第1回「田んぼの様子を見てきて」
※本作は「小説家になろう」と「カクヨム」に重複投稿しています。
その日は、朝から雨が降っていた。
天気予報では、台風が接近していると言っている。
窓の外では、雨が激しく屋根を叩き、風が吹くたびに庭の木々が大きく揺れていた。
こんな日は、家の中で大人しくしているのが一番だ。
――稲敷美穂、20歳。
大学に通う、ごく普通の学生。
ただし、実家は代々続く農家である。
美穂自身も、いずれは農家を継ぐつもりで、普段から父親の手伝いをしていた。
田植えも、草取りも、稲の様子を見るのも、少しずつ覚えてきた。
そんな美穂にとって、田んぼは身近な存在だった。
だからこそ――。
台風が来ていると聞けば、どうしても気になってしまう。
夕食を終えた美穂は、窓の外を眺めていた。
「……すごい雨」
テレビを見ていた父が、ため息をつく。
「今年は台風が多いな」
母も心配そうに窓の外へ目を向けた。
「田んぼ、大丈夫かしら」
その言葉を聞いて、美穂も改めて外を見る。
雨は激しく降り続いている。
「今日は、さすがに見に行かない方がいいんじゃない?」
美穂がそう言うと、父は少し考えた。
そして――。
「……そうだな」
父の返事に、美穂はホッとした。
ところが、父はすぐに気が変わる。
「美穂っ! 田んぼの様子を見てこい」
「……え?」
思わず聞き返した。
「だから、田んぼの様子を見てこい」
「いや、聞こえてるよ!」
外は台風。
雨は横殴り。
風もかなり強い。
それなのに、田んぼを見に行けという。
「父さん、今?」
「ああ」
美穂は窓の外を指差した。
「台風来てるよ?」
「ああ」
「めちゃくちゃ雨降ってるよ?」
「ああ」
「……なんで?」
「心配だからだ」
即答だった。
美穂は思わず眉をひそめる。
「父さんが行けばいいじゃん!」
「俺は明日の準備をしないといけない」
「うーん……」
確かに、農家は台風が来たからといって休みになるわけではない。
むしろ、台風が過ぎた後の方が大変だ。
田んぼに水が入りすぎていないか。
稲が倒れていないか。
用水路は大丈夫か。
確認することは多い。
美穂は仕方なく立ち上がった。
「分かった。田んぼだけ見てくる」
調子に乗って父が言う。
「あと、川の様子も見てきて」
「……川?」
「増水してないか確認してくれ」
美穂は窓の外を見る。
雨は、さらに強くなっていた。
「……川まで? 危なくない?」
「だから、川には近づきすぎるなよ」
美穂は少し頭にきて言う。
「あのさっ! あたしの心配はしないわけ?」
父は苦笑する。
「気をつけて行ってこい」
「……しょうがないなぁ……」
こうして美穂は、雨具を身につけて家を出ることになった。
◇
外に出た瞬間、強い風が吹きつけてきた。
「うわっ!」
思わず身体がよろめく。
雨が顔に当たる。
傘なんて、まともに差していられない。
美穂は頭から雨をかぶりながら、田んぼへ向かった。
「こんな日に外に出るんじゃなかった……」
文句を言いながらも、足は止めない。
農家の娘として、田んぼが心配なのも本当だった。
しばらく歩くと、田んぼが見えてきた。
雨の中、稲が風に大きく揺れている。
「……稲は頑張ってるな」
美穂は田んぼを見渡した。
水は少し増えている。
だが、今のところ大きな問題はなさそうだった。
稲も倒れていない。
「よかった……」
ホッと胸を撫で下ろす。
これなら大丈夫そうだ。
「父さんに、大丈夫って伝えよう」
そう思った。
けれど――。
もう一つ、確認しなければならない場所がある。
「……川かぁ」
正直、行きたくない。
とはいえ、父に頼まれた以上、確認だけはしておこうと思う。
「ちょっとだけ見て、すぐ帰ろう」
美穂は川へ向かった。
◇
川は、いつもとはまるで違っていた。
濁った水が、ものすごい勢いで流れている。
「……うわ」
思わず足を止めた。
雨の音。
風の音。
そして、轟々と流れる川の音。
少し離れていても、その勢いが分かる。
「父さん……こんなの見に来させるなよ」
美穂は苦笑した。
もちろん、川には近づかない。
安全な場所から、増水していることだけ確認する。
「かなり増えてるな……」
川の確認はできた。
危ないから、もう帰ろう。
そう思って、一歩後ろへ下がった。
その瞬間だった。
「えっ?」
足元が滑った。
ぬかるんだ地面に、身体が大きく傾く。
「わっ!」
慌てて手を伸ばすも、何もつかめない。
次の瞬間――。
身体が川へ落ちた。
ザブーン!
「――っ!」
冷たい。
水が身体を包み込む。
必死に手を伸ばす。
「誰か……!」
声を出そうとしても、激しい水流に飲み込まれる。
身体が流されていく。
川岸が遠ざかる。
何度も水面へ顔を出そうとする。
けれど、流れは強かった。
「……いや……」
家に帰りたい。
まだ、やりたいことがいっぱいある。
そんな思いを抱いたまま――。
美穂の意識は、暗闇へ沈んでいった。
◇
次に目を開けたとき。
そこには、真っ白な空間が広がっていた。
「……ここ、どこ?」
身体を起こす。
痛くない。
濡れてもいない。
さっきまで台風の川にいたはずなのに。
そのとき。
「もしもし……大丈夫ですか?」
声が聞こえた。
美穂が顔を上げる。
目の前には、一人の女性が立っていた。
長い髪。
穏やかな顔。
そして、どこか神々しい雰囲気。
美穂は戸惑いながらも、その女性に尋ねる。
「あの……? あなたは……?」
その女性は、美穂を見ながら言う。
「私は、イナリミノル」
「イナリ……ミノル?」
「ええ。田んぼの女神です」
「……田んぼの女神?」
美穂は女性をじっと見る。
「……稲荷実?」
「そうです」
「男性ですか?」
「女神です!」
「……あ、女性!」
「名前で判断しないで下さい!」
女神――イナリは、頬を膨らませた。
美穂は少しだけ驚く。
目の前の女神は妙に親しみやすかった。
「と、とにかく!」
イナリは咳払いをする。
「あなたは亡くなりました」
「……やっぱり」
美穂は俯いた。
激しい濁流の川に流された。
あの状況で助かるとは思えなかった。
「……そっか」
胸の奥が重くなる。
父さん、
母さん、
兄ちゃん、
……ごめん、あたし死んじゃった……
美穂が黙り込んでいると、イナリが突然、真剣な顔をした。
「どうして台風の日に、川の様子なんて見に行ったんですか!」
「……え?」
「あんな大雨の日に川へ行ってはいけません!」
イナリのお説教が始まる。
「いや、父さんに頼まれて……」
「それでもダメです!」
美穂は思わず口をつぐむ。
「だって農家だし……」
「田んぼの様子を確認したいのは分かります!」
イナリがまくし立てる。
「ですが、増水した川に近づくのは危険です!」
「……はい」
「増水した川は、カッパですら流されますからっ!」
「……すみませんでした」
なんだろう。
死んだ直後なのに、怒られている。
でも。
不思議と嫌な感じはしなかった。
むしろ――。
少しだけ、いつもの日常に戻ったような気がした。
イナリはしばらく美穂を見つめたあと、ふっと表情を柔らかくした。
「……あなたは、不憫な死を遂げました」
「……」
「本来なら、もっと長く生きて、農家を継いでいたのでしょう?」
「……うん」
美穂は小さく頷いた。
そして、胸の奥に残っていた思いを口にする。
「あたし……もっと米作りしたかった」
イナリは静かに頷いた。
「ならば」
イナリが手を差し出す。
「別の世界で、もう一度生きてみませんか?」
「別の世界?」
イナリは微笑んだ。
「あなたを、異世界へ転生させます」
美穂は差し出された手を見る。
突然の話だった。
けれど――。
もう一度、農家をすることができるのなら。
もう一度、田んぼに立てるのなら。
もう一度、生きていけるなら。
「……やります」
美穂は、その手を取った。
こうして。
稲敷美穂の異世界での人生が始まることになった。




