エピローグ
ガバッとベッドから身体を起こし、リノは辺りを見回した。
(あれ……?)
辺りは明るく、そよそよとハート柄のカーテンがそよいでいる。
ハートの時計。ハートのクッション。
間違いなく、自分の部屋だ。
(涼しい……どうして……)
浮いていた額の汗をぬぐう。窓から入る風は涼しい。
(すごく、暑かったのに)
暑くて、ドキドキして、ひどく汗をかいていたはずだ。
炎竜は、火竜に戻ることができたのだろうか。
再び蒼の国を巡るようになったのだろうか。
……私は?
いや、違う。私、ではない。
それはミンネの話だ。
「夢……?」
とても、長くてリアルな夢だった。
自分の手を見て、足を見る。
手には石刀はないし、服も見慣れた水色のストライプのTシャツを着ていた。
つまり、リノは蒼の国の運命を担ってもいない。
「あぁ、よかったぁ」
ごろん、とリノはベッドの上で大の字になった。
(どこまで夢?)
リノは身体を起こし、部屋の中を見渡す。
時計がさしているのは、午後四時半。
夏休みは? 塾は?
あまりにリアルな夢だったので、現実と区別がつかない。
ベッドから下りて、塾に行く時に使っている、ネイビーのリュックからスマホを出す。
スマホの画面には、七月二十八日(土)と表示されている。
(お祭りの日だ)
机の上には、塾のテキストとノートが置いてある。
塾が終わって、家で宿題をしているうちに、疲れて寝てしまったようだ。
もう何日も寝ていたような気がする。ノートを見れば、勉強した内容は思いだせるが、とても遠いことのように思えた。
ふわ、とあくびをして、伸びをする。
蒼の国を救うのに比べたら、受験の方が気楽だ。
命の心配をしなくていいし、なにより得意分野なところがいい。
算数の宿題が、残り二問。十分もあれば終わるだろう。
喉がかわいたので、ひとまず麦茶を飲むことにした。
キッチンに下りて、いつものコップで麦茶を飲んでいると、二階から音がする。
ガチャ、バタバタ、と騒がしい音と共に「やったー!」と声がした。
「どうしたの、ママ?」
階段の踊り場に、祥子の姿が見えた。
「今、送った! 脱稿! やった! 終わった!」
踊り場でくるくる、と回ってから、祥子は残りの階段を下り、リノをぎゅっと抱きしめた。
「〆切、明日じゃなかったっけ? 夜までかかるって言ってたよね。大丈夫? もう終わったの?」
「終わったの! ビシッとラストも決まったし、最高。今日は、どこかにご飯食べにいこう。お寿司がいい? 焼き肉? イタリアン? 化粧してこなくちゃ。あ、でも、宿題は?」
「大丈夫。あと十分で終わるから」
「じゃ、二十分後に玄関集合ね」
足に羽が生えたような軽やかさで、祥子は階段を上がっていく。
「ね、ママ!」
「なに?」
二階の廊下から、声だけが聞こえる。
「あのお話、どうなったの? 蒼の国のミンネの話! ハッピーエンド?」
「もちろん」
「ミンネはどうなるの?」
「ハッピーエンドっていうのは、お話が終わっても、きっとこの子たちなら大丈夫、って本を閉じられる終わり方ってこと。本ができるの楽しみにしてて。リノのアイディアも、いくつか使わせてもらったから。ありがとうね。助かったわ」
話しながら、少しずつ声が遠くなっていく。ガチャ、と音がして、祥子は部屋のドアを閉めた。
そうだ。ハッピーエンドとは、安心して物語を手放せることだ。
(ちゃんと、全部うまくいったって、ってことだよね)
勇気と知恵を持ったミンネならば、きっと次の長として、トトリ村を立派に率いていくに違いない。あの、富良野のネックレスを身につけた美しい勇者ならば。
自然と、リノの口の端は持ち上がっていた。
「さ、なに食べに行こうか!」
玄関に鍵をかけ、祥子はハイヒールのかかとをカツッといわせた。
化粧をして、白と紺のカシュクールのワンピースを着た祥子は、家にいる時とは別人のように見える。
今日はリノも少しだけおしゃれをした。
白いノースリーブのブラウスに、中にパニエの入った水色のスカート。
大事にしまっていた、富良野のおばあちゃんにもらったネックレスは、どうしても見つからなかった。
今度会ったら、素直になくした、と言って謝ろう。勇者が国を救うために必要だったから、あげてしまった、とはさすがに言えない。
「駅前のあたり、少しブラブラして、ご飯食べてって感じかな。なにかしたいことある?」
「ママ」
「ウィンドーショッピングのあと、お寿司は? パスタの方がいい?」
「私、お祭りにいきたい」
気持ちを言葉にするのに、少し勇気が要った。
「え? もしかして、そこの商店街の?」
でも祥子は火竜ではないし、リノも力を失った青き血を持つ者ではない。
言葉は通じる。それに、自分たちは家族だ。
「うん。浴衣が着たい。ママと一緒に、パパを手伝いにいきたい。それから、一緒に花火を見て――レモネードが飲みたい」
祥子はリノの顔を見て、それから商店街のある方向を見て、家を見上げて、ふぅ、とため息をついた。
「……達郎さん、今頃、忙しくしてるかな」
「そうだね。きっと」
調子をあわせてそうは言ったが、あの商店街に来る人といえば、近所に住んでいる人たちくらいのものだ。
それも花火に合わせて集まってくるので、夕方まではガラガラだ。
「手伝いにいこうかな」
祥子もそのくらいはわかっているはずだ。少しいたずらっぽく笑っている。
「うん」
リノも笑った。手が差し出される。
手をつないで歩くなんて、久しぶりだった。
住宅街を抜けて、『タツロー』を目指す。
「あれ? ずいぶん人がいるね」
「ほんとだ」
今まで見た事がないくらい――夢の中のお祭りをのぞいて――人が集まっている。
「あらら。これ、大変ね」
「急ごう、ママ」
歩いている人たちは、若者が多い。ふだん、商店街にいる人たちとは、層が違っていた。
『タツロー』の前にも人がたくさん並んでいる。
店の前では忙しそうに、達郎が働いていた。
「あれ? 祥子さん? どうしたの?」
「ちょっと待ってて、手伝うから」
「え? あ、ありがと。助かるよー」
「もう、呼んでくれればよかったのに。家族なんだから」
「仕事、大丈夫なの?」
「見ての通り。ちょっと待ってて!」
仕事の進み具合は、祥子の外見から判断できる。達郎はメイクをばっちりした妻の姿を見て、リノに「ママ、仕事終わったんだね」と言っていた。
祥子は、せっかくセットした髪だけれど、ゴムでひとつにまとめてしまった。ハイヒールも脱いで、サンダルにはきかえる。エプロンもして、あっという間に『タツロー』のスタッフの姿になった。
「リノ。サナエさんのとこ、行っといで」
「いいの? 忙しいのに」
「大丈夫。パパが喜ぶよ。私も嬉しい。毎年の楽しみだもの」
うん、と大きくうなずいて、祥子に渡されたお金を握りしめたリノは「いってきます!」と手を振り、走り出した。
小笠原きもの店に走り、花火の浴衣を着付けしてもらった。
店への帰り道、きもの店のチラシを配るハヤトに行きあった。
「あ、リノちゃん。久しぶり。今年の浴衣もかわいいね」
相変わらずのパンクな髪色で、耳と鼻に派手なピアスをしている。毎年のことながら、浴衣が全然似合っていない。
「こんにちは、ハヤトくん。今日はすごい人だね。こんなに混んでる商店街、初めて見た」
「それがさー、昨日、幽霊騒ぎがあってさ。神社で。知らない?」
ドキン、と心臓が大きく動いた。
「火の玉が出たんだって。それで昼からこの騒ぎ。俺も花火の頃になったら行ってみようと思ってさ。すげぇ動画撮れるかもしれないし」
笑顔で言うハヤトに、リノは笑った。
「ホンモノ、撮れるかもしれないものね」
「そうそう。俺もいっきに有名人、みたいな! 撮れたら見せるよ!」
じゃあね、と手を振って、ハヤトは人混みの中に消えていった。
(火の玉、ほんとに出たんだ!)
ミンネはこの世界にはいないのに。
一体どんなトリックだろう?
もしかしたら、ネックレスのお礼に、あの光の玉で人を呼んでくれたんだろうか。――つい、そんな想像をしてしまう。
(あ、守屋くんたちだ)
商店街の角を、クラスメイトの男子が三人歩いているのが見えた。こちらを見て、指をさし、なにか言って慌てたように去っていく。
また、リノのことをガリ勉だと言っていたのか、それとも浴衣が似合っていない、と言っていたのかもしれない。だが、大して気にならなかった。鳥がさえずっているようなものだ。
リノは『タツロー』に戻った。達郎も祥子も、忙しそうにしていたが、リノが「ただいま」と言うとパッと明るい笑顔を見せた。
「お帰り。浴衣、似合ってるよ」
「あら、かわいいじゃない」
嬉しそうに微笑むふたりに「今手伝うね!」と満面の笑顔で伝えて、リノはエプロンを取りに店の中へ入った。
RRRR RRRR
準備を終えたタイミングで、カウンターにあるレトロな黒電話が鳴った。電話の応対は四年生になった時からOKが出ている。
「はい。喫茶『タツロー』です。……はい。あ、こんばんは。娘のリノです。……はい、わかりました。七時にアイスコーヒー五つですね」
祭りの事務局からのオーダーだった。リノはエプロンのポケットにある、メモとペンを取りだし書こうとした。
そこに見覚えのない絵が描かれている。
気にせず、リノは走り書きで『集会所 七時 アイス 5』と書いた。
「集会所までお持ちします。五つで千円ちょうどです」
電話を切り、メモを改めて見る。リノのメモを邪魔していたのは、葉っぱの絵だ。
トゲが生えていて、うねった茎もおどろおどろしい。形はハートに似ていた。
横になにか字が書いてある。リノには読めない。けれどリノにはわかった。――きっと、トーブテ、と書いてあるはずだ。
「全ッ然かわいくないじゃん!」
リノが好きなハートは、こんなにトゲは生えていないし、もっとかわいい。
どこかにいるかもしれない友達にふくれっ面で文句を言ってから、リノは少し笑った。
さぁ、店の手伝いをしよう。
カランカラン
リノは店を出て、達郎のところに急ぐ。
「パパ、じゃなかった、マスター。七時に集会所にアイスコーヒー五つお願いします」
「はいよー」
行列は、もうずいぶん少なくなった。
「メロンソーダですね。フロート? できますよ。二百円です。――マスター、メロンフロートお願いします」
祥子は笑顔で接客している。
二人とも忙しそうで、楽しそうで、リノの顔までにこにこしてしまう。
「リノ、アイスコーヒー、配達頼める?」
「了解、行ってくる」
アイスコーヒーの入った紙袋をふたつ手に持って、店を出た。
集会所からの帰り道、あたりはすっかり暗い。そろそろ、花火大会が始まる頃だ。
パン! と花火大会の開始を報せる音が鳴り、すぐにパァッと赤と緑に辺りが染まった。
わぁ、と辺りで声が上がり、ドーンと大きな音が続く。
(レモネードが飲みたいなぁ)
神社の方に、続々と人が集まっていく。
店に戻る頃には、きっと人の流れも収まっているだろう。
家族皆で飲む、あの思いきりすっぱくて甘いレモネードまで、あと少し。
了




