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第3章-47話「月詠みの回廊」

 燐の指が、ロリの肩を掴んだ。


 薄い肩だった。ローブの上からでも、少女の鎖骨の細さが掌に伝わる。その華奢な骨格が、微かに前へ——光の方へ傾いているのを、指の力だけで押し留めた。

 ロリが振り返った。青藍の瞳に、まだ回廊の奥の光が映り込んでいる。ぼんやりとした表情だった。夢から覚めかけた子供のような、焦点の合わない目。


「……リン?」


「先に行くな」


 短く言った。叱りつけるつもりはなかった。だが声が硬くなるのを止められなかった。指先が、ロリの肩に食い込みすぎている。力を抜いた。


「あ……ごめんなさい。ロリ、自分で歩いていたのですか」


 ロリが自分の足元を見下ろした。燐より二歩前に出ている。いつの間に歩いたのか、少女自身にも分かっていない。白い顔が一瞬だけ青ざめ、それから困惑に変わった。


「身体が……勝手に」


 バルカスが大斧の柄を握り直した。背後の暗闇から視線を切らず、低い声で言った。


「少女から手を離すな、リン・アッシュ」


「分かっている」


 燐はロリの肩から手を離し、代わりに少女の手を取った。小さな掌。冷たい。だが、指先だけが妙に温かかった。壁に触れていた手だ。


「歩けるか」


「はい。もう大丈夫です。ロリの身体は、ロリのものです」


 少女がそう言い切った時、声に力が戻っていた。掴まれた手を握り返してくる力も。燐はそれを確かめてから、前を向いた。


* * *


 回廊の奥から脈打っていた青白い光は、近づくにつれて弱まった。


 矛盾しているようだが、事実だった。遠くから見た時はあれほど強く明滅していた光が、四人が歩を進めるにしたがって薄れていく。まるで、呼ぶべき相手が来たから声を落としたかのように。

 光が完全に消えた時、回廊は新しい区画に入っていた。


 天井が高くなった。

 アーチの頂点が闇の中に消え、バルカスの発光石の光でも届かない高さに上がっている。壁面の石が変わった。灰色だった石材が、ここから先は濃い藍色をしている。触れると冷たく、表面が硝子のように滑らかだった。


「この石材……」


 リディアが壁に端末を当てた。画面の数値を見て、息を呑んだ。


「嘘でしょ。この石、マナを通すわ。導管になってる。壁そのものが魔導回路よ」


 リディアの指が壁面を撫でた。滑らかな藍色の石の下に、微かな凹凸がある。指の腹で探ると、線が走っていた。肉眼では見えないほど細い溝が、壁一面に網の目のように刻まれている。


「回廊全体が一つの術式装置……。この規模の魔導建築、現存するものは知らないわ。論文ですら見たことない」


 リディアの声が上ずっていた。端末を構える手が微かに震えている。興奮だった。学者としての——もっと正確に言えば、未知の技術を前にした技術者としての、抑えきれない高揚。

 燐はその反応を横目で見ながら、別のことを考えていた。


 脳内魔法式を、ごく低い出力で稼働させている。探査用。入り口の封鎖術式を解除した時の負荷がまだこめかみの奥にくすぶっていたが、この区画の構造は把握しておく必要があった。

 壁面の魔導回路に、微弱なマナが流れている。死んだ回路ではない。眠っているだけだ。数千年の間、最低限のマナだけを循環させて、構造を維持し続けている。


「リディア。この回路、まだ生きている」


「ええ。マナの流量は微小だけど、ゼロじゃない。維持モードね。何かのトリガーで起動したら——」


 リディアが言葉を切った。端末の画面が明滅した。数値の一つが跳ねたのだ。


「……今、一瞬だけマナの流量が上がった。何かに反応して——」


 二人の視線が同時にロリに向いた。

 少女は燐の手を握ったまま、壁面を見つめていた。触れてはいない。だが、少女の立つ位置から半径一メートルほどの壁面が、ほんの僅かに——人間の目では捉えられないほど僅かに——藍から淡い青へと色を変えていた。


「端末なしでも分かるわ」リディアが呟いた。「壁がロリに反応してる。認識してるのよ。何かを」


「罠じゃないのか」バルカスが繰り返した。


「罠じゃない。防衛系のマナパターンとは波形が違う。これは……何て言えばいいのかしら。出迎え、みたいなもの」


 リディアは自分の言葉に首を傾げた。非科学的すぎる表現だと分かっている。だが、端末が示すデータは、まさにそう読み取れた。壁面の魔導回路が、ロリの存在に対して活性化している。拒絶ではなく、応答として。


 ロリは壁を見つめたまま、小さく首を振った。


「呼んでいるのとは、違います。さっきのは……引っ張られるような感じでした。けれど今は、ただ見られている気がするのです。壁の向こうから、誰かが」


 少女の声は落ち着いていた。恐怖はない。先ほどの夢遊状態から覚めて、今は自分の足で立っている。だが、その目には好奇心と——ほんの僅かな寂しさが混じっていた。知っているはずのない場所に知られている。それは心地よさと薄気味悪さの、どちらにも転びうる感覚だった。


* * *


 碑文は、その先にあった。


 回廊が緩やかに曲がった先で、壁面の一角が広く窪んでいた。壁龕のような構造だが、安置されていた物はない。代わりに、窪みの奥壁一面に、文字が刻まれていた。

 古代ルーン。リディアが入り口の石柱で見たものと同じ体系の、だが密度の全く異なる碑文。上から下まで、壁面を埋め尽くす文字列。発光石の光に照らされた藍色の石に、銀に近い色で刻まれた一字一字が、蝋燭の炎に照らされた書物のように浮かび上がっていた。


 リディアの足が止まった。


 端末を翳すのも忘れて、碑文の前に立ち尽くしていた。

 三秒。五秒。十秒。それから端末を持ち上げ、壁面全体をスキャンし始めた。手の動きが変わっていた。興奮がそのまま精度に変換されたように、一切の無駄なく端末を動かしている。


「これ——これよ」


 声が震えていた。


「この碑文の書体。アルカディアの大書庫にあった拓本と同じ体系。でもこっちの方が——こっちがオリジナルだわ。大書庫のは模写品。ここが元。あの拓本が取られた場所が、ここなのよ」


 リディアは碑文の上部に手を伸ばした。届かない。背伸びをしても、文字列の三分の二から上は手が届かなかった。


「バルカスさん、肩を貸して。上の方も見たいの」


「断る」


「えー。なんでよ」


「後方警戒中だ。遺跡の中で背中は空けん」


 バルカスの声は平坦だったが、視線は回廊の奥の闇に固定されたままだった。大斧を肩に担ぎ直す動きに、遊びがない。この男が警戒を緩めた瞬間を、燐はまだ見たことがなかった。


「……はいはい。じゃあ下の方から読むわ」


 リディアは屈み込み、碑文の最下部から解読を始めた。端末の翻訳補助を使いながら、指先で一文字ずつなぞっていく。古代ルーンの体系は完全には解読されていない。既知の語彙と、文脈による推測と、直感。三つを組み合わせて、リディアの口から断片的な訳が溢れ出した。


「『民は……集い……夜を……讃えた』。夜を讃える祭事の描写ね。月の神殿にふさわしい内容だわ。その下は——」


 リディアの指が止まった。


「ここ。この一節」


 声のトーンが変わった。学者の興奮が、一段深い層に沈んだ。


「『母なる者の血は民を癒し、民は歓び、盃を掲げた』」


 沈黙が落ちた。

 発光石の光の中で、四人がその一節を見つめていた。


「母なる者の……血」


 燐が繰り返した。


「治癒の力を持つ血。それを盃で飲む儀式か」


「そう読めるわね」リディアが碑文から目を離さず答えた。「古代の祭祀で、治癒の力を持つ存在の血を聖なるものとして分け合う儀式があった。聖餐の原型みたいなものかしら。でも——」


 リディアの眉が寄った。


「血を分けるって、文字通りの意味だとしたら奇妙よね。治癒の力を持つ血って、何の血? 比喩なのか、本当に誰かの血なのか」


 リディアは碑文の「母なる者」の文字を指先でなぞった。刻まれた溝が深い。他の文字より力を込めて彫られている。この一語が、碑文の中で特別な重みを持っていたことが分かる。


「それに、この前後の文脈で気になる表現があるわ。ここ——『母なる者の歯は民を抱き』。歯? 歯が抱く? 比喩にしても変ね」


 リディアの指が、碑文の一節を何度もなぞった。


「歯、というより……牙? この古代ルーンの文字、歯と牙の区別が曖昧なのよ。文脈によってどちらにも読める」


「牙」


 燐が、その一語を口の中で転がした。引っかかる。何かの輪郭が脳の端に触れて、消えた。掴めない。


「牙で抱くなんて、普通に考えたら攻撃よね。でもこの文脈では明らかに肯定的に書かれてる。民は歓んでいる。恐れてない。牙を持つ存在に抱かれることが……祝福として描かれてるの」


 リディアは立ち上がり、碑文から一歩離れた。全体を見渡す。端末の画面を確認し、唇を噛んだ。


「情報が足りないわ。碑文のもっと上の部分に、母なる者の正体が書かれてるかもしれない。けど今は読めない」


 燐は碑文を見上げた。上部の文字列は発光石の光が届かず、藍色の壁面に銀の線が微かに光るだけだった。


「ロリ」


 リディアが振り返った。


「何か感じる? この碑文に見覚えはない?」


 少女は碑文の前に立ち、じっと文字列を見つめていた。青藍の瞳が一行ずつを追っていく。読んでいるようにも見えた。だが——


「読めません」


 ロリは静かに首を振った。


「けれど、この文字の形は……好きです。見ていると、胸の奥がぽかぽかします」


 少女の手が、無意識に自分の胸に触れた。先ほどと同じ仕草。心臓の位置を押さえている。


 リディアはロリの様子を見つめていた。端末を下ろし、銀縁の眼鏡の奥の目を細めた。何かを考えている。考えて、飲み込んだ。今は言わない、と判断した目だった。


* * *


 碑文の区画を過ぎると、回廊はさらに下降していった。


 螺旋の角度が急になっている。足元の石畳に刻まれた文様が、先ほどまでの装飾的なものから実用的な記号に変わった。矢印。方向を示す標識のようなものが、等間隔で床に埋め込まれている。


「案内表示ね。この先に主要区画があるわ」


 リディアが端末で矢印の配置を記録しながら言った。


 燐は歩きながら、脳内魔法式の負荷を意識していた。こめかみの圧迫が、先ほどより僅かに強い。入り口の封鎖解除で使った分の回復が、まだ追いついていない。探査用の最低出力すら、今の状態では長時間の維持が難しかった。


「燐」


 リディアが不意に声をかけた。いつもの軽い口調ではなかった。


「さっきの封鎖術式の解除。あれ、どうやったの」


「お前が構造を解析して、俺がリズムを読んだ。さっき言った通りだ」


「そうじゃなくて。リズムを読んだ方法よ。あれ、脳内魔法式を探査モードにして術式のマナ波動と体感で同期したんでしょ。普通はできないの、そんなこと」


 リディアの声が低くなった。歩調を燐に合わせ、ロリに聞こえない距離を保っている。意図的だった。


「私が構造を解析するのに端末と二十分の計測が要ったのよ。あんたは目を閉じて三十秒。あの封鎖術式、現代の技術体系と全く違う設計なの。マニュアルも参考資料もない。なのに初見で三十秒よ」


「脳内魔法式の特性だろう。お前が名前をつけた能力じゃないか」


「そう。そうなのよ」リディアの声に、奇妙な力がこもった。「脳内魔法式の演算速度が異常なの。知ってるでしょ、自分でも。あんたの能力を計測し始めてからずっと考えてるんだけど——」


 リディアが眼鏡の位置を直した。人差し指でブリッジを押し上げる、考え込む時の癖。


「普通の人間の脳は、並列処理が最大で三系統。鍛えた魔術師でも五か六。あんたは最低でも十二以上を、無意識にやってる。しかも炭化で出力が制限された状態で。フルスペックなら……見当もつかないわ」


 燐は答えなかった。リディアの言葉が、どこか遠い場所を指しているのを感じていた。正確な場所は分からない。だが、その方角に自分の知らない何かがある気配はあった。


「まるで——」


 リディアが言いかけて、口を閉じた。それから、小さく笑った。自嘲に似た笑みだった。


「ごめん。仮説の段階で言うことじゃないわね。忘れて」


「言え」


「……まるで最初からそう作られた器官みたい、って言おうとしたの。天然の才能じゃなくて、設計された能力。馬鹿な仮説でしょ。人間の脳を設計するなんて」


 リディアの声は軽かった。わざと軽くしていた。だが、燐の背中を見る目だけが、笑っていなかった。


 燐は前を向いたまま歩き続けた。何も答えなかった。

 こめかみの奥で、炭化した回路がちりちりと熱を持った気がした。気のせいかもしれない。だが、リディアの言葉の欠片が、脳の中のどこかに引っかかったまま落ちなかった。


 設計された。

 最初から。


 その二語を、思考の外に押しやった。今は考えるべき時じゃない。遺跡の探索中に意識を散らすのは致命的だ。


「バルカス。後方に異常は」


「ない。だが空気の流れが変わった。奥に広い空間がある」


 バルカスの報告は簡潔だった。燐も同じことを感じていた。回廊を流れる風の速度が上がっている。前方に大きな空間が開けている証拠だ。


* * *


 回廊が、途切れた。


 突然ではなかった。天井が段階的に高くなり、壁の間隔が広がり、柱が太くなっていく。螺旋の曲率が緩やかになり、直線に近づいていく。

 そして——広間に出た。


 円形の広間だった。直径は二十メートルほど。天井はアーチの連なりで構成され、その頂点は闇に消えている。壁面は回廊と同じ藍色の石だが、ここではその表面に刻まれた魔導回路の溝が肉眼で見えるほど深く、太かった。血管のような溝が壁一面を走り、床にまで伸びて、広間の中央に向かって収束していく。


 中央には何もなかった。

 ただ、床の石が一段低くなっている。浅い窪みのような構造。その窪みの縁に沿って、小さな文字が刻まれていた。


 そして——広間の対面に、扉があった。


 燐は広間の入り口で足を止めた。


「リディア、先にマナの状態を確認しろ。バルカス、広間の外周を回って確認を。ロリは俺のそばから離れるな」


「了解」「分かっています」


 バルカスが大斧を構えたまま、広間の壁沿いを歩き始めた。足音を殺した慎重な歩き方で、壁龕や柱の影を一つずつ確認していく。


 リディアは端末を広間全体に向けてスキャンを始めた。回りながら数値を読み上げていく。


「マナ密度、回廊の三倍以上。壁面の回路が全部ここに集まってる。この広間が中枢……心臓部ね」


 リディアは床の窪みの傍にしゃがみ込んだ。縁に刻まれた文字に端末を向ける。


「ここにも碑文が。さっきのより新しい刻印ね。後世に追加されたものだわ」


「読めるか」


「少し待って……」リディアが文字列をなぞりながら呟いた。「『此処に集いし……子らの……帰還を……待つ』。……帰還を待つ場所、ということね。この窪み自体が何かの祭壇か、あるいは——」


 リディアの言葉が途切れた。端末を下ろし、窪みの縁から顔を上げた。その視線が、広間の対面にある扉に向いていた。


「あの扉」


 燐も見ていた。


 石の扉だった。広間の壁に嵌め込まれた、重厚な一枚岩。高さは三メートル。幅は二人分。表面は回廊の壁と同じ藍色の石だが、その中央に——紋章が刻まれていた。

 円の中に三日月。盆地の入り口のアーチにあったものと同じモチーフだが、ここでは風化がない。銀色の線で精緻に彫り込まれた三日月が、発光石の光を受けて鋭く輝いている。そして三日月に重なるように——二本の線が、上から下に走っていた。


 牙だ。


 碑文に記された「歯」あるいは「牙」の意匠が、三日月と重ねて刻まれている。円と月と牙。三つが一つの紋章として、扉の中央に鎮座していた。


 リディアが息を呑んだ。


「さっきの碑文の——牙のモチーフがここにも。この紋章、月と牙が組み合わさってる。何かの……象徴?」


 燐は扉を見つめていた。脳内魔法式が、最低出力のまま扉の向こうの気配を探ろうとしている。厚い石の向こうに、マナの塊がある。大きい。回廊全体の魔導回路が集約した先に、さらに巨大な何かが控えている気配。


 その時、リディアが不意に足を止めた。


 扉を見つめたまま、動きが止まった。端末を持つ手が下がり、眼鏡の奥の目が、どこか遠くを見ていた。


「リディア?」


「……父さんたちも、これを見たのかな」


 声が小さかった。


 燐は振り返った。リディアの横顔に、いつもの軽さがなかった。端末の画面の光が頬を照らし、その下に影を落としている。眼鏡のレンズが発光石の光を反射して、目の表情が読みにくかった。


「父さんと母さん。二人とも帝国の学術院にいたの。古代魔導技術の研究者。私が技術士官になったのも、二人の影響よ。あの人たちが残した研究ノートを読んで育ったから」


 リディアの指が、端末の縁を無意識に撫でていた。


「二人の研究テーマが、まさにこれだったのよ。古代の祭祀施設と魔導技術の関連性。何年もかけて古文書を読み解いて、フィールドワークに出て……この地域にも来ていたはず」


 リディアの声が、掠れた。


「結局、何を見つけたのかは聞けなかった。二人とも——」


 言いかけて、リディアは口を閉じた。唇を引き結び、端末を持ち直した。ポニーテールを片手で払った。いつもの仕草だった。だが、その手の動きが一拍だけ遅かった。


「ごめん。変なこと言ったわ。続けましょう」


「変じゃない」


 燐がそう言った。短く。それだけだった。


 リディアは一瞬だけ燐を見た。何か言いかけて、やめて、代わりに小さく息を吐いた。鼻から抜ける短い吐息。笑いとも溜息ともつかない音だった。


「……ありがと」


 ロリがリディアの袖を引いた。


「リディアさんのお父様とお母様は、すごい方だったのですね」


「まあね。……うん。すごい人たちだったわよ。あんまり家にはいなかったけど」


 リディアがロリの銀髪に手を伸ばし、乱れた一房を耳の後ろに直した。何気ない仕草だった。指先が少女の耳に触れた時、ロリが小さく身じろぎした。くすぐったかったのだろう。リディアの口元が、ようやく緩んだ。


「さて。あの扉の向こうに何があるか確認しないとね」


 リディアは端末を構え直し、扉に向かって歩き出した。背筋が伸びていた。揺らいだ感情を、好奇心の方に振り切る——この女はそういう切り替え方をする。燐はそれを知っていた。


* * *


 扉の前に立った時、匂いが変わった。


 回廊に漂っていた古い石の匂いに、別の何かが混じっていた。金属に似ている。だが鉄ではない。もっと古い、もっと冷たい金属の匂い。鋳造されたばかりの青銅のような、鼻の奥をつんと刺す香り。


「この扉の向こう、マナ密度が桁違いよ。端末の測定レンジを超えてるわ」


 リディアの声に緊張が滲んでいた。


 燐は扉の表面に手を近づけた。触れない。五センチの距離で止めた。掌にマナの圧力を感じる。温かくも冷たくもない。ただ密度だけが、異様に高い。


「封鎖術式は感じない。この扉は鍵がかかっていないか、あるいは別の方法で——」


 ロリが、燐の手を離した。


 するりと。握っていた小さな掌が、水が流れるように燐の指の間から抜けた。今度は夢遊状態ではなかった。少女の目は覚めていた。青藍の瞳が、扉の中央の紋章を見つめている。


「ロリ?」


「この印を、知っています」


 少女の声は静かだった。壁に触れた時の「知っている気がする」とは違う。もっと確かな声だった。


「知っている……のですが、どこで見たのか思い出せません。けれど、この三日月と、この——」


 ロリの視線が、紋章の中の二本の線——牙の意匠に移った。


 少女の顔から、色が引いた。


 白い肌が、さらに白くなった。唇の赤みが消えた。瞳孔が開いた。それは恐怖の反応だった。身体が記憶している恐怖。頭では理解できない、もっと深い層に刻まれた何かへの反応。


「……こわい」


 声が震えていた。


 ロリの手が自分の口元に上がった。唇を押さえている。何かを——自分の口の中の何かを確認するように、指先が唇の裏に触れた。


「こわい。どうして。ロリは、何が怖いのか分からないのに、こわい」


 少女の目から涙は出ていなかった。だが、全身が細かく震えていた。凍えているように。いや——凍えているのとは違う。身体の奥の奥から、説明のつかない震えが上がってきている。


 燐はロリの前にしゃがんだ。少女の両肩に手を置いた。薄い肩が震えている。


「離れるぞ。扉から離れる」


「……はい」


 ロリは素直に頷いた。だが、その視線は燐の肩越しに、まだ扉の紋章を見ていた。恐怖と——それ以外の何か。知らなければならない、という引力のようなもの。少女の瞳の中で、恐怖と引力がぶつかり合っていた。


 燐はロリを扉から五メートル離れた位置まで連れ戻した。バルカスが黙ってその前に立ち、ロリと扉の間に自分の大きな背中を挟んだ。少女の視界から紋章を遮るように。言われてやったのではない。自分の判断だった。


「あの扉、今日は開けない方がいいわね」


 リディアが静かに言った。端末を閉じ、ポニーテールを結び直している。


「碑文のデータは取ったわ。壁面の魔導回路のスキャンも八割は済んでる。持ち帰って解析する時間が要る。それに——」


 リディアの視線がロリに向いた。


「ロリの反応を見ると、あの扉の向こうは……準備なしに踏み込んでいいものじゃないわ」


「同意だ」バルカスが言った。「退路を確認しながら撤収する」


 燐は頷いた。ロリの手を取り直した。少女の指はまだ冷たかったが、震えは止まりかけていた。


「帰れるか」


「はい。ロリは大丈夫です」


 少女はそう答えて、小さな足を一歩踏み出した。回廊の方へ。扉に背を向けて。


 だが——その直前に、ロリは一度だけ振り返った。


 扉の紋章を見た。三日月と牙。恐怖で顔色を失ったまま、それでも目を逸らさずに、二秒だけ見つめた。それから前を向いた。


 四人が広間を離れ、螺旋回廊を登り始めた。


 バルカスが殿を務め、大斧を横に構えて後方を見張っている。リディアは端末を片手に、壁面のデータを追加で記録しながら歩いた。燐はロリの手を引いて、回廊の中央を歩いた。


 登りの螺旋は、下りより長く感じた。


 足音だけが石の壁に反響している。四人分の靴音。


 その中で、ロリが小さく口を開いた。


「リン」


「ん」


「あの扉の向こうに、何があると思いますか」


「分からない。だが、リディアが解析すれば何か分かるだろう」


「……ロリが怖がったから、帰ることにしたのですか」


「お前が怖がったからじゃない。情報が足りないから帰るんだ。知らないものに突っ込むのは、馬鹿のやることだ」


 ロリは少しだけ黙った。それから、燐の手を僅かに強く握った。


「ありがとうございます」


「何がだ」


「嘘が上手になりました、リン」


 燐は答えなかった。前を向いたまま、口元が一瞬だけ動いたが、暗い回廊の中ではロリにも見えなかったはずだ。


* * *


 地上に出ると、夕刻の光が盆地を満たしていた。


 密使の道の出口から注ぐ斜めの日差しが、石柱の影を長く引いている。空気が乾いて温かく、地下回廊の冷気に慣れた身体が、外気の温度差に反応して腕の産毛が逆立った。


 カイが岩壁の上から手を振っていた。


「お帰りなさい! 何かあったか——あったみたいだな、その顔」


「報告は後だ」燐が言った。「東の方角、異常は」


 カイの表情が引き締まった。


「セレスが言うには、丘陵の向こうに何かの反射を二回確認した。不定期だ。距離は四キロ以上。正体は掴めていない」


「了解した。今夜は盆地内で野営する。見張りの増員が必要だ。全員で回す」


 燐はロリを石柱の一つに座らせた。少女の顔色はまだ青白かったが、地上の空気を吸って呼吸は落ち着きつつあった。


 バルカスが腰のポーチから携行食糧を取り出し、ロリの膝の上に置いた。干し肉と、小さく砕いた石パン。無言だった。ロリに声はかけず、視線も合わせなかった。ただ食糧を置いて、そのまま岩壁の方へ歩いていった。見張り位置の確認をするためだろう。


 ロリは膝の上の食糧を見下ろした。それから、バルカスの背中を見た。


「バルカスさん」


 バルカスが、足を止めた。振り返らなかった。


「ありがとうございます」


「……腹が減っては歩けんからだ。それだけだ」


 バルカスの声は素っ気なかった。そのまま歩いていった。


 ロリが干し肉を齧った。硬い肉を小さな歯で咀嚼する音が、石柱の間に静かに響いた。


 燐はその場にしゃがみ込み、盆地の地面を見つめていた。

 脳の奥で、リディアの言葉が反芻されている。


 ——まるで最初からそう作られた器官みたい。


 そして、碑文の一節。


 ——母なる者の血は民を癒し、民は歓び、盃を掲げた。


 二つの情報の間に、まだ線は引けない。だが——どちらも、知らなかった何かの端に触れた感覚だけが、指先に残っていた。


 扉の向こうには、まだ行けていない。あの紋章がロリに与えた恐怖の正体も、分からないままだ。


 夕陽が石柱の頂を掠め、盆地の底に長い影を落とした。影の中に四人と、地上の二人。六つの影が石柱の間に伸び、やがて夕暮れの暗さに溶けていく。


 遺跡の入り口——地下に続く階段の奥から、微かに風が吹き上げていた。冷たい風。古い石と金属の匂いを含んだ風。


 その風の向こうで、あの扉が待っている。扉の表面に刻まれた三日月と牙の紋章が、闇の中で発光石の残光を映して、微かに——微かに光り続けていた。

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