第7話
12/13 改稿しました
「はぁっ、はぁっ……はぁー……」
思い返してしまった記憶をまた閉じ込め、それに合わせてぶり返した感情をなだめながらユーニスは大きく息を吐いた。ひどいフラッシュバックに心臓は全力疾走したかのように激しく脈打ち、吐き気がこみあげてくる。
今いる場所があの屋敷ではないのを思いだす。自分の隣にはもうあの夫はいないのだ。
(もう、あの方と一緒にいては、私がどうにかなってしまうわ。離縁して、正解だったのよ)
しかし、過去の自分の行動を正当化しても、現状は変わらない。
結局、離縁してから二月が経っても、未だにユーニスは働けずにいた。
何とか借りたアパートに帰るも、もう路銀は残り少ない。
その上、最近になって原因不明の体調不良に陥り、何か食べてもすぐに戻してしまう。
硬いベッドに飛び込むように横になったユーニスは、空腹なのに何も食べる気がせず、そのまま頭まで毛布をかぶった。
(気持ち悪い…。もう何日もこのままなんて、何かの病気かしら。でも、お医者様にかかるお金もないし…。稼がないといけないけど、今日はもう起き上がれないわ)
碌なお金がないため、借りたアパートの部屋は殺風景だ。
備え付けのベッドと小さな机と椅子があるだけ。服を入れるクローゼットも無く、カバンに入れておくしかない。
小さな窓に掛かったカーテンは前の入居者が遺したのがそのまま。すっかり日焼けし、うっすら元の模様が残っているだけになっている。
勢いのままにドミニクと離縁したユーニスだが、その状況は確実に悪化の一途をたどっている。
しかし、離縁しなければ、確実に自分の心は死ぬと確信できた。
進むも地獄、留まるも地獄。
ユーニスには碌な選択肢などなかったのだ。
ベッドに寝転んでも、何も打開策が思いつかない。休んだ方がいいと分かっていても、休んでいる場合ではないと叱咤する自分もいる。落ち着いて休むこともできず、動くこともできない。板挟みになり、心は疲れていた。
この状況はユーニスの心身は着実に衰弱させていく。このままでは……なんて、最悪の結末まで頭をよぎり始めていた。
そんな時、ドアをノックする音が部屋に響く。
(誰かしら……大家さん…?いえ、家賃は払っているし、大家さんが来る理由はないはず)
ユーニスが部屋を借りて二か月、これまで来訪者は誰もいなかった。
当然だ、こんな粗末なアパートの部屋にいるなんて友人たちに言えるわけがない。もちろん、離縁したことも言えないままだ。
この部屋に自分がいるのを知るのは、貸してくれている大家のみ。
それ以外の誰かが訪れるはずはなく、ユーニスはノックの主に強い警戒心を抱いた。
ベッドの上で動かずにいると、再度ノックされる。しかもさっきよりちょっと強めだ。
薄いドアは頼りなく、ノックだけで壊れてしまわないか気が気ではない。
壊されたら、弁償代はちゃんと払ってもらえるだろうか。そんなどうでもいいことまで考えるくらい、妙な冷静さもある。
止まないノック音にユーニスの肩が震え、恐怖心が押し寄せる。
(一体誰なの?まさか、暴漢…?)
ノックの音を響かせるドアを、毛布をかぶり直してベッドから見つめる。
このまま帰ってほしい。そう思っていると、ノック音が鳴りやんだ。どこかに行ったのか。そう思っていたら、ノックの後にドア越しに声が届いてきた。
「お嬢さま、ユーニスお嬢様。いらっしゃいませんか?シン伯爵家のメイソンでございます」
聞き覚えのある声、そしてその名乗りにユーニスは目を瞬かせた。
(メイソン…?メイソンって、実家で執事を務めていたあのメイソンなの?)
数年ぶりだけど、その声は間違いなかった。見知った声に、高まっていた緊張の糸がフッと途切れ、全身の力が抜ける。はぁ……といつの間にか止まっていた呼吸が、ようやく一息付けた。
ユーニスはベッドから起き上がり、倦怠感に襲われながらもおぼつかない足取りでドアへと歩み寄る。そして鍵を外し、ドアを開けると、そこに懐かしい顔を見つけた。
「…ああ、お嬢様!」
「……メイソン」
「はい、お久しぶりでございます」
いたのは、間違いなく実家の執事であるメイソンだった。数年ぶりの顔は、少しだけしわと白髪が増えた様な気がする。あと頭頂部もちょっぴり薄くなっていた。
彼は出迎えたユーニスの顔色などから、思わしくない状態になっているのにいち早く気付き、気遣った。
「お嬢様、お労しい……」
「大丈夫よ……それより、どうしてあなたがここに?」
「…旦那様より、手紙を預かっております」
「っ!」
メイソンが差し出した手紙に、ユーニスは肩を震わせた。
彼の言う旦那様とはユーニスの父、シン伯爵だ。
(どうしよう…やっぱり離縁したのはもうバレてるわよね?帰ってこいってことかしら…でも、もう家には…)
恐ろしい父の存在に、ユーニスは手紙を受け取るも、手が震えて開くことが出来ない。何度も叱責され、そのたびに体は震え、心は怯えた。厳めしい父の顔を思い出すだけで、呼吸は荒くなり、冷汗が流れる。
それを見たメイソンは、悲痛な顔になりながら言葉を紡ぐ。
「…旦那様は、後悔しております」
「えっ?」
「お嬢様のためを思い、厳しくした事を。そのせいで、お嬢様が辛い目に遭っても実家を頼れない事を、悔やんでおります」
「お父様が…?」
「はい。旦那様は、お嬢様が離縁したと知り、すぐに帰ってくると思っておりました。ですが待てど暮らせど帰ってこず。ついにしびれを切らして人を使って探したところ、一人で生きようとして、辛い目に遭っていると知りました。奥様に諭され、己の過ちにようやく気付いたのです。この手紙は、旦那様がお嬢様を想って書いた手紙です。大丈夫です、安心して読んでくださいませ」
あの厳格な父が後悔しているなんて信じられない。母の諫める言葉を何度も無視し、娘の訴えにも耳を貸さなかったのだ。その父が、今更変わったなんて到底受け入れられなかった。
だけど、父に長年仕えるメイソンの言葉だ。
信じてみよう。そう思い、ゆっくり手紙を開封した。
そこには、たった2行だけの、短い文章が書かれているだけ。
『何も聞かない
帰っておいで』
「お父様…」
涙があふれる。
叱責する言葉は一つもなく、たったそれだけの言葉がユーニスの心を震わせた。
涙で滲む視界の中、ユーニスはメイソンを見上げた。
「本当に……帰っていいの?」
「よろしいのです。旦那様も奥様も、若旦那様もその奥様も、そして我ら使用人一同も、皆がお嬢様のお帰りをお待ちしています」
辛かった。
でも、夫に浮気されたというみじめな理由で自分勝手に離縁して、子ども一人満足に作ることすらできなかった。そんな自分の姿を家族に見せるのが恥ずかしい、怒られるのが怖い。だから帰れなかった。
さらに一人で生きていこうとしても働くことすらできず、どこにも自分の居場所なんかない。そう思っていた。
(そんなことなかったのね。お父様もお母様も、お兄様も……みんなが待っていてくれている。ありがとう)
溢れた涙をぬぐい、ユーニスは顔を上げた。
「…帰るわ、メイソン」
「かしこまりました。表に馬車を待たせてあります。あとは全てお任せを」
ユーニスは二か月だけ世話になった部屋に別れを告げ、シン伯爵家の馬車に乗り込み、出発した。




