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第31話 新商品



「新商品の試着を、お願いしたく」


七都商盟の、仕立て部の応接間だった。

扉が開いて、マルグリットが入ってきた。

アルトは、椅子から立ち上がりかけて、そのまま止まった。


(……え)


彼女は、見覚えのある形の服を着ていた。

見覚えがあるといっても、この世界で見たことはなかった。

上下揃いの、濃紺の仕立てだった。

腰で絞った上着。肩の線がまっすぐで、襟が細く折り返してある。前は、釦が二つだけ。

その下に、白いシャツ。襟の立った、糊のきいた白。首元の一番上の釦だけが、開いていた。

そして、裾。

上着と同じ濃紺の生地が、腰から膝まで、体の線に沿ってまっすぐに落ちていた。細い。歩幅が狭くなるくらいに。

膝の少し上で、裾が終わっていた。

その下に、薄い、黒い靴下。足首から膝の上まで、肌が透けて見えるほど薄い。

踵の高い、黒い革の靴。

赤褐色の髪は、いつもよりきっちりとまとめてあった。手には、革装の帳簿が一冊。


(スーツ)


(タイトスカート)


(ストッキング……っぽいもの)


(ヒール)


(——前世の、OLさんだ)



「先日、フェンネル卿から伺ったお話をもとに、仕立てさせました」


マルグリットは、応接間の真ん中に立った。

背筋を伸ばす。帳簿を胸の前に抱える。


「異国の商人の装い、ということでしたので。上下揃いの細身の仕立て。白い襟の下着。腰で絞った上着。女性は、膝丈の、細い裾」


彼女は、自分の服を見下ろした。


「……合っていますか」


アルトは、口を開いた。

閉じた。

もう一度、開いた。


「……おおむね」


声が、少しだけ掠れた。


「おおむね、合っています」


「よかった」


マルグリットは、微笑んだ。

商談用の、隙のない微笑みだった。

付き添いのエルゼが、アルトの隣で目を丸くしていた。


「……変わった服ねえ」


エルゼは、正直に言った。


「足が、ずいぶん出ているわね。それに、あの裾じゃ歩きにくそう」


「ええ」


マルグリットは、あっさりと頷いた。


「この国の女性には、まず売れないと思います」


「では、なぜ」


「試しに、です」


マルグリットは、帳簿を開いた。



「この服の形は、当盟の誰も見たことがありませんでした」


彼女は、淡々と説明した。


「仕立て部の職人たちも、最初は首を傾げていました。こんな細い裾では歩けない、こんな薄い靴下では寒い、こんな襟では首が詰まる、と」


彼女は、裾の端をつまんだ。


「それでも、作らせてみました。新しい形というのは、作ってみなければ、売れるかどうか分かりませんので」


それから、アルトを見た。


「ですので、ご意見を伺いたいのです」


「意見」


「売れるかどうか。殿方の目から見て、どう思われるか」


マルグリットは、帳簿のペンを構えた。

真顔だった。

商談の、真剣な顔だった。


「率直に、お願いします」


(率直に)


(率直に言ったら、終わる)


(でも、何か言わないと)


アルトは、穏やかな顔を作った。

十八年分の演技を、総動員した。


「……そうですね」


彼は、顎に手を当てた。考え込むふりをした。


「まず、上着の肩の線が、とても良いと思います。まっすぐで、体が引き締まって見える」


マルグリットのペンが、走った。


「白いシャツとの対比も、清潔な印象で」


ペンが、走った。


「それから……」


アルトの視線が、下がった。

上着の裾。腰の線。そこから、膝の上まで、まっすぐに落ちる濃紺の生地。

その下の、黒く透ける脚。


「……裾の、長さが」


声が、ほんの少しだけ止まった。


「とても、絶妙かと」


マルグリットのペンが、走った。


「絶妙、と」


「ええ。膝の、少し上というのが」


「少し上、が絶妙」


(なんで復唱するの)


(記録されてる)


(全部、記録されてる)


「歩いてみましょうか」


マルグリットが言った。


「実際に動いたときの印象も、伺いたいので」


彼女は、応接間の端まで歩いていった。

細い裾のせいで、歩幅が狭かった。

一歩。一歩。踵の高い靴が、床の上で小さな音を立てる。

かつ。かつ。かつ。

腰が、歩くたびにわずかに揺れた。細い裾が、その揺れに合わせて、膝の上で布を張った。

応接間の端で、彼女はくるりと振り返った。

それから、戻ってきた。

かつ。かつ。かつ。


(……っ)


(音……)


(ヒールの、音……)


彼女はアルトの目の前で止まって、帳簿を胸に抱え直した。


「いかがでしたか」


「……歩き姿が」


アルトは、言葉を探した。


「凛として、見えます」


「凛として」


ペンが、走った。


「では、座った姿も」


マルグリットは、アルトの向かいの椅子に腰を下ろした。

細い裾で座るのは、少し窮屈そうだった。彼女は、脚を揃えて、斜めに流した。

裾が、膝の上で、少しだけずり上がった。

黒く透ける脚が、膝の上まで見えた。

彼女は、それに気づいていなかった。いや、気づいていて、気にしていなかった。この国の女は、男の前で脚を出すことを、何とも思わないのだ。男が、それを見ないから。


(わぁ……)


(脚……組んでる……斜めに……)


(SO……Erotic……)


(オフィス……ここ、オフィス……異世界の、オフィス……)


「……座った姿も、知的な印象です」


アルトの声は、穏やかだった。


「商談の席に、よく合うかと」


マルグリットは、ペンを走らせた。


試着は、一刻ほどで終わった。

マルグリットは、帳簿を閉じた。


「ご意見、たいへん参考になりました」


「お役に立てたなら」


「ええ。とても」


彼女は立ち上がって、一礼した。

それから、ふと首を傾げた。


「フェンネル卿」


「はい」


「一つだけ、伺っても」


「どうぞ」


「先ほど、私が歩いたとき」


彼女は、帳簿の頁をめくった。

さっき書き留めた頁を。


「肩の線について、十二語。シャツについて、七語。裾について、四語。歩き姿について、三語。座った姿について、九語」


(数えてる)


「そして、裾について話されているときだけ、声の調子が、少し低くなっていました」


マルグリットは、帳簿から目を上げた。

深緑の目が、まっすぐにアルトを見ていた。


「それから、私が座ったとき。膝の上に視線が向いて、戻るまでに、五呼吸」


アルトは、黙っていた。

穏やかな顔を、保っていた。


「……試用会の首飾りが、十二呼吸でしたね」


マルグリットは、微笑んだ。

商談用の微笑みではなかった。

もっと、ずっと、楽しそうな顔だった。


「つまり、この服は、売れる見込みがあります」


「……売れる」


「この国の女性には、まず売れません。でも」


彼女は、帳簿を胸に抱いた。


「売る相手が、一人いれば十分ですので」


マルグリットは、応接間を出ていった。

扉が閉まる。

エルゼが、アルトの袖を引いた。


「……ねえ、アルト」


「はい」


「あの方、何の話をしてたの」


「新商品の、評判の話かと」


「売る相手が一人って」


「……さあ」


アルトは、閉じた扉を見ていた。


(最初から、全部、計算ずくだった)


(俺に、この服の話をさせたのも)


(この服を着て、見せたのも)


(俺が、何語話して、何呼吸見てたかも)


(全部)


(……この人、怖い)


(怖いけど)


(すっごく、いい)



応接間を出て、マルグリットは仕立て部の廊下を歩いていた。

かつ。かつ。かつ。

細い裾。踵の高い靴。慣れない歩き方だった。

廊下の角を、曲がった。

誰もいないことを、確かめた。

それから、壁に額をつけた。

ごつん、と小さな音がした。

帳簿を、胸に抱えたまま。濃紺の上着の肩が、小刻みに震えていた。

計算ずくの、はずだった。

あの方がどういう方かは、二か月前から分かっていた。十二呼吸。どんな服なら刺さるかも、先日の雑談で分かった。分かったから、仕立てさせた。

着て見せれば、反応が出る。反応が出れば、記録できる。記録できれば、次の手が打てる。

全部、計算通りに進んだ。

あの方の目は、ちゃんと膝の上で五呼吸止まった。

ただ、一つだけ、計算に入っていなかったことがあった。

自分の心臓の方だった。

あの方が、「裾の長さが、とても、絶妙かと」と言ったとき。あの低い声を聞いたとき。

帳簿のペンが、一瞬だけ、紙の上で止まった。

五呼吸のあいだ、見られていると分かっていたとき。脚を斜めに流したまま、動けなかった。

計算外だった。

マルグリットは、壁に額をつけたまま、しばらく動かなかった。

濃紺の上着の下で、香水の匂いの奥から、焼き菓子のような匂いが、ふわりと立ち上っていた。

体温が、上がっていたからだ。

彼女は、それにも気づいていなかった。



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