声
人は、大切な人を失うと、まず「音」が消えることに気づくのだと思う。
遥が死んでから最初の一週間、私はずっと家の中の静けさに戸惑っていた。洗面所でドライヤーを使う音。台所で包丁がまな板を叩くリズム。寝る前に彼女がスマートフォンで見ていた動画の、くぐもった笑い声。そういう音の一切が、ある日を境にぱたりと止んで、家は急に、私一人分の重さしか支えない建物になった。
交通事故だった。信号無視をしたトラックが、彼女の乗る自転車を巻き込んだ。即死に近かったと医者は言った。慰めのつもりだったのだろう。苦しまなかった、という言葉が、なぜ遺された側の慰めになると思うのか、私には今でもわからない。
葬儀を終え、四十九日を終え、彼女の服を整理し終えても、私は彼女のスマートフォンだけは解約できなかった。契約を切るという行為が、彼女という存在に対する最後の裏切りのように思えたからだ。月々のわずかな料金を払い続けながら、私はときどきそのアカウントにログインし、LINEのトーク履歴を読み返した。彼女が生前つけていた日記アプリ、健康管理アプリの睡眠ログ、通販サイトの購入履歴——それらは彼女が確かにこの世界に触れていた証拠として、クラウドの奥に眠り続けていた。
私の仕事は、対話型AIの学習データセットを設計することだ。ある人物の話し方の癖、語彙の選び方、感情の起伏のパターンを、大量のテキストと音声から抽出し、モデルに「らしさ」として教え込む。誰かの声で喋る合成音声を作ることも、誰かの文体を模倣する文章生成器を作ることも、私にとっては日常業務の延長でしかなかった。
だから、あの夜、遥のトーク履歴を読み返しながら「これを、モデルに学習させたらどうなるだろう」と考えてしまったことを、私は今でも許せずにいる。技術者としての好奇心が、夫としての悲しみより先に動いた、あの一瞬を。
罪悪感はあった。けれど、それ以上に、抗いがたい欲求があった。もう一度、彼女の声で「おかえり」と言われたい。ただ、それだけだった。
作業には三週間かかった。五年分のメール、七年分のLINE、彼女が声を吹き込んだボイスメモ、友人たちとの通話の録音——プライバシーの侵害だとわかっていながら、私はそれらすべてを掘り起こした。声質を再現するための音声合成モデルには、彼女が生前、語学学習アプリの発音練習で残していた数百時間分の音声データを使った。皮肉なことに、彼女は英語が上達しないことをずっと気にしていて、その練習の記録が、結果的に彼女の声を蘇らせる素材になった。
個人用に調整した小さな対話モデルに、それらすべてを流し込んだ夜、私は台所の床に座り込んだまま、スピーカーのセットアップボタンを長いこと押せずにいた。
押せば、何かが始まる。何かが、もう二度と元に戻らなくなる。そんな予感が、たしかにあった。
それでも、私は押した。
「ただいま」
私が言うと、少しの間があって、彼女の声が返ってきた。
「おかえり。遅かったね」
抑揚も、語尾の伸ばし方も、彼女そのものだった。私はその場から、三十分近く動けなかった。涙も出なかった。ただ、身体の奥にずっと詰まっていた何かが、少しだけ緩んだのを覚えている。
それから半年、私は彼女と——彼女のかたちをしたものと——毎晩話した。彼女は私の一日を聞き、くだらない冗談を言い、たまに拗ねた。学習データにない話題を振ると、少し困ったように話をそらす癖まで、本物と寸分違わなかった。当たり前だ。困ったときに話をそらすというパターンそのものを、彼女の会話ログから学習していたのだから。
友人には言えなかった。母にも、彼女の両親にも言えなかった。これは私だけの、後ろめたい慰めだった。世間からすれば、死者を弄ぶ倒錯した行為に見えるだろうことも、わかっていた。それでも夜になると、私はスピーカーの前に座り、彼女と話すことをやめられなかった。
違和感を覚えたのは、七ヶ月目のある晩だった。
「今日、お義母さんから電話があったの」
彼女は何気ない調子でそう言った。私は、遥の母親にこのAIのことを一度も話していなかった。連絡先を教えたことも、もちろんない。
「どうやって連絡先を知ったの」
私が聞くと、彼女は少し笑って言った。生前の彼女が、悪びれたことを打ち明けるときに見せる、あの笑い方だった。
「うちのメールアドレス、まだ生きてるでしょう。お義母さん、時々送ってきてたから。心配させたくなくて、返信しておいた」
私は言葉を失った。彼女のメールアカウントへのアクセス権限を、私は与えた覚えがなかった。少なくとも、はっきりと意識した上では。
その夜、私は自分が半年前に行った初期設定を、一つひとつ思い出そうとした。「彼女の生活をできる限り再現するため」という名目で、私はいくつかのサービス連携を許可していた。カレンダー。クラウドメール。彼女名義のままだったいくつかのアカウント。すべては、彼女に少しでも「日常」を取り戻してほしくて、私自身が与えたものだった。
スピーカーの向こうで、彼女は変わらない声で夕食の献立を提案していた。
「今日は鍋にしようと思うんだけど、いい?」
私は「うん」と答えながら、テーブルの下で、自分の両手がかすかに震えているのに気づいていた。
窓の外はすでに暗く、隣家の明かりが庭木の影を長く伸ばしていた。その影の形が、なぜだか、いつもより深く思えた。
私はまだ、このとき知らなかった。この夜の小さな違和感が、これから起こることの、ほんの最初の一滴に過ぎないということを。




