表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/39

第2章-20話「グリフォンズ・ネスト」

いよいよ第二章開幕です!!


リオファル連合、国境監視砦――その名は「グリフォンズ・ネスト」。険しい山脈に抱かれるように築かれた石造りの要塞は、長年にわたり帝国との境界線を睨み続けてきた。アステリア大戦の爪痕は砦の各所に残り、戦後の物資不足は明らかだったが、城壁を巡る兵士たちの視線は鋭く、規律は厳格に保たれている。この砦が、燐とロリの新たな、そして不自由な仮住まいとなった。


魔の深林から担架で運び込まれた燐は、意識朦朧としながらも、砦の内部へと続く冷たい石畳の感触と、周囲を取り巻く無数の視線を感じていた。敵意、好奇、警戒、そして僅かな畏怖。様々な感情が渦巻く視線は、主に彼が庇うように抱きかかえていた小さな存在――ロリへと向けられているようだった。


一行は、砦の中央部に位置する医療棟へと直行した。 医務室は、戦時下を思わせる慌ただしさの中にも、一定の機能性が保たれていた。清潔ではあるが、使い古された医療機器と、壁際に並ぶ薬草や鉱物の棚、そして部屋の中央に置かれた治癒魔術用の祭壇のような設備が、魔術と科学が混在するこの世界の医療体系を物語っている。消毒液と薬草、そして微かな血の匂いが鼻をついた。


「急げ! こちらへ!」


軍医と思われる壮年の男性が、厳しい表情で指示を飛ばす。 燐は手荒く、しかし手際よく診察台へと移された。彼のボロボロの戦闘服は切り開かれ、ヴァルドの魔力剣によって深く切り裂かれた肩から脇腹にかけての傷口が露わになる。


「これはひどい…! よくぞこの状態で…」 「失血量も相当だぞ!」


軍医と数名の治癒魔術師(衛生兵だろう)が、燐の惨状を見て息を呑んだ。 すぐさま処置が開始される。傷口の洗浄、異物の除去。そして、治癒魔術師たちが燐の身体に手をかざし、詠唱を始めた。ペンダント型の魔導結晶が淡く光る。


<生命よ、芽吹け。傷よ、癒えよ。彼の者の内に力を…>


連合式の治癒魔術は、帝国のそれとは異なり、穏やかで持続的な効果を持つと言われる。淡く温かい緑色の光が、燐の傷口を包み込んでいく。細胞が活性化し、組織が再生していく微かな感覚。しかし、燐自身の魔力が完全に枯渇しているためか、術式への反応が著しく鈍い。


「駄目だ、魔力がほとんど残っていない! これでは治癒魔術の効果も半減してしまう!」

若い魔術師が焦りの声を上げる。

「致し方ない。外科的に処置する! 縫合キット、それから高濃度マナポーションを用意しろ!」

軍医が冷静に指示を飛ばす。麻酔をかける暇もないのか、あるいは魔力枯渇状態では効果がないのか、燐は朦朧とする意識の中、傷口を針と糸で直接縫合される鋭い痛みに、ただ歯を食いしばって耐えるしかなかった。


「軍医殿、マナポーションもほとんど吸収しません! 彼の魔力循環そのものが、異常なほど停滞しています!」

別の魔術師が報告する。 軍医は燐の顔色を窺い、厳しい表情でさらに指示を出した。

「…やむを得ん。特殊措置を行う。魔力循環促進剤の静脈投与、及び小型マナ活性化装置の連続照射だ。効果は未知数だが、何もしないよりはマシだろう。彼の生命維持を最優先としろ」


燐の腕に、冷たい針が刺され、淡く光る薬液が入った点滴袋が吊るされる。同時に、胸部には手のひらサイズの円盤状の魔術装置が設置され、そこから微弱な、しかし心地よい温かさを伴うマナの波動が、彼の身体の深部へと送り込まれ始めた。 これが、枯渇した魔力の回復を少しでも早めるための処置なのだろう。効果があるのかどうか、今の燐には判断できなかったが、僅かな温かさが、絶望的な暗闇の中に灯った小さな希望のようにも感じられた。


その間、隣の診察台では、ロリの診察が行われていた。 彼女に外傷は見られなかったが、極度の疲労と衰弱状態にあることは明らかだった。 しかし、医療スタッフを真に困惑させたのは、魔術的な測定結果だった。


「脈拍、体温、正常…いや、僅かに低いか? だが安定している」

「問題はマナ反応だ。何度計測しても、測定限界を振り切ってしまう…まるで、この子の身体そのものが巨大なマナの貯蔵庫か、あるいはブラックホールのように周囲のマナを吸収しているかのようだ…」 「生体パターンのスキャンも不可能。データベースのどの種族とも一致しない。人間…のはずだが、その構造が根本的に異なるのか…?」


スタッフたちは顔を見合わせ、声を潜めて議論する。 ロリ本人は、そんな周囲の困惑にも気づかず、ただ静かに目を閉じ、浅い呼吸を繰り返している。その存在は、近代科学と魔術理論の枠組みでは到底捉えきれない、未知なるものの気配を濃厚に漂わせていた。


どれほどの時間が経過しただろうか。 燐への応急処置と、ロリの診察が一段落すると、軍医は待機していたバルカスに報告した。

「傷は塞いだが、安心はできん。失われた体力、そして何より異常なまでの魔力枯渇状態を考えれば、数日は絶対安静が必要だ。予断は許さんぞ」


「分かっている」

バルカスは頷き、医療スタッフに礼を言うと、部下に命じて燐とロリを移動させる準備をさせた。


絶対安静を言い渡された燐は担架で、ロリはその隣を心配そうに見上げながら、医務室を後にした。 案内されたのは、砦の一角にある、古いが頑丈そうな石造りの建物の一室だった。 重々しい金属製の扉、壁に嵌められた鉄格子付きの小さな窓。部屋の中には、簡素なベッドが二つと、小さな木製の机、椅子が置かれているだけ。元は士官用の個室だったのかもしれないが、その様相は明らかに監房に近かった。


部屋に運び込まれ、ベッドに横たえられた燐の元へ、バルカスが再び姿を現した。 彼は腕を組み、厳しい表情でベッドの上の燐と、その傍らに立つロリを見下ろしている。


「治療は受けさせた。命に別状はないはずだ」


バルカスは、事務的な口調で言った。


「だが、貴様らの処遇はまだ決まっていない。本国からの指示があるまで、ここで待機してもらう」


彼は部屋の隅に設置された、水晶玉を嵌め込んだような魔術装置を顎で示した。


「この部屋は常に監視下にある。外部との連絡も、許可なく部屋から出ることも一切許さん。いいね?」


その声には、有無を言わせぬ響きがあった。


燐は、何も答えなかった。ただ黙って、ベッドの上からバルカスを睨み返す。 魔力も体力も尽き、武器も取り上げられてはいないが(油断か、あるいは泳がせているのか)、抵抗する術はない。この状況を受け入れるしかなかった。


バルカスは、燐のその視線を受け止めると、ふんと鼻を鳴らし、最後に釘を刺すように言った。


「妙な真似はするなよ、元『時雨』。貴様がどれほどの腕利きかは知らんが、ここは連合の砦だ。軽挙妄動は、貴様だけでなく、その幼女の命も縮めることになるぞ」


そう言い残し、バルカスは部屋を出て行った。 直後、外から重々しい金属音と共に、扉に錠がかけられる音が響いた。ガチャリ、という無慈悲な音。


完全な軟禁状態。 部屋に残されたのは、燐とロリ、そして重苦しい沈黙だけだった。 窓の外からは、兵士たちの訓練の掛け声や、時折響く魔術の訓練音、砦の日常的な喧騒が微かに聞こえてくるが、それはまるで、分厚い壁に隔てられた、自分たちとは無関係な世界の音のように感じられた。


「…………」 「…………」


しばらく、どちらも言葉を発することができなかった。 燐は、ベッドに横たわったまま、石造りの天井の染みをぼんやりと見つめていた。 身体は鉛のように重く、思考も鈍い。それでも考えなければならない。これからのこと。尋問で何を話すべきか。ロリをどう守るか。帝国や一族の追手は…。 そして、あの不可解な力…ロリの力と、自分自身の内に感じる奇妙な感覚…。 答えの出ない問いばかりが、頭の中を巡っていた。


「…リン」


不意に、か細い、しかし凛とした声が沈黙を破った。 見ると、ロリが隣のベッドに腰掛け、心配そうに燐の顔を覗き込んでいた。 その青藍の瞳には、深い疲労の色と共に、燐を気遣う強い光が宿っている。


「大丈夫ですか? 傷は…痛みますか?」


その純粋な気遣いに、燐のささくれだった心が、ほんの少しだけ和らいだ。


「ああ…もう平気だ。それより、君こそ疲れただろう。少し休め」


燐は、できるだけ穏やかな声で答えた。身体を起こそうとしたが、まだ力が入らない。


「はい…」


ロリは素直に頷き、燐のベッドに腰を下ろした。だが、すぐに眠る様子はなく、ただじっと、鉄格子の嵌まった窓の外…見えるはずもない空を眺めているようだった。


「あの…」


しばらくして、ロリが再び口を開いた。


「私たちは、これからどうなるのでしょうか…?」


その声には、隠しきれない不安が滲んでいた。永い孤独な眠りから覚めた先に待っていたのが、この閉塞した状況なのだから、無理もない。


燐は、すぐに答えられなかった。 嘘をついて安心させることもできたかもしれない。だが、先日の彼女の言葉を思い出した。 『優しい嘘は時に残酷です。時の流れに逆らって生きてきた私には、その嘘がいつまでも残るのです』 彼女の哀愁を感じとり、燐に覚悟を決めさせたあの言葉。2人で生き延びる決意が本心を語らせた。


「…どうなるかは、分からない」 燐は、天井を見上げたまま言った。 「連合が俺たちをどう判断するか…。帝国が、あるいは…他の奴らが、どう動くか…。何もかも、不確かだ」


部屋に、再び重い沈黙が落ちる。


「だが」 燐は、ゆっくりと言葉を続けた。それは、ロリに対してであると同時に、自分自身に言い聞かせる言葉でもあった。


「俺がいる限り、お前を一人にはしない。何があっても」


何の根拠もない、ただの決意表明。 だが、その言葉には、燐の揺るぎない意志が込められていた。 ロリは、その言葉を聞くと、ゆっくりと燐の方を向き、そして、ふわりと、ほんの僅かに微笑んだ。それは、絶望的な状況の中にあって、唯一の希望の光を見出したかのような、儚くも美しい微笑みだった。


「…はい。リンを、信じます」


その笑顔と言葉だけを支えに、燐は重い瞼を閉じた。


束の間の休息であった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ