19・少女は名を変え、世界を征く
アスターシャ・ウィギア・ロズタリア。
17歳。
彼女はロズタリアという国に生まれ、今は国に伝わる通過儀式に身を落としている身分だった。
その国に生まれた次代の王の人間は、ある年齢の時期に世界を回り、見識を広める旅に出る。
本を読むだけでは知り得ない、誰かの語りを耳にするだけでは身に付かない。旅を経て、己の知識と心を育て、腕を磨き、心身共に一回り大きくなり、その国を統べるに相応しい存在となるためだ。
だが、もはやその儀式は、この時代には形骸化し、必要の無い行事だという議論があるのも事実だ。
年頃の子供を、護衛付きとは言え世界に放つことを心配しない親はいないだろう。
アスターシャも、親の寵愛を受けた一人娘だ。彼女の周囲で起きた身内の不幸もあり、その機運は強まる。
だが、好奇心と活力に満ちた彼女が世界に羽ばたくのを、誰が止められようか。
周囲の心配や反対を背に、ついに彼女は世界に発つことを決意する。
「わぁ・・・」
『彼女』は目を輝かせ、周囲を見渡す。
眼前に広がるのは、青い空と同色の水の線。それが遥か彼方にまで伸び、そして左右に広がっている。
港町に赴いたふたりは、ここを旅の始まりとした。ロズタリア、ノルダットを有する大陸から外に出ようという、決意と共に。
その目で見る光景は、彼女には新鮮で。
街を一望できる高台から見る景色。人の波と、何層も連なる用途の異なる船が、その雄大な海に浮かんでいる。
そんな光景を、希望と羨望の眼差しを向ける少女。
蜂蜜を水に溶かしたような流麗な髪の毛は、後頭部の辺りで纏められ、それは高貴な王族が跨る馬の尻尾のように風で揺れている。
軽装鎧に身を包み、腰には一振りの細身の剣を下げ。その姿は一端の剣士と言ってもいいだろう。ただ、その風景を見る眼差しは、まだまだ幼い少女のそれだ。
周囲を征く通行人の目が、そのアンバランスなふたりに感嘆と奇異の目が交互に向けられる。
ひとつはアスターシャの幼いながらに将来性に満ちた美麗な魅力に、だろう。さながら絵画から抜け出た戦乙女のごとく立ち姿は、否が応にも目を引く。
「・・・俺も、人の行き交うこの密度の波を目にしたことは無い」
方や、ボロ切れのような布で身を覆っているのは、アスターシャよりも遥かに背丈で大きく。フードの奥から覗かせるのは、人の肌ではない。
トカゲの鱗のような斑が覗かせ、僅かな光がそれを反射冴える。それはある種の美しさすら感じる。
名を、ドリューと言った。
人ならざるその姿は、人里離れた僻地に住む種族。
『竜人族』と呼ばれる、異形の亜人だ。その姿は、人により感じる思いは異なるだろう。畏怖や醜悪と感じない人間が居ないのはまた現実だ。だから、こうして全身を覆う布で身を隠している。
ドリューもまた、アスターシャと同様に目の前に広がる人の波に、フードの奥で目を回すほどの感動を享受していた
アスターシャが旅に出るにあたって、アスターシャの父は当然その護衛を自分の従える騎士に任せようと考えていた。
だが、娘が放ったのはまるで想定外の言葉で。目下、ロズタリア王の悩みは、それだ。
ロズタリアに現れたのは、以前城に姿を見せた竜人族の内のひとりで。
翡翠の鱗を纏った、人ならざる存在。人間を遥かに上回る戦闘能力を持つ、異形だ。それはたったひとりで数十人の戦士に匹敵する強靭さを誇り。人間よりも生命力で上回る、この世界でも指折りの戦闘民族。人はその存在を恐れ、畏怖の目を向ける。それがこの世界での『竜人族』への認識だ。
何を思ったか、アスターシャはこの竜人族を、旅の同伴者にすると言い出したのだ。
ドリューと名乗ったその竜人族は成程屈強で、事実、並の兵士が束になって戦ったところで歯が立たないだろう。彼は、彼が身を置いていたノルダットという地に置いては一、二を争う手練れであるらしかったからだ。ある事情から、その戦闘能力はかつてのものと劣ると言ったが、果たしてそれは真実なのかというくらいに、放つ威圧感は陰りも無い。その腕の力は、下手な鎧など握り潰すだろうし、掲げる爪の鋭さは人間の肉を容赦なく引き裂くだろう。
その点に関して言えば、竜人族が旅を共にするのはある意味で安心なのだろう。
最初、この城に住む者が竜人族の姿を実際に目にしたのは三年前だ。その時は、その異形と伝わる姿、伝え聞く戦闘能力に震え、一挙手一投足の行方を目で追うのが精一杯な精神状態だった。それは、当時はアスターシャも例外ではなかっただろう。見たこともない屈強な戦士に、魂すら威圧感で支配されそうな程だったはずだ。だが、今はどうだ?
ドリューを紹介する我が娘は、その目に一粒の恐怖を宿すことはなく。
むしろ、その雄々しい武人の体躯に信頼を置いているようにすら思える。
三年前。
アスターシャが我が国の腹心である大臣のねじ曲がった野望の対象となり、その身が危ぶまれた。
歴史の影に隠れたロズタリアと北の霊峰に身を置く竜人族の一団の力を借り、その身を彼らの国に預け、難を逃れようとした。
紆余曲折あったが、その歪んだ思いを持つ大臣は命を持ってこの世を去り。
娘の安全が保たれたのは、竜人族の助力の他はなく。ロズタリア王は、彼らに多大な感謝と信頼を寄せる。それは揺るがない。
かつて、現在の王の生まれる前から、ロズタリアとノルダットに住まう『竜人族』の繋がりが存在し、それがまだ生きていたからこそ、アスターシャは助かったと言っていい。感謝しても、しきれない。
だが、それとこれとは話が別だ。
早い話が。
我が娘であるアスターシャと、ドリューの距離だ。
妙に親しげで、ドリューに最初に感じた威圧感、恐怖などなかったかのように。
三年前。最初の一年を悪族の手から守るため、彼らの集落であるノルダッドへと身を隠していた。そこでの生活を経て、竜人族への意識を変えたのは想像に固くない。
竜人族の世間での評価は、粗雑で凶暴と、あまり良いものではない。人肉を貪ると言い伝わるそれを目の当たりにして、恐れを抱かない人間などいない。
アスターシャの身の回りの世話をしていたメイドのマリエッタは、仕える姫が一年間、その国に発つことを絶望と表し、主の居ない部屋の清掃を力無く行っていたのを思い出す。
その間にあるものが友情ならばまだしも。
マリエッタが言っていたことは、アスターシャの美しさが、竜人族に伝わらないわけがないのだと。
人間と竜人族の美的感覚は異なっていると言われている。アスターシャの美しさは、その感覚すらを貫き、他種族の美的感覚を狂わすのなら、父親として嬉しくない訳はない。
護衛はたったひとり。
それがロズタリア王の懸念点だ。
旅を通じて、我が娘と竜人族が、まさに連綿と続いてきたこの国の慣習となっている馴れ初めを体現することになったら。
ロズタリアの王と姫は、ロズタリアに伝わる旅で伴侶を見つけることが多い。旅を通じて従者と強固な絆が結びつき、それが恋愛に発展するケースも有る。
それを、それとなく娘に問うたこともあった。
「ドリューは頼りになる、誇り高き戦士です」
そこに恋愛感情は無く、あくまでも腕っぷしを買っての帯同のようだが。それが友情を超えることに王は心を揉んでいる。
しかも、昔は『様』付けではなかったか?距離の縮まりを見せるのも、その理由だ。
「むむむ・・・」
玉座に置いては、ほぼ毎日こんな考えで頭を回しているのだ。
旅がいつ終わるのかはわからない。通例、一年程で旅の成果と共に城に歓迎されて帰還する。
その時、ただの旅の仲間から、関係が深まってこの国に戻ってきたら・・・。
「ぐおおっ!」
玉座で頭を振り乱す王の様子を、メイドのマリエッタは微笑ましくも半眼で見やる。
「王。姫様はもはや立派に育ちました。護衛にも問題は無いようですし、心配することはありませんよ」
勿論、王はそんなことは百も承知だ。一騎当千の竜人族ならば、その護衛役に疑いの余地はないだろう。
そんなマリエッタの言葉に、王は半眼で返す。
「お前らしくない言い方だな。マリエッタも、竜人族へ含むところがあったではないのか」
確かに、初めて見た時の威圧感、荒々しさにマリエッタは身を竦ませていた。そして、そんな姫が身を守るためとは言え、異国の、それも竜人族の国に赴くのを手放しで喜んだ訳が無い。
仕える王の娘だが、マリエッタにとってアスターシャは妹のように思っていた女性だから。この城を離れ、危険が無いとは言えない場所に向かうのを止めたいと思わないわけがないのだ。
しかし、その姫が信頼に心を寄せているのだ。その見た目に怯えること無く、かといって従うわけでもなく。そして、従わせてすらいない。あくまでアスターシャとドリューの間にあるのは対等な立場に思えた。
まるで、長年研鑽を重ねたあった友のように。
王の懸念点は、その間にある感情がそれ以上のものになるのを危惧しているのだろうが、マリエッタは王に恭しく頭を下げて敬意を表し、
「王。僭越ながら、私の意見を述べさせていただきます」
マリエッタとて、妹のように接してきた親愛なる姫を、誰かに奪われて何の感情も触れないわけが無い。その相手が人間ではなく、異形の存在だとしても。
「私は、姫の選択を尊重したいと思います」
あくまでも選んだのはアスターシャの意志で。旅に赴く決意も、それに付き従える帯同者も、すべてアスターシャの責任が負う。
だが、今は思うのだ。
相手が誰だろうと別け隔てなく接する、清らかな心の持ち主である姫だからこそ。強靭な種族として名高い竜人族がその旅に付いていこうと思ったのではないのか?
「黙って、姫の進む道を応援するのがよろしいかと」
マリエッタの言葉に、王は「うむむ」と、苦々しい表情で呻いた。
竜人族を遠ざけていたのは、私達の方だ。醜悪な見た目と凶暴な力を恐れ。歴史の奥に追いやった。
考えてみれば、かつてのロズタリアの人間が竜人族と繫がっていたからこそ、今日のロズタリアの危機が未然に防がれたのだ。それは、遠い過去にこの国とノルダットが結びついていた証でもある。それを、竜人族は義理堅く覚えていたというのに。
この旅は、再びロスタリアだけでなく、人間と竜人族の関係が変わる良い機会なのではないだろうか。
そう思うと、アスターシャとドリューの邂逅は、ある種の運命にも感じられる。
その為に三年間、アスターシャは鍛錬を欠かさなかった。守られているだけの自分を嫌悪し、真の意味で強さを求める心を持って、剣を振るったその姿を、マリエッタは誇りに思う。
再び、アスターシャ。
いや、今の彼女の名はアスターシャではない。
見識を広める旅に出るにあたって、アスターシャには剣の腕、旅に必要な道具の用意、知識の他に改める部分があった。
名前だ。
自分の名がロズタリアの姫のものであることは、周知のことであろう。表立ってその名を口にするのは控えなければならない。その身分と身柄を利用した奸計に巻き込まれないために。
そのためにしたことが、旅での呼び名だ。
「・・・アレサ?」
最初にそれを聞いた時、ドリューは眉を潜めた。アスターシャが別の名を掲げた方が良いという理由を受け、満面の笑みの少女にその目を向ける。
本来の名を旅の中で発する危険性。遡れば、この風習に挑んだ王族は皆、仮の名前を旅で用いたはずだ。アスターシャの父親もその限りではない。
「そうです。それがこの旅での私の名です」
嬉しそうにポニーテールを揺らしながら、アスターシャはドリューにその顔を押し出す。
とある街での食堂。対面で席に付いたアスターシャとドリュー。適当に注文した料理がテーブルに並ぶ中、神妙な顔で旅の前に話したいことがあると言われた矢先だ。
「・・・あまり、変えたとは思えんのだが」
文字数こそ違えど、響きはなんとなく似ている。そんな名に意味はあるのだろうか、と、ドリューは疑問に思う。
「あまり大幅に変えると、お互い咄嗟に反応出来ないでしょうし」
旅での名を変えようと、彼女がアスターシャである事実は変わらない。
彼女が変えたものは名前だけではない。
アスターシャに旅への同行を打診されたあの日。
三年前とは見違えるように姿を変えたアスターシャ。まさにアレサという女性に姿を変え、自分の前に現れたと言ってもわからない程に。
幼い顔立ちは、大人を覗かせるものに変化させ、腰元まで揺らめいていた金糸の髪は切り揃えられ、それを勇壮な馬の尾のように束ね。それだけで、記憶の中の少女の姿とはかけ離れ。だが、その芯の中にあるものだけは思い出の中の少女と同じで。ドリューは不思議な感覚に苛まれたのを覚えている。
それは、名を変えようと変わらない、彼女自身の纏う気品か。
そんな彼女を共に歩む旅は、すでに始まっているのだ。




