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第24話 これも、記録してよろしいですか


経過観察は、ついに九十分に延び、当たり前になっていた。


「データの安定のため、です」


リゼットは、もう理由を言うとき、記録板から顔を上げなかった。

夕刻の観察室。窓の外が、茜色から藍色へ変わりかけていた。

比較実験が終わってから、一週間が経っていた。

実験の日々のあいだ、観察は昼に行われていた。実験が終わると、観察は夕刻の最後の枠に移った。

研究棟の他の部屋は、もう灯りが消えている。扉の外の長椅子では、付き添いのヘルガが揚げ菓子の袋を抱えて、うとうとしていた。


琥珀色の小瓶を、飲み干した。

体の奥に、熱が灯る。

いつもの感覚だった。疲れが溶けて、四肢に力が戻ってくる。鉛のようだった肩が、ふっと軽くなる。


「十八時二分十秒。服用完了」


リゼットが、記録を始めた。


「計測器を、お付けします」


彼女が立ち上がって、アルトの横に来る。

身を屈める。手首に、首筋に、胸元に。金属片を一つずつ貼っていく。

この一か月で、何十回と繰り返した手順だった。

ただ、その日は、少しだけ違った。

彼女の髪が、束ねてあった。

比較実験の四日目と、同じように。紐で無理やりまとめた、下手な束ね方。あちこちから髪がはみ出して、うなじのあたりで跳ねている。

あの日以来、彼女は毎回、髪を束ねてくるようになっていた。

理由は、聞いていなかった。聞いたら、また何かが漏れそうな気がしたからだ。


「十八時三分四十秒。計測開始」


リゼットが、椅子に戻った。

その椅子は、もう机一つ分どころではなかった。アルトの椅子の、すぐ斜め前にあった。

膝と膝が、触れそうな距離だった。


十分が過ぎた。

体が、軽かった。

軽いというより、満ちていた。

第七号の効き目が、いつもより強い気がした。いや、薬は同じだ。強くなったのは、体の方だった。

この一か月、第七号を飲み続けて、疲れが少しずつ抜けていった。騎士団の訓練で、素の力が伸びた。神殿と騎士団の予定表の赤い字を、ようやくこなせるようになった。

疲労の欄が、ほとんどゼロになっていた。


(……体が、空っぽじゃない)


天賦の儀から、初めてだった。

ずっと、空っぽだった。貸して、消耗して、訓練して、また消耗して。いつも、底が見えていた。

それが今、満ちていた。

そして、満ちた体の奥で、何かが目を覚ましかけていた。


「十八時十三分。心拍、上昇。八十八」


リゼットが、淡々と記録した。


二十分。

リゼットが、記録板から顔を上げた。

眼鏡越しに、こちらを見る。表情の微細な変化を読み取るために。精度を上げるために。

アルトは、その目を見返していた。

琥珀がかった茶色の目。眼鏡が、少しずり落ちている。

白衣のボタンは、今日も一つずつずれていた。上から二番目の穴に、一番上のボタンが。

その隙間から、白衣の下の、薄い夏服の襟がのぞいていた。


「十八時二十三分。心拍、九十四」


(……っ)



三十分。

リゼットが、立ち上がった。


「脈拍を、直接確認します」


彼女は、アルトの首筋に指を当てた。

懐から、砂時計を取り出す。ひっくり返す。

砂が、落ち始めた。

彼女の顔が、すぐ近くにあった。

うなじの、はみ出した髪。日向の猫の匂い。

吐息が、首筋をかすめる。唇が、かすかに動いている。数を数えている。


(っ、っ)


砂時計の砂が、落ちきった。


「……毎分、百二」


リゼットは、首筋から指を離さなかった。

離さずに、そのまま、もう一度砂時計をひっくり返した。


「再確認します」


(……再確認)


砂が、また落ち始めた。

彼女の指先が、首筋の脈の上にあった。

冷たかった指が、少しずつ温かくなっていた。


四十分。五十分。

時間が、ゆっくりと過ぎていった。

リゼットは、椅子に戻っていた。記録板を膝に置いて、ペンを走らせている。


「十八時四十八分。心拍、百八」


「十八時五十二分。対象の発汗、顕著」


「十八時五十七分。対象の視線、計測者のうなじに向く。約五秒」


(記録されてる)


(全部)


(うなじを見てたのも)


淡々とした声だった。

その淡々とした声で、自分の全部が、秒単位で書き留められていく。

心拍も、汗も、視線も。何を見ていたかも、どれだけ見ていたかも。


(この人、全部、分かってて書いてる)


(分かってて、眉一つ動かさない)


(……それが、一番、くる)


六十分。七十分。

窓の外は、すっかり暗くなっていた。

観察室の灯りは、燭台が一つだけだった。その灯りの中で、リゼットの眼鏡が、ときどき光った。


「十九時十二分。心拍、百十五」


声が、ほんの少しだけ、掠れた。

アルトは、気づいた。

彼女の手の、ペンを持つ指先が、かすかに震えていた。

記録板の上の字は、相変わらず定規で引いたようにまっすぐだった。まっすぐなのに、ペンの動きが、少しずつ遅くなっていた。


「十九時十八分」


彼女は、そこで言葉を切った。

記録板を、見下ろしていた。

それから、顔を上げた。

眼鏡越しに、アルトを見た。


「……心拍」


彼女は、そこまで言って、止まった。

ペンが、記録板の上で止まっていた。


アルトの数値は、限界まで跳ね上がっていた。

計測器の紙の上で、ペンが端から端まで揺れていた。山脈どころではなかった。紙の幅が、足りていなかった。

リゼットは、それを記録しようとしていた。

記録しようとして、ペンを止めていた。

彼女の手首にも、計測器が貼ってあった。計測者も計測される。それが、魔導院の規程だった。

その計測器のペンも、端から端まで揺れていた。

彼女は、それを見ていなかった。

アルトは、見ていた。


(……この人も)


体が、満ちていた。

疲れが、どこにもなかった。この一か月、ずっと底に沈んでいた何かが、第七号の温かさで、ゆっくりと浮かび上がってきていた。


(自分で納入した薬で……)


(いや、俺が飲んだんだけど)


一瞬だけ、頭の片隅が冷静になった。

彼女が届けた薬が、自分の疲れを取った。疲れが取れたから、今、ずっと押さえていたものが、浮かび上がってきた。

薬が欲をくれたわけじゃない。欲は、最初からあった。疲れの下に、ずっと埋まっていただけだった。

その冷静さは、一呼吸ももたなかった。


(——無理)


(この人の、淡々とした声で、九十分)


(全部、記録されて)


(もう、無理)


アルトは、手を伸ばした。

彼女の頬ではなかった。肩でも、手でもなかった。

眼鏡だった。

ずり落ちかけた、彼女の眼鏡のつるに、指先をかけた。

リゼットが、動かなくなった。

ペンを持ったまま。記録板を膝に置いたまま。

眼鏡越しの目が、まっすぐにアルトを見ていた。

琥珀がかった茶色の目が、燭台の灯りを映して、揺れていた。

アルトは、眼鏡を、ほんの少しだけ持ち上げた。

外しはしなかった。外していいかどうかを、聞くように。

リゼットの唇が、かすかに動いた。

数を数えているのではなかった。


「……これも」


声が、掠れていた。

淡々とした声ではなかった。初めて聞く、彼女の声だった。


「これも、記録してよろしいですか」


アルトは、答えなかった。

答える代わりに、眼鏡を外した。

リゼットの手から、ペンが落ちた。

床に当たって、乾いた音が響いた。

誰も、拾わなかった。


翌朝。

統計課の片隅の机に、リゼットが座っていた。

いつもの時刻だった。九時ちょうど。机に着いて、羊皮紙を広げる。

髪は、束ねていなかった。

床まで垂れた灰銀の髪が、昨日よりも少しだけ、あちこちに跳ねていた。

白衣のボタンは、一つずつずれていた。

眼鏡は、かけていた。つるの片方が、ほんの少しだけ、曲がっていた。

彼女はペンを取った。

インクを含ませる。

羊皮紙の一行目に、定規で引いたようにまっすぐな字で書いた。


『件名:滋養強壮魔導薬・第七号の効果に関する追加知見』


二行目。


『日時:昨日十八時二分十秒より』


三行目を書く前に、ペンが止まった。

リゼットは、机の端に目をやった。

小さな簡易水晶板が、そこに置いてあった。研究棟の観察室から、今朝、持ってきたものだった。

誰も手を置いていないのに、その表面に、淡い金色の文字が残っていた。


【ステータス貸与】

契約成立:リゼット・ハーシェル

契約3/3


リゼットは、その文字をしばらく見つめていた。

それから、ペンを動かした。

三行目。


『観察事項』


その下は、まだ白紙だった。

彼女の耳が、ほんの少しだけ、赤かった。



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