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第26話 対照群です


リゼットの髪が、編んであった。

観察室の扉を開けた瞬間、アルトはそれに気づいた。

床まで垂れていた灰銀の髪が、一本の三つ編みになっていた。

ぎこちない三つ編みだった。編み目の太さが、場所によってばらばらだった。途中で一度、編む順番を間違えたらしく、一か所だけ不自然にねじれている。毛先の方は、力尽きたように編み目がほどけかけていた。

それでも、三つ編みだった。


「……おはようございます」


「おはようございます」


リゼットは、記録板から目を上げずに答えた。


「本日の経過観察を、開始します」


(三つ編み)


(あの、切るのが面倒で伸ばし放題だった人が)


(三つ編み)


契約が成立してから、一週間が経っていた。

観察は、相変わらず続いていた。第七号の効果の検証は、研究としてはもう十分すぎるほど終わっていた。それでも、リゼットは「継続観察を要す」と書き続けた。

院長は、何も言わなかった。

アルトは琥珀色の小瓶を飲み干して、椅子に座った。

リゼットが、計測器を貼りに来た。

身を屈める。手首に。首筋に。

その指先が、いつもと違った。

荒れていなかった。

試薬で白くひび割れていた指先が、なめらかになっていた。爪の際のささくれも、きれいに整えてあった。

それから、匂いが違った。

紙とインクの匂いは、まだあった。けれど、その奥の日向の猫の匂いが、薄くなっていた。

代わりに、石鹸の匂いがした。

清潔で、少し硬い、洗いたての匂い。


「……ハーシェル殿」


「はい」


「何か、変えましたか」


リゼットの指が、アルトの首筋の上で止まった。


「……何を、でしょうか」


「指先が。それから、髪も」


リゼットは、しばらく黙っていた。

それから、計測器を貼り終えて、椅子に戻った。

記録板を、膝の上に置いた。


「十時三分。対象、計測者の身体の変化について言及」


淡々と記録した。

それから、ペンを止めた。


「……一週間前の、夜のことです」


リゼットは、記録板を見下ろしたまま話した。


「あの夜、フェンネル殿は、私の髪がもつれていると仰いました」

アルトは、思い出した。

燭台の灯りの中で。床まで垂れた髪に指を通そうとして、途中で引っかかって。


『ずいぶん、もつれていますね』


確かに、言った。


「それから、指先が荒れている、と」


『試薬で、荒れてるんですね』


それも、言った。


「翌朝には、寝癖がひどい、と」


『……すごい寝癖ですね』


それも、言った。


(言ったな、全部)


(何も考えずに、思ったまま)


「それまで、私は自分の体を、気にしたことがありませんでした」


リゼットは、淡々と続けた。


「髪は、伸びるもの。指先は、荒れるもの。寝癖は、つくもの。どれも、研究の妨げにならなければ、どうでもよいことでした」


「……はい」


「誰も、見ていなかったからです」


彼女は、眼鏡を押し上げた。


「見られるものだと、知りませんでした」


観察室が、静かになった。


「あの夜から、私は自分の体を」


リゼットは、そこで言葉を探した。

探して、探して、一番正確な言葉を選んだ。


「……観察されるものとして、意識するようになりました」


彼女の耳が、赤くなっていた。


「髪がもつれているかどうか。指先が荒れているかどうか。寝癖がついているかどうか。それを、フェンネル殿が見るかどうか」


ペンを持つ手が、かすかに震えていた。


「そう考えると、なぜか、落ち着かなくなるのです」


彼女は、記録板を見下ろしたまま、小さく言った。


「落ち着かなくて、それが……」


その先は、言わなかった。

言わなかったが、耳の赤さが、続きを言っていた。


(……この人、恥ずかしいのが、いいんだ)


(見られて、恥ずかしくて、それが)


(淡々と、全部説明してくれてる)



「それで、手入れを始めました」


リゼットは、気を取り直したように言った。


「髪を、梳きました。三刻かかりました」


「三刻」


「理髪店に行くのと、同じ時間です」


「……切った方が、早かったのでは」


「切ると、元に戻せません」


彼女は、三つ編みの先を指でつまんだ。


「指先には、薬局で買った軟膏を塗りました。寝癖は、寝る前に髪を編むことで防いでいます」


それから、彼女は付け加えた。


「肌も、石鹸で洗うようにしました」


(だから、石鹸の匂い)


アルトは、リゼットを見た。

三つ編み。なめらかな指先。石鹸の匂い。

一週間で、ずいぶん変わった。

ただ、何かが、引っかかった。


「……ハーシェル殿」


「はい」


「白衣のボタンは」


リゼットは、自分の袖口を見た。

ボタンが、一つずつずれていた。

上から二番目の穴に、一番上のボタンが。


「ああ」


彼女は、何でもないことのように言った。


「これは、対照群です」


「……対照群」


「はい。手入れをした部位と、しなかった部位を比較するために、一箇所だけ、元の状態を残しています」


「元の状態を」


「変化の有無を確かめるには、比較対象が必要ですので」


リゼットは、淡々と言った。


(対照群)


(ボタンのずれが、対照群)


(……いや、待って)


「ボタンだけ、ですか」


アルトは聞いた。

リゼットのペンが、止まった。


「……ボタンは、毎日変えています」


「毎日」


「対照群は、毎日、一箇所だけ。昨日は、左手の小指の爪でした。一昨日は、右の耳の後ろの髪でした」


「…………」


「ボタンは、本日の対照群です」


彼女は、そこで口をつぐんだ。

何かを言い残したような、顔だった。


観察が、四十分を過ぎた頃だった。

リゼットが、計測器の位置を直すために立ち上がった。

アルトの胸元に貼った金属片が、少しずれていた。彼女はそれを貼り直そうと、腕を伸ばした。

右腕を、高く。

白衣の袖が、肘までずり落ちた。その下の、薄い夏服の袖も。

彼女の腕が上がって、脇が、アルトの顔のすぐ前に来た。

匂いが、した。

石鹸の匂いではなかった。

日向の猫だった。

一週間前と同じ。陽にあたって温まった、柔らかい毛の匂い。

腕も、指先も、髪も、首筋も、全部石鹸の匂いに変わっていたのに。

そこだけが、元のままだった。


(……え)


(ここだけ)


(ここだけ、残ってる)


アルトは、気づいたら、顔を近づけていた。


リゼットが、凍りついた。

腕を上げたまま。計測器の金属片を指先でつまんだまま。


「……フェンネル殿」


声が、淡々としていなかった。


「今、何を」


アルトは、答えなかった。

答えられなかった。

日向の猫の匂いが、すぐそこにあった。一週間、薄くなっていた匂い。どこを探しても、もう見つからないと思っていた匂い。

それが、ここに。


(ここが一番……)


(ここが、一番、この人の匂いがする……)


(ありがとうございます……)


「……計測」


リゼットの声が、震えていた。

腕を上げたまま、彼女は動けずにいた。耳が、真っ赤だった。耳だけではなかった。首筋も、頬も、上げた腕の内側まで。

淡々とした顔が、完全に崩れていた。

アルトは、初めて見た。

この人の、崩れた顔を。


「……計測を」


リゼットは、ぎゅっと目を閉じた。


「計測を、中断します」


彼女は腕を下ろした。

計測器の金属片が、床に落ちた。

拾わなかった。

彼女は記録板を胸に抱えて、観察室の隅まで歩いていった。壁の方を向いて、立ち止まった。

背中が、小刻みに震えていた。


「……対照群、です」


壁の方を向いたまま、彼女は言った。

蚊の鳴くような声だった。


「本日の、二つ目の、対照群です」


「……二つ目」


「ボタンは、一つ目です」


(ボタンが、カモフラージュだった)


アルトは、椅子の上で、穏やかな顔をしていた。


「……失礼、いたしました」


その週の終わり。

院長室の机の上に、報告書が置かれていた。

『件名:第七号継続服用時の経過観察に関する週次報告日時:第五週各日十八時より記録者:研究棟リゼット・ハーシェル

観察事項一、対象の疲労値、引き続き低水準で推移二、計測者の身体の手入れに伴い、対象の反応に変化を確認(髪、指先、肌の状態について、対象の言及あり)三、対照群の設定について手入れの効果を比較するため、毎日一箇所を未処置とした本週の対照群:白衣の釦(月〜金)、および■■■■■■(木)四、木曜十八時四十二分、対象が■■■■■■■■■■■■に接近■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■計測を一時中断五、継続観察を要す』


ドロテア・クラムは、その報告書を三度読んだ。

それから、四項目めの黒塗りを、指でとんとんと叩いた。

机の前に、リゼットが立っていた。

三つ編みだった。白衣のボタンは、一つずつずれていた。


「ハーシェル」


「はい」


「この削除箇所は?」


リゼットは、眼鏡を押し上げた。

いつも通りの、淡々とした顔だった。

ただ、耳だけが、少し赤かった。


「研究上の、機密です」


院長は、黒塗りを見つめていた。

それから、胃のあたりを押さえた。


翌朝。

研究棟の宿舎の洗面台の前で、リゼットは石鹸を手にしていた。

鏡の中の自分を、見ていた。

右腕を、上げる。下ろす。

もう一度、上げる。

石鹸を、右手から左手に持ち替えた。左手から、右手に戻した。

洗えば、石鹸の匂いになる。洗わなければ、元のままだ。

対照群として、残すべきか。比較対象は、もう十分に記録が取れたのではないか。いや、まだ一例だけだ。一例では、統計的に意味をなさない。

それに。

リゼットは、昨日の観察室を思い出していた。

あの人の顔が、すぐそこにあった。あの人の息が、肌に触れていた。

計測を中断するしかなかった。

あれをもう一度、と考えただけで、鏡の中の自分の顔が、見る間に赤くなっていった。

石鹸を、右手から左手に持ち替えた。

洗面台の前に立ってから、四分が経っていた。

統計課の机に着く時刻は、九時ちょうど。このままでは、五年間で初めての遅刻になる。

リゼットは、石鹸を洗面台に置いた。

腕を下ろした。


「……対照群は、継続します」


誰もいない洗面所で、彼女はそう呟いた。

鏡の中の顔は、耳まで赤かった。



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