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第53話 一級品を、王家に



「……見えない」


縁談審議会の事務室に、ペトラ・ノイマンの声が響いた。

声だけが、響いた。

姿は、見えなかった。

書類の山の、向こう側にいたからだ。

机の上に積み上がったフェンネル家の案件の書類は、もう山ではなかった。

壁だった。

机の端から端まで。天板から、座ったペトラの頭の上まで。

ペトラは、その壁の向こうで、椅子に座っていた。

眼鏡を、押し上げていた。


「……机が、見えない」


ペトラ・ノイマン。三十八歳。


縁談審議会の担当官になって、八年。

事なかれ主義と、人一倍の出世欲。その二つだけで、ここまでやってきた。

難しい案件は、後回しにする。前例のない案件は、前例を調べてから、と言って寝かせる。寝かせているうちに、たいていの案件は、誰かが勝手に片付けてくれる。

八年間、それでうまくいっていた。

フェンネル家の案件は、違った。

誰も、片付けてくれなかった。

寝かせれば寝かせるほど、増えていった。

天賦の儀から、八か月近く。

ペトラは、一度も、この案件の審議を開いていなかった。


「ノイマン担当官」


壁の向こうから、声がした。

若い事務官の声だった。


「上役が、お呼びです」


ペトラは、椅子から立ち上がった。

壁の脇を、横歩きですり抜けた。


上役の部屋は、事務室の奥にあった。

ペトラが入ると、上役は書類から顔を上げなかった。

声だけが、聞こえた。


「ノイマン」


「はい」


「フェンネル家の件」


「……はい」


「何か月、寝かせている」


ペトラは、答えなかった。


「軍務院から、照会が来ている。神殿からも。魔導院からも。七都商盟からも。冒険者ギルドからも」


上役の声は、低かった。


「それから、王宮からも」


ペトラの背筋が、ぴんと伸びた。


「王宮の、どちらから」


「侍女長からだ。『審議の進捗について、伺いたい』と。丁寧な文面だった」


上役は、書類を一枚、机の上に置いた。


「丁寧な文面ほど、怖いものはない」


「……はい」


「ノイマン。来年の昇進の審査で、お前の名前が挙がっていた」


ペトラの指先が、ぴくりと動いた。


「この件が片付かなければ、名前は消える」


上役は、ようやく顔を上げた。


「今月中に、何とかしろ」


事務室に戻ったペトラは、書類の壁の前に立っていた。

腕を組んで。

眼鏡の奥の目が、壁を睨んでいた。

昇進。

八年間、待ち続けた昇進。

それが、この壁の向こうに、消えかけていた。


「……崩すしかない」


ペトラは、袖をまくった。

一番上の書類を、手に取った。


崩し始めて、二刻が経った。

事務室の床に、書類が並んでいた。

分類ごとに。

縁談の申込み。差し戻し。各勢力からの照会。契約報告。新規契約の申し出。一時凍結の通達と、それへの異議申し立て。

床が、見えなくなり始めていた。

ペトラは、汗をかいていた。

眼鏡が、ずり落ちていた。

それでも、手を止めなかった。

縁談の申込みの束を、さらに分類する。

伯爵家。子爵家。男爵家。騎士爵家。豪商。地方の名家。

一通ずつ、差出人を確かめていく。

申込みは、八百通を超えていた。


日が、暮れた。

事務室の燭台に、灯りを灯した。

ペトラは、まだ床に座り込んで、書類を分類していた。

若い事務官は、とっくに帰っていた。

書類の壁は、もう半分以下になっていた。

机の天板が、少しだけ見え始めていた。

ペトラは、残りの山に手を伸ばした。

一番下の方。

天賦の儀から間もない頃に届いた、最初の頃の書類。

母の差し戻しの束の、さらに下。

一通の、封書があった。

他の申込みとは、明らかに違った。

厚い、上質な羊皮紙。

封蝋は、蒼かった。

紋章が、押されていた。

アズール王家の、紋章だった。


ペトラは、その封書を手に取ったまま、動かなかった。

燭台の灯りが、蒼い封蝋を照らしていた。

封蝋の下に、署名があった。

女王陛下の、直筆の署名。

日付は、天賦の儀から、一か月ほど後。

ペトラは、封書を開いた。

中に、羊皮紙が一枚。


『稀少技能保有男性アルト・フェンネル殿に対し、アズール王家より、第一王女エリシア・アズールとの縁談を申し込む』


ペトラは、その一行を、三度読んだ。

それから、封書を床に置いた。

両手で、顔を覆った。

王家の。

申込みが。

七か月、山の一番下に。

……私の、机の上で。

指の隙間から、封書の蒼い封蝋が見えていた。


ペトラは、しばらく、顔を覆ったまま動かなかった。

それから、ゆっくりと、手を下ろした。

眼鏡を、押し上げた。

封書を、もう一度見た。

王家からの、縁談の申込み。

七か月、放置していた。

それは、事実だった。

上役に知られれば、昇進どころではない。王宮の侍女長の、丁寧な文面の照会。あれは、この申込みの、催促だったのだ。

ペトラの頭の中で、何かが、高速で回り始めた。

待って。

逆に、考えれば。

この申込みは、王家からのものだ。

王家が、フェンネル卿を欲しがっている。

フェンネル卿は、稀少度測定不能。神殿の祝福を倍にした。騎士団を強くした。七都商盟の制度改革を動かした。夢魔を討った。

この国で、今、最も価値のある男。

一級品だった。

その一級品を、王家に回せば。

ペトラの眼鏡の奥で、目が光った。

王家の縁談を、審議会が、まとめた。

その担当官は。

……私。



ペトラは、立ち上がった。

床に散らばった書類を、見下ろした。

八百通の申込み。各勢力の照会。契約報告。新規契約の申し出。異議申し立て。

全部、片付けなければならない。

今夜のうちに。


「……全部、王家案件のため、保留」


ペトラは、呟いた。

それから、机に向かった。

天板が、半分だけ見えていた。

羊皮紙を一枚、広げた。

ペンを、取った。


夜が、更けていった。

事務室の燭台が、一本、また一本と燃え尽きていった。

ペトラは、書き続けていた。

縁談の申込みへの返書。


『本件、王家案件のため、審議を保留いたします』


八百通。

一通ずつ、署名をして、封をした。

各勢力の照会への返書。


『本件、王家案件として、近日中に審議を行います』


契約報告への受領書。新規契約の申し出への返書。異議申し立てへの回答。

全部、同じ一文で、片付けた。


『王家案件のため』


夜明けが、近づいていた。

事務室の窓が、ほんのりと白み始めていた。

ペトラは、最後の一通に、封をした。

ペンを、置いた。

机の上を、見た。

天板が、見えていた。

端から端まで。

書類の壁は、どこにもなかった。

床の上に、返書の束が、きれいに積み上げられていた。

八か月分の、案件が。

一晩で。

ペトラは、椅子の背にもたれた。

眼鏡を外して、目頭を揉んだ。

それから、眼鏡をかけ直した。

机の真ん中に、一枚だけ、羊皮紙が残っていた。

王家の、蒼い封蝋の封書。

その横に、新しい羊皮紙が一枚。

ペトラが、最後に書いたものだった。


『稀少技能保有男性アルト・フェンネルの縁談に関する、審議の開催について』


朝。

上役の部屋の扉を、ペトラが叩いた。


「入れ」


ペトラは、中に入った。

一睡もしていなかった。

眼鏡の奥の目の下に、隈ができていた。

髪が、少しだけ乱れていた。

それでも、背筋は、まっすぐに伸びていた。

上役が、顔を上げた。

ペトラの手に、二枚の羊皮紙があった。

王家の封書と、審議の開催の通知。

ペトラは、それを、上役の机の上に置いた。

一礼する。


「フェンネル家の件」


ペトラは、言った。

声が、少しだけ掠れていた。

徹夜明けの声だった。

それでも、はっきりと、言った。


「本件、王家案件として処理いたします」



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