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第7話 女好きという、ありえない噂



「フェンネルの坊や、女を怖がらないらしいよ」


王都の下町、夕暮れの酒場。

奥の卓で、仕事帰りの女たちが額を寄せ合っていた。大工の親方、荷運びの頭、洗濯屋の女将。この国の力仕事は、たいてい女の仕事だった。


「フェンネルって、あの準男爵の」

「そう。天賦の儀で、とんでもないスキルが出たっていう」

「測定不能、ってやつでしょ。聞いた聞いた」


洗濯屋の女将が、声をさらに落とした。


「うちの姪っ子が、神殿で下働きしてるんだけどね。その坊や、週に三回も神殿に来るんだって。鎖の神官の部屋に、自分から」


「自分から?」


「まさか」


「しかも、廊下ですれ違う女の顔を、ちゃんと見るんだってさ。目を逸らさないで」


卓が静まった。

この国の男は、女の顔を見ない。見たら何かされると思っているから、いつも床か、付き添いの家族の背中を見ている。


「……それは、作り話でしょ」


荷運びの頭が、麦酒を呷った。


「男が女を怖がらないなんて、聞いたことない」


「でもさあ」


大工の親方が、杯を置いた。


「もし本当だったら」


誰も、何も言わなかった。

ただ、卓の全員が、同じことを考えている顔をしていた。




噂は、少しずつ形を持ち始めていた。

一つ一つは、取るに足らない話だった。

神殿への通いが多すぎる。臨時鑑定の申請理由が、毎回少しずつ違う。すれ違う女を、目で追う。大階段の途中で息を切らして座り込んでいたのに、その顔がやけに満ち足りていた。

それから、もう一つ。

雨の夜の翌朝、鎖の神官の祝福が、礼拝堂を埋め尽くすほどに輝いた。





蒼薔薇騎士団、本部詰所。

団長室の窓から、訓練場で剣を振る女騎士たちの声が聞こえていた。

ベアトリクス・ローエンは、机の上の報告書を指で叩いていた。

四十一歳。傷のある精悍な顔に、鍛え上げた体躯。無骨で口数が少ないが、部下の誰よりも早く朝の訓練場に立つ女だった。


「神殿の祝福が、倍になった」


報告書を読み上げたのは、副官の若い騎士だった。


「リース神官の魔力が、一晩で百六十五に。神殿は『祈りが通じた』と発表しています」


「祈り、ね」


「同じ日に、フェンネル家のご子息が神殿に泊まっています。雨で帰れなかったと」


ベアトリクスは、報告書から目を上げなかった。


「……発動条件は、確か」


「交合、および精の授受、と」


団長室が静かになった。


「まさか、とは思いますが」


副官が、言いにくそうに続けた。


「そのご子息が、自分から……ということは」


「ない」


ベアトリクスは短く言った。


「男が、自分から女に手を伸ばすことはない。この国で四十一年生きてきて、一度も見たことがない」


彼女の脳裏に、自宅の夫の顔が浮かんでいた。目の下の、取れない隈。


「……ないはずだ」




王立魔導院、院長室。

ドロテア・クラムは、統計課から回ってきた報告書の写しを読んでいた。

四十三歳。理知的な美貌に、近頃は胃薬の瓶が手放せない。


「貸出、の表示」


彼女は眼鏡を押し上げた。


「フェンネル家の子息の鑑定値に、貸出。リース神官の鑑定値に、加算。同じ日付」


統計課の課長が、机の前で畏まっていた。


「偶然の一致かと存じますが」


「統計課が『偶然』という言葉を使うのは、調べるのが面倒なときよ」


課長が黙った。

ドロテアは報告書をめくった。数字が並んでいる。きっちりと、几帳面な字で。


「この記録を書いた神官は、真面目な人ね。一画も崩れていない」


「は」


「真面目な人の記録は、嘘をつかないのよ。書いた本人が、意味を分かっていなくても」


ドロテアは報告書を閉じた。


「引き続き、回ってくる鑑定記録は全部取っておいて。フェンネル家の子息のものと、神殿の神官のものと」


「承知いたしました。……分析は、どなたに」


ドロテアは少しだけ考えた。


「手の空いている者に」


魔導院で、手の空いている者とは、予算のない者のことだった。予算のない者とは、末席の者のことだった。




七都商盟、議長室。

赤褐色の髪をきっちりとまとめた女が、帳簿を開いていた。

インクの染みのついた指先が、数字の列をなぞる。


「神殿への寄進、先月比で三割増」


秘書が報告する。


「主に、参拝者が増えたことによるものです。リース神官の祝福を一目見ようと」


「祈りが通じた神官、ね」


マルグリット・オーベールは、帳簿から目を上げずに言った。


「通じさせたのは、誰かしら」


「は」


「フェンネル家の子息の、神殿への出入り記録。手に入る?」


秘書が目を瞬いた。


「議長、まさか本気で」


「本気かどうかは、数字が決めるわ」


マルグリットはペンを取って、帳簿の余白に小さく書き込んだ。


『フェンネル、要観察』


それから、何事もなかったように次の頁をめくった。




冒険者ギルド王都本部。


昼間から賑わう一階の酒場で、受付係の女が、ギルド長に報告していた。


「……で、ロッサさんが言うには」


ギルド長のハンナ・クロイツは、書類から顔を上げた。


「ロッサが、何だって」


「『その坊や、たぶんヤりたいだけだぞ』と」


ハンナは、もう一度書類に目を落とした。


「ロッサの言うことは、話半分で聞いておけ」


「はい」


「いや。話の一割で聞いておけ」


「はい」


酒場の奥で、大剣を背負った赤毛の女が、骨付き肉に齧りつきながら笑っていた。




王宮。奥の一室。

蒼い絹張りの壁に、午後の光が落ちていた。


「陛下。ご報告がございます」


侍女長のグレタが、恭しく頭を下げた。

五十歳。白いものの混じった髪を一分の隙もなく結い上げ、背筋は定規を当てたようにまっすぐだった。

長椅子に、一人の女性が座っていた。

蒼の髪。この国の空と同じ色。肩も鎖骨も惜しげなく見せるドレスを、まるでそれが当然のように着こなしている。

女王イゾルデ・アズールは、優雅に茶碗を置いた。


「聞きましょう」


「先日、天賦の儀で稀少度測定不能の判定を受けた、フェンネル準男爵家の子息の件でございます」


「ああ。貸与の子ね」


「はい。王家の情報網を通じて、各所の話を集めました」


グレタは手元の紙片を確かめた。


「神殿への異常な頻度での来訪。女性を恐れる素振りがないこと。すれ違う女性を目で追うこと。それから、神官の魔力の急上昇」


「まあ」


「これらを総合いたしますと」


グレタは、紙片から顔を上げた。その表情は、厳粛そのものだった。


「世界的に見ても異常な、女好きの疑惑がございます」


女王が、目を丸くした。


それから、くすくすと笑い出した。

笑いは止まらなかった。肩を震わせて、口元を扇で隠して、それでも笑い続けた。


「世界的に、異常な」


「はい」


「女好き」


「疑惑、でございます」


女王は、ようやく笑いを収めた。扇の陰で、蒼の瞳がきらりと光った。


「面白いわ」


「は」


「グレタ。あの子にも、伝えておきなさい」


侍女長が、わずかに目を見開いた。


「……姫様に、でございますか」


「ええ。一言一句、そのまま」


女王は窓の外を見た。

王宮の東の棟。その一番奥の窓だけが、いつも厚い帳で閉ざされていた。


「あの子が、どんな顔をするか。少し見てみたいの」




その頃、フェンネル家の居間では。

母のマルタが、縁談の申込書の写しを広げていた。

審議会から回ってきたものだった。選り好みのご意向を、と添え状がついている。


「この方は駄目ね。お手紙の字が乱暴だわ」


一枚、脇へ。


「この方も。肖像画の目が、怖いもの」


もう一枚、脇へ。


「アルト、あなたはどう思う?」


「母上にお任せします」


アルトは窓際の椅子で、本を開いていた。

開いていただけだった。文字は一つも頭に入っていなかった。


(月曜に定期鑑定。あと三日)


(いや、木曜の臨時を入れたら、あと……)


(木曜は、もう過ぎた)


(あと三日)


「そういえばね」


母が、申込書から顔を上げた。


「今日、お買い物に出たときに、妙な話を聞いたのよ」


「妙な話」


「フェンネルの坊やは、女を怖がらないんですって。下町の方で、噂になってるらしいの」


アルトの手から、本が滑り落ちた。


「失礼」


拾い上げる。頁を開き直す。上下が逆だった。


「本当に、失礼な話よねえ」


母は申込書に目を戻した。


「あなたほど慎み深い子は、王都中探してもいないのに。誰がそんな、根も葉もないことを」


「……本当に」


(根も葉もある)


(根も葉も、花も実もある)


(バレてる!?)


「アルト、本が逆さまよ」


「……読み方を、少し変えてみようかと」




蒼薔薇騎士団、団長室。

日が傾いて、訓練場の声が止んでいた。

ベアトリクスは、もう一度報告書を読み返していた。

神殿の記録。酒場の噂。魔導院が鑑定記録を集め始めた、という話も耳に入っていた。商盟も動いている。王家の侍女長が、何やら情報を集めているらしい。

どこもかしこも、同じ一人の青年のことを調べていた。

男が、自分から女に。

ないはずだ、と彼女はさっき言った。四十一年、一度も見たことがない、と。

けれど、見たことがないのは、「ない」ということとは違う。

ベアトリクスは報告書を閉じた。

立ち上がり、窓辺に立つ。夕陽の訓練場に、片付けを終えた騎士たちの影が長く伸びていた。


「……確かめてみるか」


誰に言うともなく、彼女はそう呟いた。



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