第十四回・合評、批評
一冊の本を巡って、書き手もしくは読み手が実際に顔をあわせて批評しあうことを合評会といいます。漫画やイラストではあまり聞かず、小説やエッセイの同人誌では多いかと思います。理由は文章を読み批評するには、きちんと最初から最後まで読まないとできないから。そしてそれがマナーだから。読み手だけに徹するひとのことを読み専といいますが負担が大きいのでそんな奇特な人、めったにいません。書き手同志が集まって双方で読み手になりあって相互批評するのが多いです。実際に顔をあわせるし、長年のつきあいだと生まれや生い立ち、仕事がわかっていることもあり、よりよく作品の内容を理解出来たりもします。それと実際に書き手からこのあたりに力を入れた、取材先はどうやって見つけたかを直接聞けるのも勉強になります。無名だと取材に応じていただけないところも多いですがそういうのを乗り越えて調べたいことを果敢にチャレンジして新たに人脈を作って行ける人はやはり有能だと思います。
しかしいろいろな人がいますので、トラブルがつきものです。最後にある合評会で聞いた話を書きます。
書き手に対して複数の読み手が組んで酷評になりました。いやもう酷評どころか、その書き手の人格否定、今までの生きざままで否定しました。集中攻撃までして何が楽しいんだか……大人のいじめですね。合評会いじめってあるのか、と驚きました。作品から書き手の思想を読み取るのも自由ですが、思想自体を攻撃するのは反則です。嫌だなあ、怖いなあと思いました。
その話を聞いて以後、私自身感音難聴もあることだし、聞き間違えで怒られたくない。面倒になって誘われても行かなくなりました。少数の人間の心無いやり方が当人のみならず部外者の顰蹙まで買って会の名前を落とすこともあるのです。
また批評をどう受け入れるかも書き手側の意識もしっかり持つべきだと思います。批評された部分をすべて批評した人の気に入るような書き方に変えたら逆に「改悪」 になったケースも多々あります。その加減も難しいと思います。批評されてもここはこうでいいから、もうちょっと表現を工夫しよう、というなら大丈夫ですが、批評をすべて取り入れて直すと自分の作品でありながら自分の作品でなくなる。そうなってしまうのは、まじめな人が多い。改悪した作品を皆に読んでもらい、これだったら前のほうがよかったというと悲しむ。誰の批評も感想もいわば単なる私見なのに。絶対的なものではないのに。
他人の感想や批評の受け入れは……ちゃらんぽらんでいいと思います。つまり義務ではないという意味ですよ。