知識で殴ることにしました
――そう口にしてしまったことから、私の平穏な人生は、少しだけ騒がしくなった。
レースの日傘の下、初夏の庭園にお茶会のさざめきが響いている。バラの香りに混じって、焼き菓子の甘い匂いが漂ってくる。
招かれているのは、子爵家以上の令嬢たちばかり十数名。こういう場に呼ばれるだけでも、我がクラインリヒト家にとってはありがたい話だ。
膝の上で、ドレスの裾をそっと握り直す。姉のお下がりを丈だけ直したこの一着は、他の令嬢たちの真新しいドレスの中で、どうにも心もとない。
「ねえ、エミーリア様も聞いていらっしゃる?アンネリーゼ様、この間『月影の雫』の施術を受けられたんでしょう?」
隣に座る令嬢に話を振られ、私は視線を輪の中心へと向けた。
数歩先で、アンネリーゼ様が扇の陰で控えめに微笑んでいる。誇らしげな表情の下で、ほんの一瞬、頬の筋肉がこわばったように見えた――気のせいだろうか。
「え、ええ。そうみたいですね」
当たり障りなく相槌を打ちながら、私は内心で首を傾げる。
(――あ、それあれね。「これ一回で理想の体型に」ってやつ)
紅茶をひと口すすりながら、記憶の奥から似たような話が次々と浮かんでくる。
(前世でも、似たような謳い文句、何百回見たか分からない。「これさえやれば」系の話って、大抵……ね)
気づけば私――子爵家の四女、エミーリア・クラインリヒトは、前世の記憶を持ったまま十六歳になっていた。
前世では、三日坊主のダイエットと、その何倍も詳しくなった付け焼き刃の知識集めに明け暮れていた。実践は続かなかったくせに、基礎代謝だのPFCバランスだの、無駄に頭でっかちな知識だけは異常にある。
「お金さえあれば一瞬で理想の体型に」なんて話、素直に喜べるわけがない。
――でも、それを口にすることはない。
「あら、エミーリア様。何か気になることでも?」
隣の令嬢が、こちらを覗き込むようにして首を傾げた。
「……いえ、なんでも。素敵なお話だと思って」
咄嗟に取り繕った笑みを浮かべながら、私は内心でため息をつく。
こうやって、いつも黙って聞き流すだけ。前世でも、今世でも。
――本当に、それでいいんだろうか。
お金もない。地位もない。発言力もない。
持っているものといえば、前世で無駄に読み漁った、誰の役にも立ってこなかった知識だけ。
屋敷に帰れば、今日も母が繕い物をしながら、来月の食費をどう切り詰めるか算段しているだろう。そんな我が家にとって、"知識"だけは唯一、誰にも取り上げられない財産だった。
――それでも。
さっきの、アンネリーゼ様の一瞬のこわばった表情が、頭から離れない。
あれは、きっと私の気のせいなんかじゃない。
しばらく黙って紅茶を見つめたあと、私は小さく息を吐いた。
……ないなら、あるものでやるしかない。
知識で殴るしかない。
もっとも、その"宝の持ち腐れ"だった知識が、まさかこんなに早く使うことになるとは――この時の私は、まだ知る由もなかった。
◇
お茶会がお開きになり、令嬢たちが三々五々、馬車へと向かい始める。車輪の音と、御者たちの呼び声が、静かになりつつあった庭園に交じり始めた。
私は、少し離れたところで一人、様子を伺っていた。
(声、かけるべきかな……)
正直、迷いはあった。アンネリーゼ様とは、こういう場で会釈を交わす程度の間柄だ。込み入った話をするほど、親しいわけじゃない。
それに、もし見当違いだったら。余計なお世話だと思われたら。
――でも。
脳裏をよぎるのは、前世の記憶だ。似たようなことに気づいていながら、結局何も言えず、あとになって後悔した、あの時のこと。
あの時と同じ後悔を、また繰り返すのか。
「……アンネリーゼ様」
気づけば、声が出ていた。
振り返った彼女は、少し驚いた様子だった。それはそうだろう、ろくに話したこともない相手に呼び止められたのだから。
「……エミーリア様、でしたかしら。どうかなさいまして?」
一瞬の間があった。名前をすぐには思い出せなかったのだろう。それも当然だと思う。子爵家の、それも四女なんて、覚えてもらえているだけで十分だ。
「あの……突然、失礼いたします。少しだけ、お時間をいただけますでしょうか」
我ながら、ぎこちない言い方だと思う。それでもアンネリーゼ様は、戸惑いながらも頷いてくれた。
庭園の隅、人気のない薔薇の生垣の陰で、私たちは向かい合った。生垣の向こうから、令嬢たちの話し声が、途切れ途切れに聞こえてくる。
近くで見ると、彼女の頬には化粧でも隠しきれない張りのなさがあった。目元にも、うっすらと疲労の色が滲んでいる。
(……これ、前世で見た「急に痩せた後の反動」に似てる気がする)
確信はない。ただの既視感だ。それでも、口にせずにはいられなかった。
「差し出がましいのは承知の上なのですが……アンネリーゼ様、『月影の雫』の施術を受けられましたよね」
「え、ええ。そうだけれど」
「その後、お肌の調子や、だるさのようなものは、ありませんか」
アンネリーゼ様の顔から、すっと表情が消えた。
「……どうして、それを」
震える声だった。おそらく――「施術を受けた」という、皆も知っている事実に驚いたわけじゃない。肌荒れやだるさといった、まだ誰にも話していないはずの不調まで言い当てられたから、動揺しているのかもしれない。
「肌の感じと、食欲の出方で、なんとなく。もし違っていたら、聞き流してくださって構わないのですが」
「……いいえ、当たっています。この間の夜会に間に合わせようと、続けて三度」
アンネリーゼ様は俯いたまま、小さく息を吐いた。
「最初は本当に、驚くくらい効いたんです。でも、二度目、三度目と受けるうちに、なんだか前よりも太りやすくなった気がして……肌も、荒れてしまって」
「まず、しばらく『月影の雫』はお休みしましょう」
私がそう告げると、アンネリーゼ様は不安げに眉を寄せた。
「でも、それでは……」
「今よりもっと痩せにくい体になってしまいます。今は、身体に"もう飢えることはない"と分かってもらう時期なんです」
「飢え、ですか?」
「詳しい話はまた今度。今日は、これだけ覚えてください――お食事は、減らさない。むしろ、しっかり摂る」
アンネリーゼ様の顔に、戸惑いが浮かぶ。無理もない。痩せたいのに食べろと言われて、素直に頷ける人は少ないだろう。
生垣を揺らす風の音だけが、しばらく二人の間を埋めた。
「信じられませんよね。でも、断食のような急な変化をさせられた身体は、次にまた"飢え"が来ると思って、脂肪を溜め込もうとするんです。だから、まずは規則正しく、きちんと食べることから始めましょう」
「……本当に、それで?」
「すぐには変わりません。たぶん、最初の数日は今までと変わらないように感じると思います」
正直に言うと、少し不安だった。即効性のある魔法を見慣れた彼女に、こんな地味な話が響くだろうか。
けれど、アンネリーゼ様はしばらく黙り込んだあと、ふっと小さく笑った。
「――魔法よりずっと、まどろっこしいのね」
「はい。本当に、地味なので」
「でも」
彼女は、扇をそっと閉じた。かたり、という乾いた音が、静かな生垣の陰に小さく響いた。
「地味な話のほうが、なんだか信じられる気がするわ」
「……ありがとう、エミーリア様」
小さく頭を下げると、アンネリーゼ様は馬車の方へと歩いていった。その背中を見送りながら、私はほっと息をつく。
――まだ、何も変わってはいない。信じてもらえたわけでもない。
それでも。
不安の方がずっと大きい。それでも、ほんの少しだけ、前へ踏み出せた気がした。
たった一歩。それだけでも、今の私には十分だった。




