1.祖母の日記
祖母、ミシェル・エルベールの葬儀が終わったのは、雨上がりの夏の午後だった。参列者たちが帰ったあと、ニコルとアンドレは、久しぶりに訪れた祖母の家の居間に残っていた。懐かしい柱時計の音が、部屋に響いていた。
「おばあさまは恋多き女だったのよ」
ニコルは声を弾ませながら、分厚い手帳を机の上にどさりと置いた。手帳の革の表紙は色褪せ、角はすり切れていた。
「これは?」
アンドレが眉を上げると、ニコルは得意げに胸を張った。
「戸棚の奥から見つけたの。おばあさまの日記よ。読んでみて」
他人の日記を読むのは気が進まなかった。でも、ニコルは執拗に読むように催促した。
アンドレは苦笑いしながら、手帳を手に取った。祖母の筆跡でびっしりと文字が綴られていた。祖母の若いときの日記のようだ。
アンドレは静かに日記のページをめくった。
**
雑貨屋の娘のミシェル・ローゼンは、幼い頃から上流階級への憧れを抱いていた。貴族婦人が纏う絹のドレスやレースの手袋を横目に見ながら、いつか自分もあの世界の一員になりたいと夢見ていた。
ある日、ウィルム男爵家の舞踏会が開かれると耳にしたミシェルは、その会場に忍び込む計画を立てた。友人から借りた青いドレスに身を包み、実家の雑貨屋で扱っている首飾りを身に着けた。招待状を偽造しようとしたが、本物を入手できなかったので諦めた。
当日、招待状を持たないミシェルは、裏口からこっそりと男爵家に入った。
会場に足を踏み入れたミシェルは息を呑んだ。シャンデリアがきらめき、煌びやかな衣装に身を包んだ貴族令嬢が集まって談笑していた。給仕はミシェルが見たことのない菓子や果実を載せた皿を運んでいた。
招待客ではないミシェルは、男爵家の警備員や使用人から距離を取った。壁際にひっそりと立ち、憧れの光景を胸に焼き付けていた。会場の中央では、どこかの貴族の子息と令嬢が優雅にステップを踏んでいた。踊っていたのは、ミシェルが近所の教会で習ったことのあるダンスだった。とはいえ、招待されていないミシェルは、誰かと踊る勇気などない。ただ眺めているだけで十分、と自分に言い聞かせた。
そのときだった。
「お一人ですか?」
声のするほうを振り返ると、仕立ての良い漆黒のジャケットを纏った青年が、笑みを浮かべていた。整った顔立ちと、悪戯っぽい目が印象的だった。
「えぇっと」とミシェルは愛想笑いした。
「僕はピエール・ウィルム。この家の次男です」
まさか声をかけられるとは思っていなかったミシェルは、心臓の鼓動が速くなるのを抑えながら、平静を装った。
「姉と逸れてしまいまして……」
とっさに出た嘘だった。女性客が多かったから、会場に姉がいると言えば誤魔化せると、ミシェルは考えた。
ピエールは愛想笑いしただけで、それ以上は詮索しなかった。
「では、お姉様が見つかるまで、僕と一曲いかがですか?」
ピエールは頬をゆるめて手を差し出した。舞踏会に来ておきながらダンスを断るのは不自然だ。それに、ミシェルには断る理由が思いつかなかった。
ミシェルは小さく息を吐き出すと、ピエールの手を取った。
それが、ピエールとの出会いだった。




