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第22話 切るのは、面倒なので


経過観察の時間が、延びていった。

二回目は、四十分だった。


「データの安定のため、です」


リゼットは、記録板から目を上げずに言った。

三回目は、五十分だった。


「前回のデータに、ばらつきが見られましたので」


四回目は、六十分だった。


「……データの、安定のため、です」


(さっきも聞いた)


アルトは、観察室の椅子に座って、琥珀色の小瓶を飲み干した。

体が軽くなる。疲れが溶けていく。

第七号を飲み始めてから、二週間が経っていた。救護室で寝ていた頃が、遠い昔のようだった。訓練場では倒れなくなり、神殿と騎士団の予定表の赤い字も、なんとかこなせるようになっていた。

その代わり、週に二回、この白い部屋に来るようになった。


リゼットは、いつも同じだった。

同じ姿勢。同じ声。同じ淡々とした記録。時刻は秒まで。表情は、変わらない。

変わっているのは、少しずつだけだった。

二回目のとき、彼女は計測器を貼り直すのに、一回目より少しだけ長くかかった。三回目のとき、直接の脈拍確認が、一回から二回に増えた。四回目のとき、彼女の椅子が、机一つ分ほど、アルトの方に寄っていた。


「椅子の位置、変わりましたか」


アルトが聞くと、リゼットは記録板から顔を上げた。


「計測の精度を上げるためです」


「精度」


「表情の微細な変化を、正確に読み取るためには、距離が近い方が」


彼女は眼鏡を押し上げた。


「……データの安定のため、です」


(三回目)



五回目の観察の日だった。

部屋に入ると、リゼットが壁際の機械の前で、動かずに立っていた。

背中を向けている。


「ハーシェル殿?」


「……少々、お待ちください」


声は、いつも通り淡々としていた。

ただ、体が、少しも動いていなかった。

アルトは近づいた。

それで、分かった。

彼女の灰銀の髪が、計測器に絡まっていた。

機械の裏側の、管と金属片が束になったあたり。床まで垂れた長い髪が、その隙間に入り込んで、ぐるぐると巻きついていた。

彼女が動こうとするたびに、髪が引っ張られて、頭が機械の方へ引き戻される。


「……計測器の調整をしていたら、こうなりました」


「いつから」


「十時二分からです」


今は、十時九分だった。


「七分も」


「無理に引けば、機器が壊れますので」


リゼットは、背を向けたまま言った。


「髪を引けば、髪が抜けます。機器を引けば、機器が壊れます。どちらも、損失です」


「……では」


「解いて、いただけますか」


彼女は、首だけを少しだけ動かして、肩越しにアルトを見た。

眼鏡が、ずり落ちていた。


「私の手は、この角度では届きませんので」


アルトは、機械の裏側に回り込んだ。

膝をつく。

髪は、ひどい有様だった。

管と管のあいだに、何重にも巻きついている。一本の線を辿ろうとすると、途中で別の線と交差して、分からなくなる。


「……これは、少し時間がかかりますね」


「構いません」


リゼットは、機械に頭を引き寄せられたまま、じっと立っていた。

アルトは、髪の一房を手に取った。

柔らかかった。

手入れをしていないと聞いていた。跳ねて、うねって、あちこちに絡まる髪。

それなのに、指の間を滑る感触は、驚くほど細く、柔らかかった。

一本ずつ、管から外していく。

髪を辿るうちに、少しずつ、彼女の方へ近づいていく。機械の裏から、横へ。横から、彼女の肩口へ。


「……ハーシェル殿」


「はい」


「切ろうと思ったことは、ないのですか」


「あります」


「では、なぜ」


「切るのは、面倒なので」


淡々とした答えだった。


「切るには、理髪店へ行く必要があります。予約を取り、出向き、待ち、切ってもらい、代金を払い、帰る。その一連の手順に、少なく見積もって三刻かかります」


「三刻」


「伸ばしておけば、手順はゼロです」


(合理的なのか、ずぼらなのか)


(たぶん、両方だ)



最後の一房が、彼女の首筋の近くで絡まっていた。

管の一本が、彼女の肩口を回り込むように伸びていて、そこに髪が巻きついている。

アルトは、彼女の真後ろに立った。

手を伸ばす。彼女の肩の上で、髪を管から外していく。

近かった。

彼女の後頭部が、アルトの顎のすぐ下にあった。

灰銀の髪の匂いが、した。

紙でも、インクでもなかった。焦げた魔石でも、徹夜の茶でもなかった。

日向の匂いだった。

縁側で丸くなって眠っている、猫の背中のような。陽にあたって温まった、柔らかい毛の匂い。


(……っ)


指先が、彼女の首筋に触れた。

彼女の肩が、ぴくりと動いた。


「……失礼」


「いえ」


リゼットの声は、淡々としていた。

ただ、ほんの少しだけ、息が浅かった。

アルトは、最後の一房を管から外そうとした。

外れない。もう少しだけ、近づく。

彼女の髪に、鼻先が触れそうになった。

日向の匂いが、一気に濃くなった。

彼女の吐息が、聞こえた。浅く、規則正しく。数を数えているような。


(髪……)


(近い……)


(日向……猫……あったかい……)


(むり)


最後の一房が、外れた。


「……解けました」


アルトは一歩下がって、穏やかに言った。

リゼットが、ゆっくりと体を起こした。

首を回す。肩を回す。それから、振り返った。

眼鏡が、ずり落ちていた。


「感謝します」


彼女は眼鏡を押し上げて、記録板を手に取った。


「十時二十一分四十秒。髪の解除、完了。所要時間、十二分」


それから、一拍置いて。


「……対象の協力に、謝意を」



その日の観察は、六十分だった。

計測の合間に、リゼットは魔導院の構想を話した。


「当院では、比較実験を計画しています」


「比較」


「貸与の対象となるステータスを、日ごとに変えて、効果の違いを測ります。魔力を貸した日。体力を貸した日。知力を貸した日」


彼女は記録板をめくった。


「現在、フェンネル殿の貸出は、筋力、体力、敏捷、器用の四項目から自動的に引き出されています。神殿の記録では、リース神官への加算は魔力のみ」


「……そうなのですか」


「はい。つまり、項目を転換して貸しています。では、同じ項目から同じ項目へ貸せば、どうなるのか」


彼女は眼鏡を押し上げた。


「何が研究に活きるか、分かりません。ですので、色々と試したいのです」


その声は、淡々としていた。

けれど、ほんのかすかに、弾んでいた。

アルトはそれを聞きながら、思っていた。


(この人、たぶん、研究の話をしてるときが一番楽しそうだ)


(……顔は、全然変わってないけど)


その夜。

神殿の小鑑定室で、セラフィナが待っていた。

月曜の、定例の夕刻だった。

鑑定を終えて、記録簿に数値を書き写す。一画も、ずらさずに。

それから、彼女は燭台の灯りの中で、アルトの方へ身を寄せた。

いつものように。

その途中で、彼女の動きが止まった。


「……フェンネル様」


「はい」


セラフィナは、アルトの肩口のあたりに顔を寄せていた。

鼻先が、かすかに動いていた。


「今日は、魔導院の方に」


「ええ。経過観察で」


「……そうですか」


セラフィナは、ゆっくりと身を引いた。

それから、立ち上がって、壁際の棚の木箱を開けた。

鎖を一本、取り出した。

縛られた手で、器用に、自分の胸の上に巻いていく。いつもより、少しだけきつく。

五本目だった。


「……セラフィナ殿」


「お気になさらず」


彼女は、鎖を巻き終えて、こちらを向いた。

いつもの、柔らかい微笑みだった。


「紙と、インクと」


彼女は、小さく言った。


「それから、何か、陽だまりのような匂いがいたしましたので」


(陽だまり)


(それ、セラフィナ殿の匂いの方なんだけど)


(いや、違う、あれは日向の猫で、こっちは陽だまりのミルクで)


(似てるけど、違う)


(……なんで俺、匂いの区別がつくようになってるんだ)


セラフィナは、五本目の鎖の端を、ぎゅっと握った。

燭台の灯りを、いつもより少しだけ強く吹き消した。


翌週。

フェンネル家に、王立魔導院から正式な書状が届いた。

母が封を切って、読み上げた。


「貸与対象ステータスの比較実験への、ご協力のお願い」


母は、書状の続きを目で追った。


「実験には、既存の契約者の方々にもご協力いただきたく……神殿のリース神官、騎士団のヴァイス副長……」


母は、首を傾げた。


「契約者の方々も、一緒に?まあ、大がかりねえ」


書状の最後に、几帳面な字で一行が添えてあった。


『実験期間中の経過観察は、九十分を予定しております』


(九十分)


(ついに、九十分)


アルトは、窓の外を見た。

初夏から夏へ、陽射しが強くなり始めていた。



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