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第17話 倒れる


走り込みの、二周目だった。

アルトは、前を走るクラウディアの背中を見ていた。

束ねた黒髪が、規則正しく揺れている。一歩、一歩。乱れのない足音。

その背中が、少しずつ遠くなっていった。


(……あれ)


足が、重かった。

いつもより、ずっと。地面に吸いつくように、一歩ごとに沈んでいく。


(二周目、行けると思ったんだけど)


視界の端が、白く滲んだ。

耳の奥で、何かが鳴っていた。鐘の音のような。遠い、遠いところで。


(……三、だっけ)


(現在値、三)


クラウディアの背中が、ぐにゃりと歪んだ。

砂の地面が、斜めに傾いた。

いや、傾いたのは自分の方だった。

音は、しなかった。

アルトは、走っていたその姿勢のまま、まっすぐ前に倒れた。



目を開けると、白い天井があった。

神殿の匂いがした。乳香と、蜜蝋。それから、薬草を煮出したような、苦い匂い。


(……どこだ)


体を起こそうとして、できなかった。

腕が、動かない。動かないというより、動かし方を忘れたような感じだった。


「……お目覚めですか」


すぐ近くで、声がした。

首だけを、なんとか横に向ける。

セラフィナがいた。

寝台の脇の椅子に座って、縛られた両手をアルトの胸の上にかざしていた。手のひらの間から、淡い金色の光がこぼれていた。

治癒の祈りだった。


「神殿の、救護室です」


彼女の声は、静かだった。


「訓練場で倒れられたと、騎士団の方が運んでくださいました」


「……騎士団の」


「副長様が、ご自分で。担いで」


(担いで)


(あの人に、担がれて、ここまで)


(意識があったら、と思うと、少し惜しい)


「もう少し、じっとしていてください。治癒が、まだ途中です」


セラフィナの手のひらから、温かいものが流れ込んできた。

少しずつ。指先に、感覚が戻ってくる。

ふと、反対側に気配を感じた。

首を、もう一度動かす。

寝台の反対の脇に、クラウディアが立っていた。

直立していた。騎士服のまま。砂埃を払いもせずに。

灰色の目が、じっとアルトを見下ろしていた。



扉が開いて、年配の記録係が入ってきた。

小さな水晶板を抱えていた。救護室に備えつけの、簡易鑑定用のものだ。


「意識が戻られましたか。何よりです」


記録係は寝台の脇の台に水晶板を置いた。


「失礼して、鑑定を。手を、お借りします」


記録係が、アルトの手を取って、水晶板の上に乗せた。

自分では、まだ持ち上げられなかった。

水晶板が光る。

アルト・フェンネル十八歳男


筋力素19/貸出−9/疲労−8現在2

体力素22/貸出−11/疲労−10現在1

敏捷素18/貸出−6/疲労−7現在5

器用素23/貸出−9現在14

魔力18/知力42/精神86


スキル:【ステータス貸与】Lv12契約2/3


記録係が眉間に深い皺を寄せた。


「……体力、現在一」


誰も、何も言わなかった。


「疲労の蓄積です」


記録係は水晶板の数値を一つずつ指でなぞった。


「素の力は、伸びておられる。騎士団の訓練の成果でしょう。ですが、貸出と疲労を引いた今の体には、ほとんど何も残っていない」


手元の帳面を開いた。


「念のため、この二週間の神殿の記録を見てまいりました。定期鑑定、臨時鑑定、それから」


帳面をめくる。


「……夕刻の、ご来訪の回数を」


セラフィナの肩が、ぴくりと震えた。


記録係はそれ以上は読み上げなかった。読み上げなくても、救護室の三人には分かっていた。

月曜。火曜。木曜。金曜。

予定表の、赤い字。



「申し訳ありません」


最初に口を開いたのは、クラウディアだった。

直立のまま。深く、頭を下げた。


「私の訓練計画が、過密でした」


「副長殿」


「素の力を伸ばすことばかりを考えて、貸出の分と、その……他の日程による消耗を、正しく見積もっておりませんでした」


彼女は、頭を下げたまま続けた。


「壊さないために計画を立てたのに。壊しかけました」


声が、ほんの少しだけ揺れていた。


「指導役として、弁解の余地もありません」


アルトは、何か言おうとした。


言葉が、出てこなかった。喉にも、ほとんど力が残っていなかった。

セラフィナは、黙っていた。


治癒の光を、アルトの胸の上にかざし続けていた。その手が、少しだけ震えていた。

彼女は、思い出していた。

金曜の欄の、赤い字。七日も経っていないのに、薄れた気がしたと言って出した、臨時の申請。

鑑定だけで結構です、と言ったのに。

自分から、額を預けたこと。

セラフィナは、何も言わなかった。言えなかった。

クラウディアが謝っているのに、自分は謝れなかった。

謝ったら、あの金曜の夕刻まで、なかったことになってしまう気がした。



記録係が、救護室を出ていった。

扉が閉まる。

部屋に、三人が残った。

寝台の上に、アルト。その右に、セラフィナ。左に、クラウディア。

沈黙が、落ちた。

セラフィナは、治癒の光を灯し続けていた。クラウディアは、直立し続けていた。

二人とも、アルトを見ていた。二人とも、相手の方を見なかった。

初めてだった。

同じ部屋で。同じ男の枕元で。同じ予定表に名前を書き込んでいる二人が、こうして並ぶのは。

窓の外で、鳥が鳴いた。

それが妙に大きく聞こえるほど、救護室は静かだった。


「……副長様」


しばらくして、セラフィナが口を開いた。

目は、アルトの胸の上の、自分の手のひらに向けたまま。


「お座りになっては、いかがですか。ずっと、お立ちのままで」


「お気遣い、感謝します」


クラウディアは、直立のまま答えた。


「ですが、この方が落ち着きますので」


「……そうですか」


また、沈黙。


「リース神官」


今度は、クラウディアが言った。


「治癒の祈りは、どれほどかかりますか」


「あと、一刻ほど」


「では、私もそれまで」


「……はい」


それきり、二人は何も話さなかった。

アルトは、寝台の上で天井を見ていた。

右から、陽だまりのミルクの匂い。左から、革と鉄と、かすかな花の匂い。


(……気まずい)


(ものすごく、気まずい)


(でも、二人とも、いい匂い)


(いや、今それどころじゃない)



治癒の光が、ゆっくりと体に染みていった。

まぶたが、重くなってきた。


(体力)


アルトは、ぼんやりと考えていた。


(体力さえ、あれば)


素の力は、伸びている。十六が、二十二になった。訓練をすれば、まだ伸びる。

でも、伸びた分だけ貸して、貸した分だけ空になって、空のまま訓練をして、また倒れる。


(体力さえあれば、もっと)


もっと、貸せる。もっと、応えられる。

予定表の赤い字を、一つも断らずに済む。


(それでも、来週も、ちゃんと……)


(月曜は神殿で、火曜は騎士団で……)


(ちゃんと……行かないと……)


まぶたが、閉じた。



アルトが眠ったのを確かめて、セラフィナは治癒の光を、そっと弱めた。

彼の寝顔を、見つめる。

痩せた、と思った。儀式の日から二か月足らずで、頬の線がずいぶん鋭くなった。

それなのに、眠りに落ちる直前まで、彼は来週の予定のことを考えていた。

唇が、かすかに動いていたから分かった。月曜、火曜、と。

セラフィナは、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

反対側で、クラウディアが小さく息をついた。

セラフィナは、顔を上げた。

クラウディアも、こちらを見ていた。

初めて、目が合った。

灰色の目と、空色の目。

どちらも、何も言わなかった。

ただ、相手の目の中に、自分と同じものがあるのを見ていた。


その日の夕刻。

神殿の書庫で、記録係は救護室の鑑定報告書を清書していた。

体力、現在一。疲労の蓄積。この二週間の、来訪の記録。

清書を終えて、封筒に収める。

宛名は、いつもの慣例通りだった。


『王立魔導院統計課御中』


ただ、今回は、封筒の隅に小さな付箋が貼られていた。

統計課から、先月届いた依頼状に添えられていたものだった。


『フェンネル家子息に関する鑑定記録は、今後こちらへ直接送付されたし。統計課末席研究員リゼット・ハーシェル』


記録係は、付箋の名前を宛名の下に書き添えた。

封筒は、その日の夕方の便で、神殿を出ていった。



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