第3章-46話「古代遺跡の入口」
密使の道は、道と呼ぶには寛大すぎた。
石柱二本の隙間を抜けた先に広がっていたのは、断崖に挟まれた亀裂のような空間だった。両側の赤い岩壁が頭上三十メートルほどで互いに庇のように迫り出し、空を細い帯に切り詰めている。足元は風化した石の破片と乾いた苔の残骸で覆われ、一歩ごとに靴底の下で砕ける感触があった。
上空からの視認は確かに遮られる。だが、それは同時に、自分たちの視界も奪われることを意味していた。
カイが車両を石柱の手前に隠してから、すでに半日が経っていた。車両の轍を消す作業にセレスが一時間を費やし、偽装網をかけ終えた時にはもう昼を過ぎていた。
以来、六人は徒歩で密使の道を南に進んでいる。
道は緩やかに蛇行しながら下っていた。赤い岩壁の色が次第に暗くなり、灰褐色の層に変わる。地質が変化している。リディアの端末が静かに磁場の数値を記録し続けている。
匂いが変わった。乾いた岩の無機質な香りに、古い湿気が混じり始めた。地下水脈が近いのかもしれない。冷たい空気が断崖の裂け目から吹き上げ、汗ばんだ首筋をなぶった。
「足元、注意しろ。崩落の跡がある」
燐が低く言い、先頭を行くカイに合図を送った。
道の左半分が崩れ落ちていた。岩盤が割れ、下に暗い空洞が覗いている。古い崩落だ。大戦の魔術爆撃で地形が変わったという老人の証言が、目の前で裏付けられていた。
カイが大剣の柄に手をかけたまま、崩落の縁を慎重に回り込んだ。その後をセレスが続き、リディア、ロリ、燐と進む。バルカスが殿を務め、時折足を止めては後方を確認していた。
「リディア。あとどれくらいだ」
「地図と磁場の変化から推測すると……あと二キロ弱。南側で道が開けるはず。遺跡群はその先よ」
リディアは端末の画面を覗き込みながら答えた。片手で端末を操作し、もう片方の手で岩壁に触れている。指先が赤い岩肌の粗い表面をなぞるたび、砂粒がぱらぱらと落ちた。
「この岩、面白いのよね。基盤層の年代が周囲と全然違う。少なくとも数千年分の堆積が欠落してる。まるで、何かの力で一度地表が削り取られたみたい」
「魔術爆撃の痕か」
「いいえ。もっと古い。大戦よりずっと前。この規模の地形変異を起こすには、戦略級の魔術か……それとも、戦略級に匹敵する何か」
リディアの声が、いつもの軽さから僅かにずれた。学者の声だった。仮説の手前、推論の入り口に立った時の、慎重な抑制。
ロリは二人の会話を聞きながら、足元を見つめて歩いていた。小石の花と蜂蜜の瓶は腰の革袋に入れてある。花冠はリディアに預けた。風で飛ばされないように。
少女の革靴が、崩れた石を踏んだ。その下から、見慣れない色が覗いた。赤い岩とは違う、青みを帯びた灰色の石片。表面に何かの線が刻まれている。
「リン」
ロリが立ち止まった。屈み込んで、石片を拾い上げる。
掌に載るほどの小さな破片。だが、その表面を走る線は、自然の亀裂ではなかった。規則的な曲線が、石の縁に沿って走っている。文様だ。人の手で刻まれた。
「リディアさん。これ……」
リディアが振り返り、ロリの掌を覗き込んだ。端末を翳す。画面に数値が走った。
「残留マナ……微量だけど検出。この石、ただの岩じゃないわ。建造物の一部よ。遺跡の外縁部の破片がここまで散っている」
バルカスが歩き寄り、石片を一瞥した。
「近い、ということだな」
「ええ。かなり」
パーティは歩を速めた。
* * *
密使の道が終わった。
文字通り、途切れた。
最後の岩壁の隙間を抜けた瞬間、空間が一気に拡がった。頭上の圧迫が消え、薄曇りの空が丸く開けている。
盆地だった。周囲を赤い岩壁に囲まれた、直径三百メートルほどの窪地。乾いた空気の底に、別の時代の残骸が横たわっていた。
石柱。
一本、二本ではない。十数本の石柱が、盆地の中に不規則に、だが何らかの法則に従って立ち並んでいた。高いものは五メートル。低いものは人の腰ほど。風化で角が丸くなり、表面が赤い砂に覆われているものもあったが、基部に刻まれた文様は、まだ読み取れるほどに残っていた。
石柱の向こうに、建造物があった。
岩壁に食い込むように造られた正面壁。人工の直線が自然の曲面と交差し、階段状の入り口が地下に向かって降りている。正面壁の上部にはアーチが架かり、その頂点に円形の紋章が彫られていた。円の中に三日月と、三日月に重なる何かの形。風化が激しく、細部は判然としない。
ポルタ・ルイナ。古代遺跡群の入り口。
燐は盆地の縁で足を止め、全景を見渡した。石柱の配置。入り口の方角。岩壁の高さと死角。脳が自動的に地形を戦術として読み取っていく。入り口は一つ。退路は密使の道のみ。もし誰かにこの盆地を塞がれたら、逃げ場はない。
だが、逆に言えば——少人数で守れる地形でもある。入り口に二人を置けば、内部の探索隊を援護できる。
「カイ、セレス。盆地の縁で見張りを頼む。東側の岩壁の上が見通しが利く。二時間交代で、一人は上、一人は入り口付近に」
「了解」
カイが即座に頷き、大剣を背負い直した。セレスは黙ってライフルのスコープカバーを外し、東の岩壁に目をやった。すでに登攀ルートを探している。
「バルカス。入り口の安全確認を——」
「言われんでもやる」
バルカスは大斧を片手に下げたまま、石柱の間を歩き始めた。足音を殺した歩き方。歴戦の軍人の身体が、自動的に索敵モードに入っている。
石柱の影を一つずつ確認し、入り口の階段を上から覗き込み、振り返って燐に視線を送った。親指を下に向ける——内部への道が確認できた、という合図。
リディアは石柱の一本に駆け寄り、基部の文様に端末を向けていた。
「この文様……古代ルーンの一種ね。聖教系じゃない。もっと古い。アルカディアの大書庫で見た拓本と同じ体系……」
声が弾んでいる。ポニーテールが揺れる。学者が発見を前にした時の興奮が、抑えきれずに体の動きに漏れ出していた。
「リディア。後でいい。まず内部の構造を確認する」
「はいはい。わかってるわよ」
口ではそう言いながら、端末で三枚のスキャン画像を撮っている。燐はそれを見て、口元が僅かに緩んだ。すぐに引き締める。
ロリは、盆地に足を踏み入れた時から様子が違っていた。
少女の足が、止まっていた。
密使の道の出口で立ち止まったまま、石柱の並ぶ盆地を見つめている。青藍の瞳が見開かれ、唇が微かに開いている。呼吸が浅い。まるで、予期しなかった風景に不意打ちされたように。
「ロリ?」
燐が声をかけた。
ロリの唇が動いた。声にならない何かを形作ろうとして、二度、三度と空を噛んだ。
それから——。
「ここ……」
少女の声は掠れていた。
「知っている気がします」
風が盆地を抜けた。乾いた砂が石柱の表面をさらい、微かな音を立てた。
ロリの銀髪が揺れ、その下の表情が燐の目に入った。恐怖ではなかった。だが安心でもない。何かを思い出しかけて、思い出す寸前で指の間からすり抜けていく、あの感覚。掴めない記憶の残像に触れた者の、落ち着かない目。
「知っている? 来たことがあるのか」
「わかりません。でも、この石の並び方……この空気の匂い……」
ロリの鼻腔が微かに震えた。盆地の底に溜まった空気には、密使の道のそれとは別の匂いがあった。古い石に染みついた、時間そのもののような匂い。何千年という歳月が石に残した、乾いた甘さに似た微かな香り。
「覚えているのではないのです。身体が……知っているのです。足が、ここを歩いたことがあると言っている気がして」
ロリの手が自分の胸に触れた。薄いローブの上から、心臓の位置を押さえている。鼓動を確かめるように。あるいは、鼓動の中に混じった異物を探すように。
「でも、ロリはここに来たことがないはずです。ずっと……あの場所にいたのだから」
あの場所。砦の地下。封印の中。
ロリの声は平坦だったが、指先が震えていた。ローブの胸元を握る力が、爪の先を白くしている。
燐はロリの前にしゃがんだ。少女の目線に合わせる。
「怖いか」
「怖い……のとは、少し違います」
ロリが燐を見上げた。その青藍の瞳に、二つの感情が同居していた。知らないはずのものを知っている自分への戸惑い。だが同時に、それを知りたいという好奇心。恐怖と好奇心が、少女の瞳の中で静かにせめぎ合っている。
「自分の中に、自分ではない誰かの記憶がある気がするのです。それがとても……不思議で」
燐は数秒、ロリの目を見つめた。
この少女の中に何があるのか、燐にはまだわからない。わからないが——ロリ自身が、それを知ろうとしている。廃村で「強くなりたい」と言い、花畑で「戦いたい」と言い、昨日「私の力って何なのですか」とリディアに問いかけた。その延長線上に、今のこの戸惑いがある。
自分の中にある未知を、恐れながらも見つめようとしている。
「……わからないことは、悪いことじゃない」
燐はロリの銀髪に手を置いた。軽く。触れる程度に。
「わかるまでは、俺たちがそばにいる」
ロリの瞳が揺れた。唇が震え、そして——小さく頷いた。
* * *
遺跡の入り口は、地下に向かって階段が降りていた。
石段は幅が広く、三人が並んで歩けるほどだ。両側の壁に文様が刻まれ、階段を降りるにつれて文様の密度が増していく。踏み面は磨り減り、中央が僅かに窪んでいた。何千年もの間、無数の足がこの石を踏んだ痕跡。
だが、降り始めてすぐに、行く手が塞がれた。
階段の十五段目で、空間が変わった。空気の流れが途切れ、見えない壁にぶつかったように進めなくなる。物理的な障壁ではない。目に見えない力が、体ごと押し戻そうとしている。
「魔術的ロック」
リディアが端末を翳した。画面に数値が走り、グラフが跳ねる。
「やっぱりね。マナ密度が階段の途中で急激に跳ね上がってるわ。ここに封鎖術式が張ってある。入り口を塞いでるの」
リディアは階段の壁に端末を近づけ、ゆっくりと左右に動かした。数値の変化を追っている。
「見えてきた。核が三つ——左、右、天井。三角封鎖ね」
「三角封鎖?」
燐が問い返した。
「古典的な型だけど、出力が桁違い。数千年動き続けてるの。現代じゃ無理よ、こんなの」
リディアは壁の文様を指でなぞった。
「ここ。核の一つがこの文様の下にある。マナの流れが渦を巻いてるのが端末で見える。でも……」
リディアの指が止まった。眉が寄る。
「解析はできるのよ。構造も、マナの流れも。でも解除は話が別」
「何が問題だ」
「入力口がないの。普通なら解除キーか、マナの注入口がある。これにはどちらもない。設計思想が根本的に違うのよ」
リディアが振り返り、燐を見た。
「あんたの脳内魔法式なら、何か感じ取れない? 私は構造を読めるけど、直感的に術式を操る能力はあんたの方が上よ」
燐は階段を数段降り、見えない壁の境界に手を伸ばした。
指先が空気に触れた。冷たい。温度ではなく、もっと深い層の冷たさ。マナが高密度で圧縮された空間特有の、骨の髄まで沁みるような圧迫感。
脳内魔法式を、最低出力で起動した。半分以下。探査のみ。
思考の端に、術式の輪郭が浮かんだ。
三つの核。リディアの解析通りだ。だが、燐の脳内魔法式が捉えたのは、リディアの端末には映らない別の情報だった。三つの核を繋ぐマナの流れのリズム。脈動。一定の間隔で強弱を繰り返す波のようなパターン。
「リディア。この術式、脈を打っている」
「脈?」
「心臓の鼓動みたいなリズムで、マナの出力が周期的に揺らいでいる。機械的な封鎖じゃない。これは——」
燐は目を閉じた。脳内の炭化した回路に負荷をかけないよう、慎重に意識を集中する。こめかみの奥に圧迫感が走ったが、まだ許容範囲だ。
リズムを読む。強い拍。弱い拍。強い拍。弱い拍。弱い拍。
三拍子ではない。五拍子でもない。不規則に見えて、しかしどこかで聞いた覚えのあるパターン。
呼吸だ。
吸って、吐いて、止めて。吸って、吐いて、止めて。
人間の呼吸のリズムに似ている。
「リディア。この術式は生き物の呼吸に同期するように設計されている。封鎖のインターフェースがないんじゃない。インターフェースは術者自身だ。呼吸を合わせて、マナの波を相殺する」
リディアの目が見開かれた。端末の画面を見直し、数値を再解析する。
「……なるほど。だから入力口がなかったのね。術式のリズムに呼吸を同期させて、共振点でマナを逆位相にぶつける。言葉にすればシンプルだけど、術式のリズムを体感で読み取れなきゃ、構造をいくら分析しても解除できない」
リディアが燐を見た。その目に、悔しさと感嘆が混じった色が浮かんでいた。
「私の解析と、あんたの直感。両方揃って初めて解けるわけね」
「お前が構造を読んでくれなきゃ、俺も闇雲に探るだけだった」
燐はそう言いながら、すでに呼吸を術式のリズムに合わせ始めていた。
吸う。吐く。止める。
マナの脈動と自分の呼吸が、少しずつ噛み合っていく。
三回目の周期で、リズムが完全に同期した。
「今だ」
燐が最低出力のマナを逆位相で放った。
指先から放たれたマナが、術式の脈動と正面からぶつかる。波と波が干渉し——打ち消し合った。
空気が変わった。
見えない壁が、音もなく溶けた。氷が日差しに触れて消えるように、圧迫感が階段の下方に引いていく。封鎖されていた空間が開き、階段の先から冷たい風が吹き上がってきた。
古い石と、さらに古い何かの匂い。長い年月を閉じ込められた空気が、初めて外に触れた時の、ほんの僅かに甘い腐敗に似た香り。
「開いた……」
リディアが息を呑んだ。
「あんたたち、すごいわね。正直、半日はかかると思ってた」
「リディアの解析が速かったからだ」
「はいはい。お世辞はいらないわよ」
リディアはそう言いながら、口元が緩んでいた。ポニーテールを片手で払い、端末を構え直す。
「でも、これが入り口の封鎖一つよ。中に何重の仕掛けがあるか分からない。慎重にいきましょう」
* * *
階段は、さらに続いていた。
封鎖の先から空気が変わった。外の乾いた砂漠の気配が完全に断たれ、石と冷気だけの世界になる。
壁の文様が変わった。入り口付近の幾何学的な線から、より有機的な曲線へ。植物の蔓のような模様が壁面を覆い、その中に円形の紋章が等間隔で嵌め込まれている。紋章の中心にはどれも同じ三日月の意匠があった。
「月のモチーフが繰り返してるわね」
リディアが壁に触れながら呟いた。指先で紋章の輪郭をなぞる。
「月詠みの神殿に関連する施設だとすれば、辻褄は合う。ここは神殿そのものじゃなく、外周の回廊——参道のようなものかしら」
階段を降りきると、回廊が現れた。
幅は四メートルほど。天井は高く、アーチ型に組まれた石が、燐の身長の三倍以上の高さで弧を描いている。等間隔に柱が立ち、柱の間に壁龕が設けられている。かつて何かが安置されていたのだろう。今は空だった。
バルカスが大斧を構え直し、回廊の先を睨んだ。
「埃が少ない」
低い声で言った。燐も気づいていた。数千年前の遺跡にしては、空気が澄んでいる。壁面に蜘蛛の巣もない。封鎖術式が、内部の環境そのものを保存していたのか。
「空気は循環してる」
リディアが端末を確認しながら言った。
「微かだけど、奥から風が来てるわ。どこかに換気口か、地下水脈に繋がる空洞があるのかもしれない」
回廊を進んだ。足音が石の壁に反響し、六人の靴音が幾重にも折り重なって返ってくる。いや——四人だ。カイとセレスは地上に残している。
燐、リディア、ロリ、バルカスの四人。回廊の中央を燐とリディアが歩き、ロリが二人の間に、バルカスが後方で大斧を横に構えていた。
回廊の壁に、新しい種類の文様が現れ始めた。文字だ。文様の中に混じって、古代の文字列が石に刻まれている。燐には読めない。
「リディア、あれは」
「古代ルーン。アルカディアの文献で見た体系と……完全に同じかは分からないけど、近い。解読には時間がかかるわ。でも——」
リディアが足を止めた。端末から目を上げ、壁面の一点を見つめている。
「これ。この部分だけ、書体が新しい」
壁面の碑文の中に、周囲よりも彫りが浅い一節があった。後から追加されたように見える。文字の角が鋭く、風化が少ない。他の碑文が数千年の歴史を持つとすれば、この部分は数百年——あるいはもっと新しいかもしれない。
「誰かがここに来て、書き足したの?」
リディアの声に、好奇心と警戒が混じった。この遺跡に入り口の封鎖があることを考えれば、ここに到達できた者は限られている。
「後で調べる。今は先に進もう」
燐は回廊の奥に目をやった。暗い。リディアの端末の光だけでは、十メートル先がぼんやりと見えるだけだ。
バルカスが腰のポーチから携行用の発光石を取り出し、掌に載せて軽く叩いた。白い光が回廊に広がり、石の壁面が一斉に浮かび上がった。
回廊は、奥に向かって緩やかに湾曲していた。直線ではない。螺旋の一部のように、大きな弧を描いて地下を巡っている。
「螺旋構造か」
「ええ。天文施設に多い設計よ。螺旋の下降で地上の振動を減衰させて、精密な観測をするための構造。これが月詠みの神殿の外周回廊だとすれば、螺旋の中心に本殿があるはず」
ロリは回廊の壁に手を触れていた。
白い指が石の表面を滑り、文様の凹凸をなぞっていく。その動きは何かを確かめるようでもあり、何かに導かれるようでもあった。
少女の呼吸が、微かに速くなっていた。
「ロリ」
燐が声をかけた。
「大丈夫です。ただ……この壁が、温かいのです」
「温かい?」
燐は壁に手を当てた。冷たい。石の冷気が掌に伝わる。温度は外気より明らかに低い。
「俺には冷たいが」
「ロリには、温かく感じるのです。体温みたいに。ここだけ……ここに手を当てると、胸の奥がじんわりとして……」
ロリは自分の言葉に戸惑っていた。表現が追いつかない。感覚が先を走り、言葉がそれを捕まえられずにいる。
リディアが端末をロリの手元に向けた。数値を確認し、眉を上げた。
「マナの流動が微増してるわ。ロリが壁に触れてる間だけ。離すと戻る。壁がロリに反応している……?」
リディアの声が低くなった。端末の画面を見つめる目に、研究者の光が灯る。
「触れていいのか」
バルカスが後方から声をかけた。警告の意図がある。
「むやみに触れるな。罠の可能性がある」
「罠じゃないと思うわ。マナの反応は防衛的じゃない。認識型よ。何かを確認しているだけ。でも——念のためロリ、壁からは手を離して」
ロリは言われて手を離した。名残惜しそうに指先が壁を撫でたが、素直に従った。
* * *
地上。
カイは東側の岩壁を登り切り、盆地を見下ろせる位置に身を据えていた。
大剣を横に置き、両手を岩の縁にかけて四方を見渡す。盆地の中には石柱と遺跡の入り口が見え、その向こうの南西は乾いた荒野が霞んで続いている。北は密使の道が岩壁の裂け目に吸い込まれていた。東——。
東の視界が、最も開けていた。
丘陵が連なり、その向こうに薄い地平線がある。空と大地の境目がぼやけた、乾季特有の景色。空気が揺らぎ、遠くの地形が陽炎で歪んでいる。
セレスは盆地の縁、入り口の近くに位置を取っていた。魔導ライフルを膝の上に横たえ、東の岩壁の上のカイと視線を交わしている。
「カイ。東の丘陵、三時方向」
セレスの声が、低く届いた。
カイは目を凝らした。三時方向。東南東。丘陵の稜線が重なる辺り。
何も見えない。陽炎が揺れ、岩の色と空の色が曖昧に混じり合っている。
「何か見えるか」
「見えない。だから気になる」
セレスの返答は奇妙だったが、カイには意味が通った。
見えるものより、見えないものの方が厄介だ。燐殿がよく言う。セレスのスコープは肉眼より遥かに遠くを捉えるが、セレスが「見えない」と言った時は、何かの気配だけが引っかかっている時だ。
「どのくらい先だ」
「丘陵の向こう。四キロ以上。光の反射か、動きか。一瞬だけ何かが見えた気がした。今は何もない」
カイは手庇をかざし、もう一度東南東を睨んだ。
何も動いていない。
だが、ここ数日の旅で学んだことがある。何も見えない時ほど、警戒を緩めてはならない。
「気をつけよう。交代まで、俺はそっちを見張る」
「……うん」
セレスは短く頷いた。ライフルの銃口を東に向けたまま、スコープに目を戻した。
風が盆地を渡った。乾いた風。その中に、微かに——人の動きに似た何かの気配。だが風が止むと、丘陵はまた静まり返った。
カイは岩壁の上で身を低くし、大剣の柄に手を添えた。
気のせいかもしれない。だが、気のせいだと片付けるには——胸の奥がざわつきすぎていた。
* * *
回廊は、さらに深くなっていた。
螺旋を四分の一ほど下った辺りで、壁面の文様が途絶えた。代わりに、石の表面が磨かれたように滑らかになっている。文字も紋章もない、ただの灰色の石壁。
「ここから先は、設計思想が違うわ」
リディアが壁に端末を当てながら呟いた。
「外周の回廊は装飾を兼ねた参道。でもここから先は——実務空間。何かの機能を持つ区画よ」
バルカスの発光石が照らす範囲の先に、回廊が広がり始めた。天井が高くなり、柱の間隔が開く。足元の石畳が、それまでの粗い石材から、目の細かい研磨された石に変わった。靴底から伝わる感触が違う。冷たく、硬く、吸い込まれるように滑らかだった。
そして——奥から、光が見えた。
燐は足を止めた。
バルカスも同時に止まり、大斧を構えた。
「何だ、あれは」
回廊の暗闇の向こうに、微かな光が脈打っていた。
青白い。蛍火に似ているが、もっと深い色。群青と白の中間のような光が、ゆっくりと明滅を繰り返している。
吸って。吐いて。止めて。
入り口の封鎖術式と同じリズムだ。この遺跡そのものの呼吸。
「マナの集中点がある」
リディアの端末の数値が跳ね上がった。声が緊張している。
「この先に……何か、大きなマナの源泉がある。数値が振り切れかけてるわ」
燐はリディアを見た。リディアは燐を見返した。二人の視線が交差し、同じ判断が無言で通った。慎重に。だが、ここで引き返す選択肢はない。
「バルカス、先頭を頼む。何かあったらロリを連れて退路を確保しろ。リディア、俺の後ろに——」
言いかけて、止まった。
ロリが、歩き出していた。
四人の中で最も前に出て、回廊の暗闇に向かって、小さな足が一歩を踏み出す。
その目は、奥から脈打つ青白い光に向けられていた。怯えてはいなかった。引き寄せられている。磁石に引かれる鉄のように、少女の身体が光の方へ向かっていた。
「ロリ、待て——」
燐が手を伸ばした。
ロリの右手が、暗闇に向かって差し出されていた。
五本の白い指が、脈打つ光の方へ開かれている。
少女の青藍の瞳に、回廊の奥の青白い光が映り込み——ロリの瞳そのものが、一瞬だけ、同じ色に染まった。
「呼んでいるのです」
ロリの声は穏やかだった。恐怖も興奮もない、ただ事実を述べるような静かな声。
「あの光が、ロリを呼んでいます」
回廊の奥で、青白い光がひときわ強く脈動した。
その光に照らされて、少女の銀髪が蒼く輝き、差し出された指先が闇の中に浮かび上がっている。
燐の手が、ロリの肩に届くまであと一歩——その距離が、やけに遠かった。




