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第52話 迫られない、という悩み


フェリクスの新居は、王都の東の外れにあった。

小さな屋敷だった。

白い漆喰の壁に、蔦が這っていた。門をくぐると、庭いっぱいに、秋の花が咲いていた。

菊。秋桜。竜胆。それから、名前の分からない、小さな白い花。


「アンネが、全部植えたんだ」


フェリクスが、庭を見回しながら言った。

いつもの眠そうな目が、少しだけ誇らしげだった。


「僕の【園芸】より、ずっと上手いんだよ。スキルなんて持ってないのに」


庭の奥で、一人の女性が、花の手入れをしていた。

麦わら帽子をかぶって、土のついた手袋をはめて。しゃがみ込んで、菊の根元の土を、丁寧にならしていた。

フェリクスの婚約者、アンネだった。

アンネは、門の方を振り返った。

男が四人、門のところに立っているのを見て、少しだけ目を見開いた。

それから、帽子のつばに手をかけて、小さく会釈した。

近づいてこなかった。

その場から、一歩も動かずに。


「……優しい人だろう」


フェリクスが、小さく言った。


「男が四人もいたら、女は怖いだろうって、近づかないでいてくれるんだ」


フェリクスの新居の客間で、男が四人、茶を飲んでいた。


アルト。ユリウス。フェリクス。トビアス。


天賦の儀の日、控えの間で並んで座っていた四人だった。

付き添いの家族たちは、別室で待っていた。アンネが、焼き菓子を出してくれたらしい。別室の方から、ときどき笑い声が聞こえていた。


「……で、ユリウス殿は」


アルトが聞くと、ユリウスは茶碗を置いた。

顔色が、よかった。

天賦の儀の後、縁談の嵐で痩せこけていた頬に、肉が戻っていた。金の巻き毛にも、艶が戻っていた。


「おかげさまで」


ユリウスは、少しだけ苦笑した。


「申込みが、減ったんだ」


「減った」


「ああ。半分以下に」


ユリウスは、アルトを見た。


「……アルト殿の、おかげだ」


「私の」


「世の女性の関心が、すっかりアルト殿に移ったのでね」


ユリウスは、肩をすくめた。


「夢魔を討った英雄。神殿の祝福を倍にした男。騎士団を強くした男。女を怖がらない男、という噂まである。……そんな男がいるなら、【剣聖の器】の伯爵家の嫡男など、二番手、三番手だ」


彼は、深く息をついた。


「門の前で、使者同士が喧嘩することも、なくなった。母上が申込みを読み上げる時間も、半分になった。夜、眠れるようになった」


ユリウスは、茶碗を持ち上げた。


「感謝している。心から」


(……感謝されてる)


(俺のせいで、ユリウス殿の縁談が、減った)


(それを、感謝されてる)


「……それは、何よりです」



「僕は、来春、結婚するよ」


フェリクスが、言った。


「アンネと。下限は一名だから、アンネだけ」


彼は、窓の外の庭を見た。

アンネが、まだ菊の手入れをしていた。


「毎朝、一緒に庭に出るんだ。アンネが土を耕して、僕が種を蒔く。それだけ」


フェリクスは、少しだけ笑った。


「それだけで、いいんだ」


アルトは、窓の外を見た。

麦わら帽子の女性が、しゃがみ込んで、花の根元を見つめていた。

フェリクスに、一度も迫らない人。怯えていたら、一歩下がってくれる人。


(……これが、母上の、願った人生だ)


いいスキルで、優しい奥さん一人と、穏やかに。

天賦の儀の朝、母と姉たちが、口を揃えて言った。

それを、フェリクスが、生きていた。


「僕は……」


トビアスが、膝を抱えたまま言った。

客間の椅子の上で。いつものように。


「まだ、です……」


「まだ」


「顔合わせ、あれから二回ありました。……二回とも、駄目でした」


トビアスは、膝に顔を埋めた。


「アルト殿の助言、試してみたんです。震えたまま、帳簿の話をずっと」


「……どうでしたか」


「一人目は、途中で帰りました」


「……」


「二人目は、最後まで聞いてくれました。でも、最後に、『帳簿の話以外は、何かないの』って」


トビアスは、膝の間から、恨めしそうな目でアルトを見た。


「ないです、って答えました」


(それは、駄目だ)


(いや、俺の助言が、駄目だったのか)


「……申し訳、ありません」


「いえ……」


トビアスは、また膝に顔を埋めた。


「二人目の方、帳簿の話は、ちょっと面白そうに聞いてくれてたんです。……それだけが、救いで」


話題が、アルトに移った。


「それで、アルト殿」


ユリウスが、身を乗り出した。


「王家の茶会に、何度も招かれていると聞いた」


「……二十回ほど」


「二十回」


三人が、顔を見合わせた。


「それに、女王陛下の私室に、一人で呼ばれたとも」


「……耳が早いですね」


「王都中の噂だよ」


フェリクスが、言った。


「王家が、アルト殿を王配に迎えたがっている、って」


アルトは、黙っていた。

否定は、しなかった。


「大丈夫なのか」


ユリウスが、真剣な顔で言った。


「王家の女性は、皆、強いと聞く。【臣従の冠】とかいう血統のスキルで。……王配殿下は、あの隈だ」


「……ご覧になったのですか」


「一度だけ、遠目に。父上の、宮廷の会合で」


ユリウスは、少しだけ身を震わせた。


「あれは、二十人の妻を娶った父上の友人より、ひどかった」


アルトは、茶碗を手に、少しだけ黙っていた。

それから、言った。


「……一つ、相談しても、いいですか」


三人が、アルトを見た。

アルトが、相談を持ちかけるのは、初めてだった。

天賦の儀から、半年。三人は、いつもアルトを心配していた。アルトは、いつも「大丈夫です」と答えていた。


「……迫ってこない人が、いるんです」


アルトは、言った。


「王家の茶会で、何度も会っているのに。一度も、迫ってこない。身を寄せない。囁かない。手に触れない。香りも、纏わない」


三人が、黙って聞いていた。


「他の女性たちは、皆、迫ってきます。誘いの作法を、全力で。でも、その人だけは、何もしてこない。一杯だけ茶を飲んで、席を立つ」


アルトは、茶碗を見下ろした。


「……その人のことが、気になって、仕方がないんです」


客間が、静まり返った。

三人が、顔を見合わせた。

それから、ユリウスが、慎重に言った。


「……それは」


「はい」


「普通では?」


「普通、と」


「ああ」


ユリウスは、首を傾げた。


「迫ってこない女性。……それは、男にとって、一番の安らぎだろう」


フェリクスが、頷いた。


「僕がアンネを選んだのも、迫ってこないからだよ。怯えていたら、一歩下がってくれる。それが、どれだけありがたいか」


「僕も……」


トビアスが、膝の間から言った。


「迫ってこない人なら、怖くないです……」


三人が、アルトを見ていた。

当然のことを、当然のように。

アルトは、三人の顔を見回した。


(……そうか)


(この世界の男にとっては、迫られないことが、普通なんだ)


(迫られないことが、安らぎなんだ)


(俺だけが、迫られないことで、眠れなくなってる)


「……そう、ですね」


アルトは、穏やかに微笑んだ。


「普通、ですね」


「ただ」


ユリウスが、少しだけ眉をひそめた。


「アルト殿の場合、少し、事情が違うのかもしれないな」


「事情」


「アルト殿は、鎖の神官が怖くないと言っていただろう。以前、僕の屋敷の茶会で」


(あ)


「いや、むしろ、と言いかけていた。……冗談だと言っていたが」


三人の視線が、アルトに集まった。

アルトは、茶碗を口に運んだ。


(あれ、覚えてたのか)


「……冗談、でしたので」


「本当に?」


フェリクスが、聞いた。

いつもの眠そうな目が、今日は、少しだけ鋭かった。


「アルト殿。遠征のとき、夢魔の森で、何かいろいろ叫んでいたと聞いたよ。ネーベルフルトの娘たちが、王都で話してるんだ。殿方が、女の人のことを、最高だとか、かわいいとか」


(広まってる)


(ネーベルフルトから、王都まで、広まってる)


「……精神を、貸していたので」


アルトは、穏やかに言った。


「普段とは、少し、違う状態で」


「何を、叫んだんだ」


ユリウスが、身を乗り出した。

アルトは、少しだけ迷った。

それから、ほんの一部だけ、言った。


「……神官殿の鎖が、毎回、最高だとか」


客間が、凍りついた。


「騎士殿の、跪く角度が、完璧だとか」


ユリウスの手から、茶碗の受け皿が滑った。


「研究員殿の、脇が」


フェリクスの眠そうな目が、完全に開いた。

トビアスが、膝を抱えたまま、椅子ごと後ろにずり下がった。


「……脇が?」


ユリウスが、かすれた声で聞いた。


「……いい、と」


三人が、揃って、ドン引きしていた。

ユリウスは、受け皿を拾い上げるのも忘れていた。フェリクスは、口を開けたまま固まっていた。トビアスは、ずり下がった位置から、さらに半歩下がった。


「……アルト殿」


ユリウスが、絞り出すように言った。


「それは、精神を貸していたから、だよな?」


「……はい」


「普段は、そんなこと、考えていない、よな?」


アルトは、穏やかに微笑んだ。

答えなかった。

ユリウスが、両手で顔を覆った。


しばらくして、ユリウスとトビアスが、別室の家族の様子を見に行った。

客間に、アルトとフェリクスの二人が残った。

フェリクスは、窓の外を見ていた。

庭で、アンネが、まだ花の手入れをしていた。


「アルト殿」


フェリクスが、窓の外を見たまま言った。


「はい」


「さっきの、迫ってこない人の話」


「……はい」


「その人の話をしているとき」


フェリクスは、ゆっくりと振り返った。

いつもの、眠そうな目だった。

ただ、その目が、まっすぐにアルトを見ていた。


「君、普通の顔をしてたよ」


アルトは、目を瞬いた。


「……普通の、顔」


「うん」


フェリクスは、少しだけ笑った。


「鎖の話とか、脇の話とか、してるときは、なんていうか、すごく遠い顔をしてた。僕らには分からない、どこか別の世界の顔」


「……」


「でも、迫ってこない人の話をしているときだけ、君は、普通の顔をしてた」


フェリクスは、窓の外のアンネを、もう一度見た。


「僕が、アンネの話をするときと、同じ顔」


アルトは、何も言えなかった。


(……普通の、顔)


(あの人の話をするときだけ)


窓の外で、アンネが立ち上がった。

麦わら帽子のつばを持ち上げて、客間の窓を見た。

フェリクスと目が合って、小さく手を振った。

フェリクスも、手を振り返した。

眠そうな目を、少しだけ細めて。

アルトは、その顔を見ていた。


(……)


それ以上、内心は、言葉にならなかった。


その夜。

縁談審議会の事務室。

灯りが、一つだけ灯っていた。

ペトラ・ノイマンの机の上の、燭台だった。

ペトラは、もう帰っていた。

燭台の灯りは、消し忘れだった。

その灯りが、机の上を照らしていた。

正確には、机の上にあるはずの、何かを。

書類の山だった。

一段目。二段目。三段目。四段目。

その上に、五段目。六段目。

フェンネル家の案件の、書類の山。

縁談の申込み。差し戻し。照会。契約報告。新規契約の申し出。一時凍結の通達。凍結への異議申し立て。

山は、机の端から始まって、いつの間にか、机の真ん中まで広がっていた。

真ん中から、反対の端まで。

机の天板が、どこにも見えなかった。

燭台の灯りが、書類の山の、一番上の一枚を照らしていた。

その一枚が、夜風に吹かれて、かさりと揺れた。

ペトラの机は、もう、机の形をしていなかった。



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