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魔法使いの王子様  作者: はちもく


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迷子

 図書室を出たあと、王子は一度も振り返らなかった。


 暗い階段を上る。


 燭台の火が、一つずつ足元を照らす。


 降りてきたときにはヨシュアと手を繋いでいた。笑い声が石壁へ反響し、どちらが先に図書室へ着くか競うように歩いた。


 今は、一人だった。


 自分の足音しか聞こえない。


 海になった貯蔵庫へ出る。


 色鮮やかな魚たちが近づいてきたが、王子が手を振ると、怯えたように散っていった。


 歌う貝も、口を閉ざす。


 ヨシュアが作った海。


 ヨシュアが作った魚。


 ヨシュアが作った歌。


 城にあるものは、どれもヨシュアの魔法でできていた。


 王子が望んだから。


 あるいは、望むだろうとヨシュアが決めたから。


 階段を上り、城の廊下へ出る。


 そこには、使用人たちが並んでいた。


 男も、女も。


 若者も、老人も。


 全員が同じ笑顔で立っている。


「ご機嫌麗しゅうございます、殿下」


 声が重なった。


 王子は足を止めた。


「僕が来ることを知っていたの?」


「お待ちしておりました、殿下」


「誰に命じられた?」


「お待ちしておりました、殿下」


 同じ答えだった。


 手前にいた女の顔に、見覚えがある。


 ヨシュアと初めて厨房へ行った日、王子の姿を見て洗濯物を落とした侍女だった。


 あのときの顔には、恐怖があった。


 今は何もない。


「僕のことが、怖い?」


「いいえ、殿下」


「嫌い?」


「いいえ、殿下」


「好きなの?」


「はい、殿下」


 笑顔が変わらない。


「名前は?」


 女は答えなかった。


「君の名前だよ」


「私は、殿下へお仕えする者でございます」


「それは名前じゃない」


「私は、殿下へお仕えする者でございます」


 何度尋ねても、同じだった。


 女自身が忘れたのか。


 ヨシュアが奪ったのか。


 もう、確かめる方法はない。


「行っていい」


「はい、殿下」


 使用人たちは動かなかった。


「仕事へ戻って」


「はい、殿下」


 誰も動かない。


 王子は指先へ魔法を集めた。


「戻れ」


 青い光が廊下へ広がる。


 使用人たちが一斉に振り返った。


 同じ歩幅で歩き出す。


 それぞれ別の方向へ向かい、曲がり角の向こうへ消えた。


 王子は、自分の手を見た。


 人には魔法を使わない。


 そう決めていた。


 けれど今、自分も彼らを動かした。


 ヨシュアと同じように。


「……ごめん」


 謝る相手は、もうそこにいなかった。


###


 自室へ戻る。


 扉を開けると、古い熊とアルバが寝台に並んでいた。


 変わらない部屋。


 暖炉には金色の火。


 卓上には、誕生日のために用意された小さな冠。


 壁には、四年間で集めたものが飾られている。


 銀色の魚の鱗。


 最初に浮かせた小石。


 王子が描いた絵。


 ヨシュアと揃いで作った髪飾り。


 すべてに思い出があった。


 どれも嘘ではない。


 王子は寝台へ腰を下ろした。


 古い熊を抱き上げる。


 右目は黒い釦。


 左目は、王子が縫いつけた青い石。


 母からもらった、最後のもの。


「お母様」


 声にすると、胸が痛んだ。


 ヨシュアが殺した。


 その事実は、何をしても変わらない。


 たとえ封印へ戻される恐怖があったとしても。


 人間の心を理解できなかったとしても。


 母を殺したことが正しくなるわけではない。


 王子は熊の腹へ顔を埋めた。


 謝りたかった。


 けれど、何を謝ればよいのかわからない。


 鈴へ触れたこと。


 ヨシュアを解放したこと。


 母を殺した相手に救われたこと。


 笑い合ったこと。


 愛されたことを、嬉しいと思ってしまったこと。


 真相を知った今も。


 ヨシュアが名前を呼ばなかったことを、何より苦しいと感じていること。


「僕は、どうすればいい」


 熊は答えなかった。


 昔から、何も答えない。


 それでも、王子が何を言っても笑顔を変えない使用人たちより、ずっと人間らしく見えた。


 扉の向こうに、人の気配はない。


 ヨシュアは追ってこなかった。


 来るなと言ったから。


 名前を呼ぶなと言ったから。


 何でも望みどおりにすると約束した魔法使いは、こんなときまで約束を守っている。


 それが腹立たしかった。


「ヨシュア」


 呼んでみる。


 返事はない。


 いつもなら、どれほど遠くにいてもすぐに現れる。


 王子はもう一度呼ぼうとした。


 やめた。


 今、自分から呼べば許したことになる気がした。


 許せるはずがなかった。


 熊を抱いたまま横になる。


 アルバが隣へ倒れた。


 目を閉じても、眠れない。


 鈴の音がした。


 ちりん。


 八年のあいだ、夢の中で聞き続けた音。


 これまでは母の死を告げる音だった。


 今は違う。


『誰でもよい』


『誰か』


『どうか、ここに気づいて』


 暗い石の中から、形も名前も失った何かが呼んでいる。


 その願いを聞いたのが、たまたま自分だった。


 特別だったからではない。


 心が清らかだったからでもない。


 ただ、音が届いた。


 手を伸ばした。


 それだけだった。


 それだけのことを、ヨシュアは何百年、何千年もの孤独の結末にした。


 自分のすべてを捧げる理由にした。


「勝手だ」


 王子は呟いた。


「本当に、勝手だよ」


 返事はない。


 そのことが、また苦しかった。


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