かせる。
どれほど酷い目に遭っても、それを感じなければ生き延びる可能性は高くなる、と考えた。
「人を殺しては、ダメ」
でも、自分の命を守るためなら仕方がない、と。
「嘘をついては、ダメ」
嘘が膨れ上がると、何が起きるか解らないから。
そして、更に大切な暗示を掛ける。
「愛してはいけない」
愛は激しい感情をもたらすものだ、とレナは思っていた。特にそれを失った時、我を忘れることだってあるのだと言う事を。
「・・・愛するって、なに?」
それまで、ハイとしか答えなかった子供が口を開いた。
愛されたことが無い子供は、愛するという言葉の意味も知らなかったのだ。7歳の子供に、今後の人生における愛を説明することは困難に思えた。
「それじゃ、心を籠めて『愛しています』と言ってはダメ」
子供は、それなら解ると言って頷く。
そうして、幾つもの『してはいけない事』を教え、今までの全ての記憶に修正を行う。そしてそれらを、強く暗示に掛けた。
時間が許す限り、毎日毎日、繰り返し繰り返し。
そして最後に、レナ自身に関する記憶も。
ビートを譲ってくれた近所の人、と程度の間柄だったと思いこませて、暗示の証拠を消した。
「そんな風にすれば、可能では無いかと思いました。暗示が解ける鍵を、時間設定にすれば・・・つまり暗示に掛かっている者が死ぬ時とすれば、相当長い時間、全てが有効になる可能性があります」
博はそこまで話し終えて大きなため息をつくと、真に向かって再び口を開いた。
「空には、禁じられている行為や言葉がある。そんな気がしていました。真も、そう思いませんか?」
「ああ・・・そうだな」
空の、馬鹿が付くほどの正直さは、嘘を禁じられているのなら納得できる。任務で武器を使用する時も、彼女はそれで相手の命を奪わないように立ち回る。
「でも、空はBBを殺してるぜ」
真は、難しい顔つきで言う。
「彼女は日本に来てから、随分と変わって来ているでしょう?感情を収めるための容器の蓋が、随分と緩んでいる感じなのではないでしょうか。特に『人を殺すな』という暗示は、自分の命を守る場合は許されると言うような、条件付きの比較的緩い物だった可能性もありますし」
「成程な・・・」
「他にも、まだ禁じられていることはあるかもしれません。けれど僕は、彼女を気の毒だとか可哀そうだなどと思ってはいけないような気がするんです。想像が事実だったとして、彼女が自分がしたことの代償に感情を失ったのだとしても・・・」
空は、自分を全て受け入れて生きてきた。
感情を全く持たなかった時期でさえ、空は美しく生きていたではないか。
穏やかな声で言う博に、真はしっかりと頷いた。
空はどれだけギリギリの状況になっても、決して諦めない。
その時出来ることを、全力を尽くしてやろうとする。
その姿を、ただ美しいと思ったことがある真だ。
見かけだけじゃない、そんな生き方が美しいのだ、と。
もしかしたら空は『生き延びろ』という暗示も受けていたのかもしれないが、それだけは禁止ではない前向きなものだ。彼女自身にとっては、酷な時間が長くなるものかもしれないが、レナが与えた暗示の中では、唯一良かったものかもしれない。真は、そんな事を考えた。
「だから僕は、彼女の心の奥にある扉を、絶体に開かないようにしようと思っています」
「え?・・・どうやって?」
博はニッコリと笑った。
「空の信頼はもうしっかりと貰ってありますから、後は彼女の心が1番無防備になる時に、僕自身がキーになって暗示を掛けることにします。そのくらいの暗示なら、僕にも出来ると思うので。扉を二重にするとか、鎖を何重にも渡して錠前をつけるとか・・・イメージは色々あると思います」
真は、解ったような解らないような顔になるが、頷いて見せた。
「それで、僕が全てを話したのは、真にお願いがあるからなんです」
もし自分とビートに、同時にもしもの事があった場合、空がどうなるか予測がつかない。そうなった場合は、出来るだけ彼女の思い通りにさせてやって欲しい。
「空の心にあるものを知っているのと知らないのでは、対応も違って来るでしょうから」
だから、全てを話した。腹違いの、血の繋がった弟に対して、随分と虫が良く面倒なことを押し付けた自覚はあるが、博としてはそれが1番良い方法だろうと考えたのだ。
「・・・解った。けど・・・」
真はギュッと拳を固めて、絞り出すように返事をした。そしてニカッと笑うと、人差し指を振りながら兄貴に向かって言う。
「そんな大変なことを頼んだからには、それなりに何か、お礼でも貰わねぇとな。今度、最高級の辛口日本酒でも奢ってくれよな」
「ええ、もう、幾らでも。良い弟を持ったものです」
博は、最上級の笑顔で答えた。
2人は、カンファレンスルームを出て、空の病室へ戻る。
「もっとゆっくりしてきて良かったのに~~」
と、ジーナの声が出迎えた。




