第2章-21話「監視下の日常」
グリフォンズ・ネスト砦での軟禁生活は、静かに、しかし確実に続いていた。
最初の尋問から数日が経過し、燐の身体の傷は連合の治癒魔術と自身の回復力によって目覚ましい速さで癒えていた。肩から脇腹にかけて走った深い傷跡はまだ生々しいものの、日常生活を送る上での支障はほとんど感じなくなっていた。失われた体力も、規則正しい(そして不味い)食事と十分な睡眠によって、徐々にではあるが回復の兆しを見せている。
だが、魔力は依然として沈黙したままだった。
枯れ果てた大地のように、意識を集中させても何も湧き上がってこない。頼れるのは鍛え上げた肉体と技術、そしてあの奇妙な感覚と共に発動する封印術式だけだ。帝国最強と謳われた部隊のエースが、丸腰同然でいる。その事実が、焦りとなって喉の奥にこびりついていた。
尋問は、ゲルトナーという老獪な男によって、その後も不定期に行われた。
毎回、異なる角度から、執拗に核心へと迫ろうとしてくる。燐は、自身の異常なまでの感覚(相手の感情や意図を読み取る力)を駆使し、神経をすり減らしながら、なんとかそれをかわし続けていた。
一方で、彼がある程度の「有益な情報」を提供している(ように見せかけている)こと、そして砦内で問題を起こさずに「協力的」な態度を示していることが考慮されたのか、彼とロリに対する扱いは、ほんの少しだけ緩和された。
それは、監視役の兵士(常に二人一組)の付き添いを条件とした、砦内の限定区域への立ち入り許可だった。
一日に数時間だけ、息の詰まるようなあの部屋から出て、外の空気を吸うことが許されたのだ。それは燐にとっても、そして何よりロリにとって、貴重な変化だった。
その日も、燐は監視役の兵士、最近よく担当になる口は悪いが根は悪くなさそうな年嵩の兵士と、若い斥候のカイと共に、中庭へと向かっていた。ロリは燐の隣を、少し緊張した面持ちながらも、好奇心を隠しきれない様子で歩いている。
「中庭、ですか? リン」
「ああ。少しは気分転換になるだろう」
「はい!」
ロリはぱあっと顔を輝かせた。この数日間、彼女はこの僅かな外出時間を心から楽しみにしていた。
中庭は、砦の中央付近に位置する、ささやかな空間だった。
高い城壁に囲まれて空は狭いが、それでも直接降り注ぐ太陽の光は暖かく、地面には短い草が生え、手入れが行き届いているとは言えないまでも、いくつかの花壇には季節の花が健気に咲いていた。戦場に近いこの無骨な砦の中にあって、唯一と言っていい緑と彩りのある場所だった。
「わぁ…!」
中庭に足を踏み入れた途端、ロリは小さな歓声を上げ、燐の手を振りほどいて花壇へと駆け寄ろうとした。
「あっ、こら、待て!」
燐が慌てて後を追う。監視役の兵士たちも、苦笑とも呆れともつかない表情でそれを見ていた。
「リン、見てください! このお花、白くて小さいです! なんていう名前ですか?」
ロリはしゃがみ込み、白い小菊のような花を指差して尋ねる。その瞳は、純粋な好奇心でキラキラと輝いていた。
「それは…ノースポールだ。寒さにも強くて、この辺りでもよく見かける花だよ」
「ノースポール…覚えました!」彼女は満足そうに頷くと、今度は地面を這う小さな甲虫を見つけて指差した。「あ! リン、この虫さんは?」
「テントウムシだな。農作物の害虫を食べてくれる、益虫というやつだ」
「えき、ちゅう…?」ロリは不思議そうに首を傾げる。「虫さんにも、良い虫さんと悪い虫さんがいるのですか?」
「まあ、人間の都合でそう呼んでいるだけだがな」
「ふぅん…」
ロリは、まるで世界の全てが初めてであるかのように、見るもの聞くもの全てに強い興味を示した。燐は、その一つ一つの純粋な疑問に、根気よく、そして言葉を選びながら答えていく。それは、彼がかつて失ったかもしれない、穏やかで平和な時間の一片を思い出させてくれた。
ふと、燐は周囲の視線に気づいた。
中庭を通りかかる兵士たち、近くの建物の窓から見下ろす職員たち。
その視線は様々だった。
無表情な監視。あからさまな敵意。値踏みするような好奇。そして、ロリの無邪気な姿に向けられる、僅かな同情や、あるいは得体の知れないものを見るような畏怖。
特に、厳格そうな年配の兵士や、特定の宗派(おそらく保守派だろう)の印を身につけた者たちの視線は、冷たく、刺々しかった。
「…チッ、異端者どもが…馴れ馴れしく砦の中をうろつきおって」
近くを通りかかった兵士の一人が、聞こえよがしに吐き捨てた。
燐の表情が僅かに険しくなる。ロリもその敵意を感じ取ったのか、燐の後ろに隠れるように身を寄せた。
監視役のカイが、その兵士を睨みつけ「任務中だ、失礼な態度をとるな!」と制止する。兵士は不満げに顔を歪めたが、何も言い返さずに立ち去っていった。
ロリは兵士が去った後も、しばらくその背中を見つめていた。
「……リン、あの人、どうして『いたん』と言ったのですか? 異端、というのは、何ですか?」
怯えているのではなかった。首を傾げて、本当に分からない、という顔をしている。
「自分たちと違うもの、のことだ。ここの人たちにとっては、俺たちがそうらしい」
「違うもの……」ロリは自分の両手をじっと見下ろした。小鳥を癒やした手。「この力のこと、ですか?」
「……かもしれない」
「この力は、私のものなのに、私が一番分からないのです」
その呟きには、自責の色はなかった。代わりにあったのは、自分自身の内側に潜む未知への、純粋な探究心に似た何かだった。
「知りたいです、リン。この力が何なのか。怖い力なのか、それとも」
燐は答えなかった。今の彼には、答えるだけの材料がなかった。
中庭の散策を終え、昼食のために食堂へ向かう。
兵士用の食堂は広く、活気があったが、燐たちが足を踏み入れると、一瞬だけ空気が凍りついたように静かになり、すぐにひそひそとした囁き声と、好奇と警戒の視線が集中した。
出された食事は、相変わらずの軍用食だった。塩気の強いスープに、石のように固いパン、それに芯が残った野菜の煮込み。パンを千切ると、酵母の酸っぱい匂いが鼻をついた。
「いただきます!」ロリはそれでも嬉しそうに手を合わせ、小さな口で一生懸命に食べ始めた。
「温かいです…美味しいです、リン!」
その無邪気な姿に、近くのテーブルに座っていた若い兵士たちが、思わずといった感じで表情を緩ませる。だが、すぐに上官らしき人物に睨まれ、慌てて真顔に戻った。
一方、保守的な宗派の印をつけた兵士たちは、燐たちが近くの席に着こうとすると、わざとらしく席を立ち、別の場所へと移っていった。
燐は、そんな周囲の反応を意に介さないふりをしながら、黙々と食事を口に運んだ。味など、どうでもよかった。今はただ、体力と、そしてロリを守るための魔力を回復させることが重要だった。
午後は、部屋に戻ってロリに勉強を教える時間となっていた。
砦の図書室は軍事関連の書物や古い記録がほとんどで、娯楽的な本は少ないので、図書の選定に苦労したが、何とかロリが楽しめそうなやつを借りてきた。子供向けの文字教本や、古びた地図帳を広げる。
「これは、『ア』という字だ。アステリア大陸の『ア』だな」
「あすてりあ…たいりく…」
ロリは、燐が羊皮紙に書く文字を、真剣な眼差しで食い入るように見つめ、そして驚くほどの速さでそれを覚えていった。文字だけでなく、簡単な計算、地図の読み方、連合や帝国の簡単な地理や歴史(燐は意図的に偏らないよう、客観的な事実を中心に教えた)。彼女の知的好奇心は旺盛で、吸収力は人間離れしていた。
「リン、この地図に書いてある、『ゼーブルン帝国』というのが、リンの故郷なのですか?」
「…まあ、そうだな」
「どうして、帝国と連合は戦っていたのですか? 同じ人間なのに…」
「それは…難しい質問だな。国や、人がたくさん集まると、色々な考え方や、欲しいものが違ってくる。それを力で解決しようとすると、戦争になることがあるんだ」
「力で…」ロリは何かを考えるように、小さな指で自分の胸をそっと押さえた。
「力は、人を傷つけるためだけにあるのでしょうか…?」
その問いは、あまりにも純粋で、そして本質的で、燐は言葉に詰まった。彼は、仲間を守れず、多くの血を流してきた自分の過去を思い出し、胸が締め付けられるのを感じた。
「…そうではない、と信じたい。力は、何かを守るためにも使えるはずだ」
燐は、自分自身に言い聞かせるように答えた。
ロリは、その言葉をじっと聞き、そして、こくりと小さく頷いた。
そんな日々が続く中で、再びロリの力の片鱗が、予期せぬ形で現れた。
ある日の午後、いつものように中庭を散歩していた時のことだ。
花壇の近くで、一羽の小鳥が地面に落ちて弱々しく震えていた。よく見ると、片方の翼が不自然な方向に曲がり、傷ついて血が滲んでいる。カラスか何かに襲われたのかもしれない。
「あ…! かわいそうに…!」
ロリは駆け寄り、その小鳥をそっと両手で包み込んだ。
「大丈夫? 痛いの? もう怖くないからね…」
彼女が純粋な憐憫の情から、そう囁きかけた瞬間だった。
ロリの小さな手のひらから、ふわりと、淡く、温かい光が溢れ出したのだ。
それは治癒魔術の光とは明らかに違う、もっと柔らかく、穏やかで、まるで陽だまりのような、生命力そのものを感じさせる光だった。
光に包まれた小鳥は、ぴくりと身体を震わせると、弱々しかった呼吸が次第に力強くなっていった。そして、驚くべきことに、不自然に曲がっていた翼が、まるで時間を巻き戻すかのように、するすると元の形に戻り、傷口も瞬く間に塞がってしまったのだ。
数秒後、小鳥は完全に元気を取り戻し、ロリの手の中でパチパチと瞬きをすると、感謝するかのようにチチッと一声鳴き、そして力強く空へと飛び立っていった。
「…………」
ロリ自身も、自分の手から光が出たこと、そして小鳥が治ってしまったことに、ただただ驚き、目を見開いて自分の手のひらを見つめている。
燐も、そしてその一部始終をすぐそばで見ていた監視役のカイも、言葉を失い、呆然とその光景を見つめていた。
「い、今のは…なんだ…? 治癒魔術…なのか? いや、でも、あんな…」
カイが、信じられないといった様子で呟く。彼の顔には、驚愕と、そして明らかに畏怖の色が浮かんでいた。
燐はすぐさま我に返り、ロリの手を取った。
「何でもない。気のせいだ。行くぞ」
彼はカイに有無を言わせぬ視線を送り、足早にその場を離れた。
部屋に戻る道すがら、ロリは不安げに燐に尋ねた。
「リン…私、今、何か…?」
「…大丈夫だ。何も心配いらない」
燐はそう答えたが、彼の内心は大きな衝撃と、そして深まる謎で揺れていた。
(治癒…? いや、あれは単なる治癒じゃない。生命そのものに働きかけ、時間を巻き戻すような…? まさに『固有魔法』じゃないか。)
燐は自分の手のひらを見下ろした。あの光に触れた時、指先が一瞬だけ熱を帯びた気がした。枯渇したはずの魔力回路が、呼応するように震えたのだ。
恐ろしい力だった。そして、途方もなく美しかった。
夕食後、部屋に戻ると、交代で監視役についた例の年嵩の兵士が、部屋の前に立っていた。彼は燐たちを見ると、少し照れたような、ぶっきらぼうな仕草で、懐から小さな包みを取り出した。
「…嬢ちゃんに、やる」
それは、砦の売店で売っているのだろうか、素朴な焼き菓子だった。
「え…?」ロリは驚いて兵士を見上げる。
「まあ、なんだ…その、昼間の鳥の礼、というわけじゃないが…」兵士は視線を逸らしながら言った。「…元気出せや」
そう言うと、彼は包みをロリの手に押し付け、すぐに背を向けて持ち場に戻ってしまった。
ロリは、手のひらの中の温かい焼き菓子と、兵士の後ろ姿を交互に見つめ、そして、ふわりと嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔を見て、燐の心にも、僅かな温かいものが広がった。
夜が更け、ロリは焼き菓子の欠片を唇の端に残したまま、ベッドで眠りについた。
燐は窓の外の暗闇を見つめていた。拳を開き、閉じる。魔力を込めようとして、何も応えない指先。まだ、駄目だ。
眠るロリの寝顔に視線を移した。頬に残った菓子の粉を指先で拭ってやる。
ふと、鼻腔の奥を、かすかに甘い匂いが掠めた。
花の香りではない。砦の中にこんな匂いの元になるものはないはずだ。燐は反射的に立ち上がり、壁際の換気口に顔を近づけた。匂いはそこから流れ込んでいる。微かだが、確実に。
――何だ、これは。
彼は換気口の金属格子に指を当てた。格子の縁に、ごく薄い油膜のようなものが付着している。昼間には、なかったものだ。
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