母の病気の話
冬が迫る10月、青森へ引っ越しした。
その二ヶ月後、母がガンであることを知る。
年が明けてすぐ、精密検査をしたところ
大腸ガン、しかも末期に近い状態だった。
病気はわかりました。では今後の治療を決めなければならない。
80才になった母には持病がある。肺気腫だ。
しかも体力がないから外科的な処置は体に負担を掛けるだけだ。
しかし受け持った医師は抗がん剤治療を行い、がん細胞を小さくして手術して切除しましょうという。
はあ?と思った。
抗がん剤治療だけでどれだけ体に負担を掛けるのか想像できないからだ。
抗がん剤治療はがん細胞にだけアプローチするものではない。
周辺の細胞も巻き込んでしまうから副作用が生じるし、それは避けられない。
もとより持病があり、
コロナに二度も感染したこともあり
免疫力のなさには自信がもてるほど母は「弱い」。
だが母は、藁にもすがる思いだったのだろう。
先生が言うのなら正しい。だからそうしてほしいと顔に出ていた。
だから受け入れた。
結果として最初の抗がん剤治療で持病が憎悪したため治療は中断を余儀なくされた。
悪化してしまった持病の治療に切り替えて半年後、病状が落ち着いたところで転院を勧められた。
同時にこの説明を受けたときに母の余命を知ることになる。
もって半年。
この間老人施設に入所、そして再入院、最後に転院した先で母は一人で逝った。
やっと解放されたんだな、母も私も。
そう思う一方で、やはりまだ母を許せていないことがある。
その件については非常にプライベートなことなのでここでは触れたくない。
それにそれが本当のことなのかどうかもわからないからだ。
ただ、母の死亡が医師によって確定したとき
頑張ったな、と、解放されたね、やっとという感情が沸いた。
私は残念ながら親にはなれなかった。
けれど親ののろいに縛られながら、体に巻き付く鎖を壊す準備を着々と進めていた。
すべては「母のようにはなりたくない」その一心からだった。
私は母を反面教師として「踏み台」にした。
子供としてはどうかと思うが、そうしないと私の心が壊れてしまいそうだったからだ。
子供にとって親は絶対であり、守護する者だ。
だが、親にとっては、どうだろう。
私は母を施設に入れることを決めたが、
それまでの間、親類たちからこんなことを言われた。
「子供を産んでおいてよかったねえ、世話してくれる人がいなかったら大変だっただろうし」
母がなぜ子供を産んだのか。
父を心底愛していたわけではなさそうだし、
かと言って経済的な援助を期待しただけではないだろう。
ということは、母が私の兄や私を妊娠したのは、
いつか自分を捨てる男よりも、子供のほうが確実に自分の世話をしてくれるから。
その可能性が高い。
頭ではわかっていた。
今まで散々「結婚するなら次男坊」とか「結婚するなら婿」とか
母自身にとって都合がいいことばかりを言っていたのだから、ある程度は想像がついていた。
でも、信じたかった。親としての愛情を。それが私が最後まで母を切れなかった最大の理由だった。
私のために母は何度も努力してくれた。
私のために夜の仕事をやめて個人事業主となった。
私のために早起きして朝ご飯をつくってくれたし、
心が折れそうなときは一緒に泣いてくれた。
これらを全部、違うものにしたくなかった。
でも
母は晩年、私と夫氏に悪態をついた。
自分が望むことをしてくれないと、バカヤローと罵った。
それが認知症の症状の一つ、感情のセーブがきかないことからくるものだと
わかっていても、私にはどうしようもなく辛かった。
それにもう一つ。
前述したが、今も許せない言動がある。
親として、それを子供に伝えて良いものか、想像できなかったのだろうか。
もしかしたら、母は私と夫氏が別れることを望んでいた?
そして自分のもとに帰ってくるのを期待していた?
考えれば考えるほど、吐き気がするほどおぞましい。
そんな気持ちと、母を一人で逝かせたことの後悔がぶつかり合っていた二年間だった。
だけど、ふと思った。
母は、母がわたしにしたように祖父母からのろいを掛けられていたのではないかと。
誰だって一人はさみしい。
ましてや病気を抱えているなら尚更だ。
私としては、母の晩年の孤独は、自業自得だ。
だけど母は、さみしいと言えなかっただけではないか。
素直に、自分の感情を言葉にできなかっただけではないか。
二年間考え続けて、やっと母という女性の生き方を
少しだけ受け入れることができた気がした。
そして
「母のようにはなるまい」と改めて思った。
夫氏と、二人でゴルフをしながら楽しい老後を送りたいから。
そこに行き着き、やっと弔いが終わった気がした。




