第1章-12話「軍曹の問い」
森閑とした空気が、張り詰めた弓弦のように震えていた。
緑の軍服を纏った連合軍斥候部隊。
ボロボロの黒衣を纏い、謎の幼女を抱えた元帝国兵。
そして、後方から刻一刻と迫り来る、帝国の追跡本隊の気配。
いつ、どこで火花が散ってもおかしくない、三つ巴の睨み合い。
木々の間を吹き抜ける風の音だけが、やけに大きく聞こえた。
連合軍の指揮官である軍曹――バルカスは、その厳しい表情の奥で、冷静に状況を分析していた。
目の前の帝国兵は、明らかに手練れだ。所属は「時雨」。帝国最強と謳われた特殊部隊。その生き残りが、なぜこんな辺境の森で、満身創痍でいるのか。そして、彼が命懸けで庇っている、あの異様な雰囲気の幼女。先ほどから感じられる、この一帯に満ちる異常な魔力の残滓は、間違いなくこの二人、あるいは彼らが関わった戦闘によるものだろう。
さらに、後方から急速に接近してくる帝国本隊。斥候の報告によれば、その規模は一個小隊以上。斥候を追うにしては過剰な戦力だ。
(ここで戦闘になれば、我々も無傷では済まん。最悪、全滅もありうる。だが、この帝国兵と幼女…何かとんでもない秘密を握っているのは間違いない。帝国がこれほどの部隊を投入してまで追う理由があるはずだ)
バルカスは、百戦錬磨の軍人としての勘で、この遭遇が単なる偶然ではないこと、そして目の前の二人組が、何か計り知れない価値、あるいは危険性を秘めていることを感じ取っていた。
彼は、声ではなく、熟練した兵士だけが理解できる微細な魔力パルスとハンドサインで、部下たちに指示を送った。
『包囲を維持、距離を取れ。後方の敵に備え、防御陣形を意識しろ』
『許可なく攻撃するな。だが、いつでも応戦できるよう準備』
『あの二人から目を離すな。特に、民間人の動向に注意しろ』
部下たちは、彼の意図を正確に読み取り、音もなく、しかし迅速に陣形を微調整する。その統率された動きは、彼らがただの辺境警備兵ではないことを示していた。
準備が整ったのを確認すると、バルカスは再び燐に鋭い視線を向けた。その目は、獲物を見据える鷹のように鋭く、一切の油断も容赦もない。
「聞こえなかったか、帝国兵。改めて問う。状況を説明しろ」
矢継ぎ早に、厳しい口調で質問が浴びせられる。
「なぜ貴様のような『時雨』の兵士が、こんな場所で、そのような無様な姿でいる? 後ろから来るのは貴様らの本隊か? それとも追手か? そして何より、その少女は一体何なんだ!?」
バルカスは、燐の嘘や隠し事を見抜こうとするかのように、プレッシャーをかけていく。
燐は、ロリを抱きしめる腕に力を込めた。
ロリは燐の胸に顔をうずめ、小さく震えている。
消耗しきった身体。枯渇した魔力。そして、圧倒的な戦力差。状況は絶望的だ。
それでも、燐の瞳の奥の光は消えていない。
彼は、バルカスを真っ直ぐに見据え返し、掠れた声で、しかしはっきりと答えた。
「…言ったはずだ。俺は追われている。」
「理由は、話せない。国家に関わる機密だ」
「この子は、俺が保護している。彼女は何も知らないし、何の罪もない。ただ、帝国に狙われているだけだ」
情報を小出しにし、核心には決して触れない。
それは、ロリを守るための、そして自分自身のわずかな生存可能性を探るための、ギリギリの抵抗だった。
体力も魔力も限界だが、精神力だけはまだ折れていない。
「保護、だと?」バルカスは鼻で笑った。「帝国最強の特殊部隊員が、か? こんな魔獣が闊歩する禁忌の森で、少女を? にわかには信じられんな。それに、国家機密だと? 都合のいい言い訳だな」
彼はさらに踏み込んでくる。
「貴様らがここで何をしていた? 先ほどの、あの異常なまでの戦闘音と魔力の爆発…あれは一体何だ? まさか、貴様らの仕業ではないだろうな?」
燐は言葉に詰まった。
ロリの力が暴走したことなど、口が裂けても言えるはずがない。そんなことを知られれば、彼女は連合にとっても危険な研究対象か、あるいは排除対象とされるのが関の山だ。
燐が押し黙った、その時。
彼の腕の中で、ロリがそっと顔を上げた。
怯えの色はまだ残っているが、その大きな青藍の瞳は、目の前に立つ屈強な軍曹、バルカスを、じっと見つめ返していた。
それは、子供の純粋な好奇心とも、あるいは、全てを見透かすかのような、不思議な深みを持った眼差しだった。
バルカスは、その幼女の視線を受け、思わず言葉を失った。
ただの子供ではない。その瞳の奥には、計り知れないほどの時間が堆積しているような、そんな錯覚さえ覚える。
背筋に、ぞくりと悪寒のようなものが走った。
「隊長!」
その時、バルカス隊の魔力探査担当が、切迫した声で報告した。
「後方の魔力反応、さらに接近! 複数の高速移動反応を確認! 間もなく接触します! これは…間違いなく帝国の本隊です!」
ついに、ヴァルド隊がすぐそこまで迫ってきたのだ。
「ちぃっ!」
バルカスは忌々しげに舌打ちした。
ここで帝国本隊と正面からぶつかるのは最悪の選択肢だ。部隊の損耗は避けられない。
だが、目の前の謎の帝国兵と幼女を放置することもできない。彼らが帝国の手に渡れば、それが何を意味するのか…計り知れない。
彼は瞬時に状況を判断し、決断を下した。
今は、この場を切り抜けることが最優先だ。そのためには、利用できるものは何でも利用する。
バルカスは、厳しい表情で燐に向かって叫んだ。
「帝国兵! 貴様の処遇は後で決める!」
「今は後ろから来る敵が先だ!」
「我々と共に戦うか、それともここで奴らに捕まり、あの幼女共々どうなるか分からん運命を辿るか! さあ、選べ!」
それは、協力の申し出であると同時に、拒否すれば見捨てるという、非情な最後通牒だった。
森の空気は、後方から迫る脅威と、目の前で突きつけられた選択によって、爆発寸前のレベルまで張り詰めていた。
燐に残された時間は、もうほとんどなかった。




