第4章-72話「麦畑と海鳴り」
麦の匂いがした。
丘を越えた瞬間、風の色が変わった。乾いた草原の匂いが消え、代わりに熟した穀物の甘さが鼻腔を満たした。黄金色の穂が視界の果てまで広がっている。風が渡るたびに穂先が波打ち、うねりが丘の向こうまで走っていく。
ロリが足を止めた。
「わあ……」
声が漏れた。短い感嘆だった。青藍の瞳が大きく見開かれ、麦の海を映している。銀色の髪が風に煽られ、穂先と同じ方向に流れた。
「リン。これ、全部……麦ですか」
「ああ。グラーノ・ドーロの麦畑だ」
燐は周囲に意識を走らせた。遮蔽結界は安定している。こめかみの圧迫感は朝から変わらない。許容範囲だった。戦闘力は四割五分まで回復している。全力なら十分は持つ。一日一回が限度だが、ここしばらくその必要はなかった。
バルカスが畦道の脇に立ち、麦の穂を一本折った。指先で穂を揉み、粒を確かめている。
「実が入っている。収穫は半月後か」
「農業にも詳しいの?」
リディアが横から覗き込んだ。バルカスは穂を放り捨て、先を歩き出した。
「砦で小麦を育てたことがある。それだけだ」
ロリが畦道を歩きながら、麦の穂に手を伸ばした。指先が穂先に触れ、くすぐったそうに手を引いた。もう一度、今度はゆっくりと触れた。穂の先端がロリの掌を撫でている。
「ちくちくします」
「麦の芒だ。刈り入れの時は手袋がいる」
バルカスの声が前方から飛んできた。ロリは頷いて、穂に顔を寄せた。麦の匂いを嗅いでいる。目を閉じ、鼻先が穂に触れるほど近づいた。
「……甘い匂いです。パンの匂いに、似ています」
「パンになる前の匂いだからな」
ロリが笑った。小さな笑みだったが、頬が緩んでいた。畦道を歩く足取りが軽くなっている。
* * *
麦畑は午後まで続いた。
グラーノ・ドーロの集落を遠回りに迂回し、畦道を南西に進んだ。農村地帯は穏やかだった。遠くに荷馬車の姿が見え、畑仕事をしている人影がいくつかあったが、こちらに気を留める者はいなかった。戦火が遠い土地だった。麦畑の向こうに見える農家の屋根には穴がなく、壁に焼け跡もない。
燐は遮蔽結界を維持しながら歩いた。回路の迂回経路は安定している。出力で押さず、効率で回す。結界の外縁は半径二十メートル。四人の気配を麦畑のマナに溶かしている。
リディアが端末を操作しながら歩いていた。時折立ち止まり、空を見上げ、何かを確認してから端末に入力している。
「ラステルまであと二日。天文図が手に入れば計算が仕上がるわ」
「航路の計算か」
「ええ。ヴェガの位置は特定できてるの。けど精密な緯度経度を出すには、ラステルの天文台が持ってる星図が要る。あそこの天文台は港町にしては上等よ。航海用の実測データがあるはず」
燐は頷いた。ラステル。港町。海を渡る手段がそこにある。ここまでの行程で最も長い平穏が続いていた。追跡者の気配はない。遮蔽結界が機能しているのか、帝国の追跡網の外に出たのか。いずれにしても油断はしない。
* * *
テッラ・フェルマに着いたのは、日が傾き始めた頃だった。
丘の上の小さな町だった。石畳の狭い道が一本通り、両脇に石壁の家が並んでいる。人の姿は少ない。町の中心に井戸があり、年配の女が桶を引き上げていた。
バルカスが町の手前で足を止めた。
「町は通らない。南に回る」
「待って」
リディアが丘の稜線を指差した。町の南端、低い石壁の向こうに、空が開けている。空の色が違った。内陸の青ではなく、灰色がかった白い広がりが地平線まで続いている。
「あそこから見えるはずよ」
「何が」
リディアが笑った。
「海」
ロリの足が止まった。
「……うみ」
反芻するように呟いた。ロリは海を知らなかった。言葉としては知っている。けれど見たことはない。燐はロリの顔を見た。青藍の瞳が丘の向こうを見つめている。唇が微かに開いていた。
バルカスが鼻から短い息を吐いた。
「五分だ。それ以上は止まらない」
四人が丘の稜線に立った。
風が変わった。
麦の甘さが消え、冷たい塩気が肌を刺した。重く、湿り気を帯びた風が正面から吹きつけてくる。鼻の奥に潮の匂いが広がった。磯の匂い。腐葉土でも草でもない、鉱物と生き物が混じったような匂い。燐にとっては馴染みのある匂いだった。
視界が開けた。
丘の向こうに、海があった。
夕日が水平線を照らしている。橙色の光が海面に溶け、波頭が白く砕けるたびに光の粒が散った。灰色と青と橙が混じり合い、空と海の境界が曖昧になっている。水平線の向こうでは空が海に落ち込み、海が空を飲み込んでいるように見えた。
少女が立ち尽くしていた。
青藍の瞳が限界まで見開かれている。唇が開いたまま閉じない。風が銀色の髪を後方に流し、少女の横顔が夕日に照らされていた。
「……空が」
声が途切れた。
「空が、落ちているのですか」
燐はその横顔を見ていた。ロリの瞳に海が映っている。橙色の光が青藍の虹彩を染め、瞳の中に小さな水平線が浮かんでいた。
リディアがロリの隣に立った。何も言わなかった。ただロリと同じ方向を見ていた。
バルカスが大斧の柄に手を置いたまま、海を見ている。風が灰色の髪を揺らしている。表情は変わらなかったが、五分と言った制限時間を口にしなかった。
ロリが一歩、前に出た。
「あの白いもの……波ですか」
「そう。波よ」
リディアの声が静かだった。普段の軽口がない。
「あそこまで歩いていったら、触れますか」
「触れるわよ。冷たいけどね」
少女が両手を胸の前で組んだ。指先が絡み合い、祈るような形になった。祈っているのではなかった。海を抱え込もうとしているように見えた。
「大きい……です」
言葉が足りないことを自覚しているような声だった。ロリの語彙では海を掬いきれない。けれどロリはそれ以上の言葉を探さなかった。ただ海を見ていた。
風が吹いた。潮の匂いが四人の間を抜けていった。
* * *
丘を下り、テッラ・フェルマの南側を迂回して、海岸に近い窪地に野営した。
波の音が聞こえていた。絶え間なく打ち寄せる低い音が、地面の振動として体に伝わってくる。焚き火は焚かない。保存食と水で夕食を済ませた。
燐が遮蔽結界の出力を確認していると、ロリの声が聞こえた。
「リディアさん」
「なあに?」
「髪が……絡まってしまったのです。風が強かったから」
リディアがロリのそばに膝をついた。銀色の髪が潮風で絡まり、毛先が結び目のようになっている。リディアが指で結び目をほどき始めた。
「ひどいわね、これ。ちょっと待って」
リディアが荷物から木櫛を取り出した。ロリの背後に座り、髪を手に取った。毛先から順に、ゆっくりと梳いていく。
「痛くない?」
「大丈夫です」
少女が目を閉じた。背中の力が抜け、肩が下がった。リディアの手が銀色の髪を掬い、指の間を通していく。木櫛が髪を梳く音が、波の音に混じって聞こえた。
リディアの手が止まった。
少女の髪を見ていた。指の間を流れる銀色の糸を。絹よりも細く、月光のように白い髪。リディアは端末を持つ手とは違う手つきで、少女の髪を撫でていた。
吐き気がした。
唐突に、リディアの胸に込み上げたものは、潮風のせいではなかった。
三週間前。ロリのマナ反応を端末で記録した夜のことを思い出した。数値が画面に並び、波形が描かれ、リディアはそれを見て心臓が跳ねた。知的興奮。未知のデータ。論文になる。一瞬、そう思った。手帳にメモを取ろうとして、ペンを握った。
あの瞬間の自分を思い出すと、胃の底がひっくり返りそうになった。
この子はデータじゃない。
今、自分の指の間を流れている髪は、論文の被験者のものではない。潮風で絡まり、木櫛で梳かなければいけない、ただの女の子の髪だ。寒ければ震え、怖ければ泣き、海を見れば目を丸くする。そういう子の髪だ。
リディアの手が再び動き始めた。丁寧に、ゆっくりと。
「リディアさん」
「ん?」
「気持ちいいです」
ロリの声が眠そうだった。波の音と櫛の音の中で、体温が下がっていく夕暮れの空気に包まれている。
「そう。よかったわ」
リディアの声が小さかった。掠れていた。少女は気づかなかった。
* * *
ロリが眠った後、リディアはロリの荷物を整理していた。
替えの衣服を畳み直し、水筒の残量を確認し、携行食の包みを数えた。ロリの荷物は少ない。砦を出た時に持っていたものと、道中で手に入れたもの。それだけだった。
衣服の間に、折り畳まれた紙が挟まっていた。
リディアは手を止めた。紙は何度も折り畳まれ、角が擦れて丸くなっている。開いた。
手紙だった。
丸みのある、穏やかな筆跡だった。インクの色は薄くなりかけている。何度も読み返されたのだろう。折り目が深く、紙が柔らかくなっていた。
差出人の名を見て、リディアは息を止めた。
シスター・クレア。
砦の修道女。ロリが砦にいた頃、誰よりも傍にいた人。リディアは直接会ったことがなかった。けれどロリがその名を口にする時の声の柔らかさを知っていた。
手紙は短かった。
『ロリへ。
遠い場所にいても、祈りは届きます。
あなたが見る空の下で、わたしも同じ空を見ています。
どうか、笑っていてください。
笑えない日があっても、そのことを悲しまないでください。
またいつか、会えますように。
祈りが届きますように。
クレア』
リディアは手紙を読み終えた。紙を元通りに折り畳み、ロリの衣服の間に戻した。
波の音が聞こえている。ロリの寝息が聞こえている。
リディアは膝を抱えて座った。端末を取り出さなかった。空を見上げた。星が出ている。ヴェガが天頂の近くにあった。計算を始めようと思えば始められた。けれど端末に手が伸びなかった。
この子には、自分が知らない時間がある。砦で過ごした日々。クレアと過ごした日々。自分が出会う前に、この子を守ろうとした人がいた。
その人の祈りの上に、自分は立っている。
リディアは手のひらを見た。さっきまで少女の髪を梳いていた手。端末の数値を追いかける手ではなく、女の子の髪を梳く手。その二つが同じ手であることが、まだ少し怖かった。
風が吹いた。潮の匂いが髪に絡みついた。
* * *
燐はバルカスの隣に座っていた。
遮蔽結界を維持しながら、波の音を聞いている。バルカスが通信機を取り出し、ダイヤルを回した。微かなノイズが夜風に混じった。
「帝国の通信は減っている。第三師団は東に張り付いたままだ」
「ラステルに関する通信は」
「ない。少なくとも、傍受できる周波数帯にはない。暗号を変えた可能性はある」
バルカスがダイヤルを切った。通信機をポケットに戻す。
「四十五まで戻ったか」
燐を見ずに言った。結界の維持負荷から、燐の回復度合いを読んでいるのだった。
「ああ。全力なら十分。一日一回が限度だ」
「十分あれば撤退はできる」
「撤退だけなら」
「それで十分だ。戦う必要はない」
短い沈黙があった。波が岩を叩く音が遠くから響いている。
「ラステルに着いたら、まず宿を確保しろ。嬢ちゃんを屋根の下で休ませてやれ」
バルカスの声が静かだった。命令ではなかった。
燐は頷いた。ロリは丘の上で海を見た時、祈るように手を組んでいた。あの手は震えていなかった。恐怖ではなく驚きだった。世界にはまだ、ロリが知らないものがある。海がある。波がある。潮の匂いがある。少女はそれを一つずつ知っていく。それは守る価値のあることだった。
燐はこめかみの痛みに意識を向けた。鈍い圧迫感。朝から変わらない。回路は安定している。結界は維持できている。
「明日にはラステルだ」
バルカスの声が低く響いた。
燐は南西の方角を見た。暗い海の向こう、水平線の少し上に、微かな光が滲んでいた。星ではない。地上の光だった。橙色の、ちらちらと揺れる灯り。港町の灯りだった。
ラステルが、見えていた。




