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第16話 追加申請


小鑑定室の机の上に、一枚の表が広げてあった。

羊皮紙に、細い線で升目が引いてある。横に曜日。縦に午前、午後、夕刻。

セラフィナの字だった。一画もずれていない、几帳面な字。


「供給の、予定表です」


セラフィナは、表を指先でとんとんと叩いた。


「七日を過ぎると、半分になってしまいますので。騎士団の方と、日が重ならないように」


升目の中に、文字が書き込まれていた。

月曜の夕刻に、「神殿」。木曜の夕刻に、「騎士団」。

整然としていた。週に一度ずつ。七日を空けずに、きっちりと。


「……分かりやすいですね、ありがとうございます」


セラフィナは、少しだけ誇らしげに微笑んだ。

それが、一週間前のことだった。


一週間後。

同じ表の、同じ升目に、赤い字が増えていた。

月曜の夕刻、「神殿」。火曜の夕刻に、赤で「騎士団(追加)」。木曜の夕刻、「騎士団」。金曜の夕刻に、赤で「神殿(臨時)」。


「……増え、ましたね」


アルトが言うと、セラフィナは表から目を逸らした。


「はい」


「火曜の、騎士団の追加は」


「副長様から、正式な申請書が届きました」


セラフィナは、机の引き出しから一枚の羊皮紙を取り出した。

騎士団の書式だった。クラウディアの、几帳面な字。


『連携訓練の追加の一本について(申請)理由:指示伝達の精度向上のため、週一回では反復回数が不足する所要時間:二刻以上』


(申請書)


(連携訓練の追加の一本の、申請書)


「真面目な方ですね」


セラフィナが、ぽつりと言った。


「書式が、とても整っていて」


「……ええ」


「私も、見習わなければと思いました」


セラフィナは、表の金曜の欄を指さした。

赤い字。「神殿(臨時)」。


「こちらは、私からの申請です」


火曜日。

夕暮れの訓練場で、クラウディアが跪いていた。


「本日の訓練、終了しました」


いつもの報告。いつもの作法。花の匂いが、今日も手首から立っていた。

報告が終わると、彼女は顔を上げた。


「フェンネル殿。申請の件ですが」


「……はい」


「受理、されましたでしょうか」


アルトは、少しだけ間を置いた。


「申請は、拝見しました」


「では」


「ただ、少し」


アルトは、建前を探した。

週二回の騎士団。週二回の神殿。朝は訓練。体は、正直に言えば、もう限界に近かった。


「少し、体の方が」


クラウディアが、立ち上がった。

一歩、近づいた。

跪いているときより、ずっと近い。背の高い彼女が、上からアルトを見下ろしていた。


「承知しております」


彼女は、静かに言った。


「ですので、短めに」


彼女の手が、アルトの肩に触れた。

触れてもよいかとは、もう聞かなかった。アルトが拒まなかったからだ。拒まなければ、それは無断ではない。

花の匂いが、した。


(……っ)


「指示伝達の精度を、上げたいのです」


耳元で、彼女の声がした。

報告の声ではなかった。低く、少しだけ掠れた声。


(……っ、っ)


「ご命令を、いただけますか」


彼女が、ゆっくりと膝を折った。

アルトの目の前で。見上げる位置まで。

灰色の目が、下から、まっすぐに。


(命令、いただけますか、って)


(自分から、聞きに来てる)


(跪いて)


(もう、無理)


「……仕方ありませんね」


アルトの声は、穏やかだった。

クラウディアの肩が、小さく震えた。



金曜日。

神殿の小鑑定室で、セラフィナが待っていた。

鎖は、四本だった。


「祝福の力が、少し薄れた気がいたしまして」


彼女は、机の向こうでそう言った。


「月曜から、まだ四日ですが」


「……はい」


「七日は、経っていませんね」


「はい」


セラフィナは、目を伏せた。


「でも、薄れた気がしたのです。今朝の祈りで」


彼女は、両手を胸の前で組んだ。四本の鎖が、しゃら、と鳴った。


「火曜日に、騎士団の追加の申請があったと伺いまして」


アルトは、黙っていた。


「……私の方が、先でしたのに」


小さな声だった。

聞かせるつもりのない、独り言のような声だった。

それから、セラフィナは顔を上げた。

いつもの、柔らかい顔に戻っていた。少しだけ、無理をしているように見えた。


「申し訳ありません。今のは、神官が口にすべきことでは」


「いえ」


「本日は、鑑定だけで結構です。体を、お休めにならないと」


彼女は、水晶板を示した。

アルトは、水晶板に手を置いた。

セラフィナが、横に立つ。鎖の長さいっぱいに。いつものように。

いつもより、近かった。

四本目の鎖が、彼の腕に触れていた。陽だまりのミルクの匂いが、すぐそこにあった。


「……鑑定を、始めます」


彼女の声が、耳元で震えていた。

囁き声だった。今日は、記録係はいない。


(……っ)


「筋力、十八」


吐息が、耳の縁をくすぐった。


(……っ、っ)


「体力、二十……」


彼女の声が、途切れた。

鑑定の途中で。数値を読み上げる途中で。

セラフィナが、アルトの肩に額を預けていた。

鎖越しに。縛られた腕で、抱きつくこともできずに。

ただ、額だけを。


「……すみません」

肩の上で、くぐもった声がした。


「鑑定だけと、申しましたのに」


(鑑定だけって言ったのに、自分から)


(ずるい)


(それは、ずるい)


(——ありがとうございます)


「……仕方ありませんね」


アルトの声は、穏やかだった。

燭台の灯りを、セラフィナが吹き消した。


フェンネル家の居間で、母のマルタが首を傾げていた。


「近頃、アルトの帰りが遅いのよね」


ヘルガが、揚げ菓子を齧りながら答えた。


「騎士団の打ち合わせ。副長さん、忙しい人だから」


「まあ。熱心ねえ」


「うん。すっごく熱心」


ヘルガは揚げ菓子を飲み込んで、遠い目をした。

エルゼが、刺繍の手を止めずに妹を一瞥した。何も言わなかった。



神殿の回廊で、神官長オルテンシアがセラフィナを呼び止めた。


「セラフィナ」


「はい、神官長様」


「近頃のあなたの祝福は、見事です」


神官長の皺の深い目元が、和らいでいた。


「月曜の祈りでは、礼拝堂の奥の柱まで光が届きました。参拝の方々が、あなたの祝福を受けるために、朝から列を作っているそうですね」


「……恐れ入ります」


「それに、鎖も」


神官長は、セラフィナの胸元の四本の鎖を見た。


「また一本、増やしたと聞きました。己を律する心が、深まっているのですね」


セラフィナは、まっすぐ前を見たまま頷いた。

耳が、赤かった。


「わたくしは、そろそろ考えております」


神官長は、セラフィナの肩にそっと手を置いた。


「あなたを、聖女の候補として、大神殿に推挙することを」


セラフィナの足が、止まった。


「……聖女、ですか」


「ええ。これほど信仰の輝きを示す神官は、わたくしが神殿に入って四十年、見たことがありません」


神官長は、ハンカチで目元を押さえた。


「神は、見ておられるのですね」


セラフィナは、何も言えなかった。



蒼薔薇騎士団、副長室。

机の引き出しを開けると、母からの手紙が溜まっていた。

いつもなら、そのまま閉める。

その日、クラウディアは一番上の一通を手に取った。日付は、三日前だった。

封を、切った。

便箋が一枚だけ入っていた。

いつもは三枚も四枚も書いてくる母が、一枚だけ。その一枚に、流麗な字で、たった一行。


『でかした』


クラウディアは、便箋を見つめていた。

長いこと。

それから、便箋を丁寧に畳んで、封筒に戻した。引き出しの、一番手前にしまった。

いつもより、少しだけ丁寧に。



縁談審議会、事務室。

ペトラ・ノイマンの机の端に、書類の山があった。

フェンネル家の案件だった。一段目の上に、二段目が積み上がり始めていた。


「ノイマン担当官。フェンネル家の件で、各勢力から照会が来ています」


若い事務官が、新しい束を置いた。


「照会?」


「騎士団と神殿が、それぞれ契約を結んだという報告です。これにより、対象は傷物扱いになるのではないか、縁談の申込みを取り下げるべきか、という照会が、申込み元の家々から」

ペトラは眼鏡を押し上げた。


「傷物、ね」


「規定では、契りを結んだ男性は」


「規定は知ってるわよ」


ペトラは、照会書の一枚を手に取った。


「傷物の値が下がるのは、壊れるからでしょう。女を怖がって、家に閉じこもって、婚姻生活が成り立たなくなるから」


「はい」


「で、この子は壊れてるの?」


事務官は、手元の報告書をめくった。


「神殿の記録では、契約の翌日も平常通り鑑定に通っています。騎士団の記録では、契約の翌週から訓練の成績が上がっています」


「つまり」


「……壊れていません」


ペトラは、照会書を山の上に戻した。


「それに、稀少度は測定不能。神官の魔力を一晩で七十伸ばしたスキルよ」


彼女は、山の高さを指で測った。


「傷物の減点なんて、端数みたいなものでしょう。申込みは、取り下げどころか増えてるんじゃないの」


「……はい。今週だけで四十通」


「でしょうね」


ペトラは、山を机の端にそっと寄せた。


「取り下げの照会には、『審議中』と返しておいて」


「審議は、いつ」


「前例を調べてから」


前例は、なかった。

書類の山が、二段目の高さに届いた。




月曜日の、定期鑑定。

アルトは水晶板に手を置いていた。

セラフィナが、数値を読み上げる。記録係が同席している日だったので、今日は大きな声で。


「筋力、十八。……貸出、九」


「体力、二十。……貸出、十一」


記録係のペンが、止まった。


「リース神官。体力の現在値は」


セラフィナは、水晶板の下段を見た。

素の値とは別に、もう一行。貸出を引いて、さらに何かを引いた、今この瞬間の値。


体力素20/貸出−11/疲労−6現在3


「……現在値、三です」


記録係が、眉を寄せた。


「先週は、五でした」


「はい」


「その前の週は、七」


セラフィナは、記録簿をめくった。

先々週。七。先週。五。今週。三。

素の値は、上がっていた。騎士団の訓練で、十六から二十まで。

それなのに、今この瞬間の体に残っている力は、週を追うごとに減っていた。

アルトは、水晶板に手を置いたまま、穏やかな顔をしていた。


(……三)


(三って、何ができる数字なんだろう)


窓の外で、神殿の鐘が鳴った。

鐘の音が、やけに遠くに聞こえた。



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