7.二人の幸せ
ピエールと再会した翌日、ミシェルは店舗の閉店作業を終えると、急いで家路についた。足取りは驚くほど軽かった。
もしミシェルが貴族の令嬢であったなら、あるいはピエールが平民であったなら、二人は結ばれていたかもしれない。身分差が原因で諦めた、かつての恋人。
ピエールにまた会えるなんて、夢を見ているようだった。
家に着き、食事の支度をしていると、扉を叩く音がした。開けると、平民の姿に変装したピエールが立っていた。手にはワインの瓶と花束を抱えていた。
「夕食のお礼だよ」
ピエールは照れくさそうに頭をかいた。その仕草は、十年前と同じだった。
昨夜、あれだけたくさんの話をしたはずなのに、話は尽きることがなかった。子供の頃の思い出、王都での日々、それぞれが歩んできた十年間。ワインを酌み交わしながら、ミシェルはピエールと語り合った。
酔いが心地よく回ってきた頃、ピエールが呟いた。
「ねえ、久しぶりにダンスを一緒にどうかな?」
ミシェルは苦笑いしたけれど、断らなかった。楽団も音楽もない静かな部屋。ピエールが口ずさむダンス曲に誘われて、ミシェルは立った。
ピエールの手がミシェルに触れた瞬間、雷に打たれたような衝撃が体を駆け抜けた。あの舞踏会の夜の記憶が、鮮明に蘇った。
この十年、ミシェルは一度もダンスを踊ったことはなかった。それなのに、ミシェルの体はピエールにぴたりと吸い寄せられるように動いた。
いつまでも、この時間が終わってほしくなかった。
「ねえ、今夜は泊まっていかない?」
ミシェルは口元に手を当てた。
それぞれに家庭があり、配偶者と子供がいる。あの頃のように、燃え上がる恋に落ちることはない。そう思っていた。思っていたはずなのに、言葉が自然に口から出た。
ピエールは小さく頷いた。
**
それから数日間、ミシェルはピエールと共に過ごした。それは、二人の十年を取り戻すかのような時間だった。人目を避けて丘に登り、遠くの町並みを眺めた。街角の店で買った菓子を分け合い、昔のように笑った。
二人だけの時間には期限があった。夫と息子が王都から戻ってくるまでの、わずかな時間。ミシェルはピエールとの別れを意識しないようにと努めた。しかし、期限が迫ってくると、ピエールとの別れが頭の大部分を占めていた。
二人の最後の日がきた。夕暮れの光が差し込む部屋で、ピエールは静かに口を開いた。
「僕と一緒に逃げないか?」
どこか遠くへ逃げて、誰にも知られず、ピエールと寄り添って生きていく。そんな未来を想像したけれど、すぐに現実に引き戻された。
ミシェルには夫のジャックがいた。九歳の息子がいた。長年かけて育ててきた店に大切な従業員がいた。そして、ピエールにも妻と二人の息子がいた。もし二人がすべてを捨てて逃げたとしても、その先に待つのは幸福ではなく破滅だろう。
「いいえ、一緒には行けない」
ミシェルは、ゆっくりと首を横に振った。
声が震えないよう、精一杯の力を込めて言葉を絞り出した。
「あなたと過ごせて嬉しかった。この思い出を胸にしまって、これからの人生を生きていくわ」
ピエールは何も言えずにいたが、やがて小さくため息をついた。
「……そうだね」
その声には、寂しさと安堵が混じっていた。
ピエールが王都に発つ日、ミシェルは見送りに行かなかった。もし顔を見れば、家族を捨ててピエールと逃げたかもしれない。ミシェルはピエールに会うのが怖かった。
こうして、ミシェルとピエールの一週間は終わった。
***
「おばあさまはピエールを愛していたんだね。一緒に行きたかったのかな?」
日記を閉じたアンドレが、静かにニコルに尋ねた。夕暮れの光が、居間の壁を橙色に染めていた。
「どうだろうね。行かなかったと思うよ」
ニコルは少し考えるように目を伏せてから答えた。
「どうして?」
「デニスが本命だと思うからよ」
「デニスって?」
ニコルはもう一冊の日記帳を取り出し、静かに机の上に置いた。表紙はアンドレの手許の手帳よりも新しかった。
「これは?」
「おばあさまの、デニスとの思い出」
アンドレは日記を手に取り、ぱらぱらとページをめくると、苦笑いした。祖母には、アンドレが知らない秘密の物語がいくつもあった。
「……恋多き女だね」
―了―
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