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アンケート-選ばないという選択-  作者: 菊池まりな


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第56話 九時の部屋

目が覚めたのは、七時少し前だった。


カーテンの隙間から、白い光が入っていた。


曇りだった。昨日と同じ空だった。


美佳はしばらくソファの上で動かなかった。


天井を見た。ここ数日で一番静かな朝だと思った。


ユリの寝息が聞こえていた。規則的で、深かった。よく眠れたのだと思った。


美佳は静かに起き上がって、台所でお湯を沸かした。


昨夜の翔のメッセージを確認した。明日の朝九時に、全員で話しましょう。


九時まで、あと二時間あった。


コーヒーを一杯入れて、窓の前に立った。外は静かだった。通勤の人が何人か通り過ぎた。傘を持っている人もいた。雨が降るかもしれない空だった。


美佳はコーヒーを飲みながら、昨日のことを順番に思い出した。


ミオの声。ノートの問いたち。波の音。ユリの「夜が明けたから」という言葉。自動販売機のコーンスープ。朝倉が別のホームへ降りていく後ろ姿。


点と点のようにあった出来事が、一本の線になっていく感覚があった。線になったからといって、何かが解決するわけではなかった。


でも、見えるようになるものがあった。


八時頃、ユリが起きてきた。


「おはようございます」とユリは言った。声がまだ眠そうだった。


「眠れましたか」


「よく眠れました。久しぶりに」


「よかったです。コーヒー飲みますか」


「ありがとうございます」


二人で台所に立った。美佳がもう一杯入れた。


ユリが窓の外を見た。「曇っていますね」

「昨日からずっとそうです」


「そうか」とユリは言った。それから少し間を置いて「昨日のこと、夢みたいです」と言った。


「どの部分が」


「全部、少し。美佳さんが来てくれたことも」


「来ました」と美佳は言った。「夢じゃないです」


ユリが少し笑った。昨夜電車の中で見たのと同じ顔だった。


八時半に、翔からメッセージが来た。


今朝のAラインの動き、ありません。ミオさんも廃施設で準備ができています。九時、オンラインで話しましょう。美佳さんの端末から入れますか。


美佳は入れますと返した。


それから朝倉からも来た。


昨夜は翔と廃施設に泊まりました。翔が用意した毛布が一枚しかなかった。ユリは大丈夫ですか。


美佳は大丈夫です、よく眠れたみたいですと返した。


朝倉からすぐ返ってきた。


よかった。毛布の件は翔に言っておきます。


美佳はそれを読んでから、ユリに「九時に、みんなで話します。聞いていてもいいし、別の部屋にいてもいいです」と言った。


ユリが少し考えた。「聞かせてもらえますか。関係あることだと思うので」


「もちろんです」


九時になった。


美佳の端末で通話を繋いだ。翔が最初に入ってきた。「おはようございます」という声が

少し疲れていた。朝倉も入ってきた。「昨夜の毛布の件は翔のせいじゃないです、念のため」と言った。翔が「俺のせいです」と言った。有栖川が「おはようございます」と静かに言った。最後にミオの声が入ってきた。


「おはようございます」と言った。


美佳は「おはようございます」と言った。「ユリも一緒に聞いています」と全員に伝えた。


少し間があった。


「おはようございます」とユリは言った。小さな声だった。


ミオが「ユリさん」と言った。「昨日のことを聞きました。心配しました」


ユリが少し黙った。「はい」と言った。それ以上は言わなかった。それで十分だった。

翔が状況の整理から始めた。簡潔だった。


Aラインの別端末からのアクセスは、昨夜以降確認されていない。ユリの端末への接続も同様。ただし相手がアクセスを止めた理由は不明。止まっているうちに動くか、理由を確認するまで待つか。


「ミオさん」と翔が言った。「Bラインからの操作、今日できますか」


「できます」とミオは言った。「準備は昨夜のうちにしました」


「落とせる範囲の確認をもう一度させてください。接続の入口となっている基本経路、選択ログの収集機能、それと初期の端末認証システム。この三つで合っていますか」


「合っています」とミオは言った。「ただ、一つ確認があります」


「何ですか」


「端末認証システムを落とすと、美佳さんの端末への接続も切れます」


部屋が少し静かになった。


「それは、設計者候補としての接続が切れるということですか」と美佳は聞いた。


「はい。ファイルの送受信も含めて、すべて切れます」


「切れていいです」と美佳は言った。迷わなかった。


「確認です」と翔が言った。「美佳さんの意思として、切ることを了承しますか」


「了承します」


翔が「了解しました」と言った。それから

「朝倉さん」と呼んだ。


「はい」と朝倉が言った。


「一つお願いがあります」


「何ですか」


「操作の間、美佳さんの隣にいてほしいです」


美佳は少し驚いた。翔らしい気遣いだと思った。


「今、美佳さんの部屋にいません」と朝倉は言った。「間に合いますか」


「一時間待てます」と翔は言った。


「行きます」と朝倉は言った。


通話を一時間後に再開することになった。


ユリが「私は席を外した方がいいですか」と言った。


「ユリが決めていいです」と美佳は言った。


「いてもいいですか」


「いてください」


ユリが頷いた。


美佳は台所で二杯目のコーヒーを入れた。ユリが「手伝います」と言って、カップを二つ出した。


「緊張しますか、今日」とユリが聞いた。


「少し」と美佳は言った。「でも昨日より静かな気持ちです」


「昨日は緊張していましたか」


「昨日はユリのことが心配だったから、緊張より先に別のことがありました」


ユリが少し黙った。「すみませんでした」と言った。


「謝らなくていいです」と美佳は言った。


「心配するのは自分で選んでしたことだから」


ユリがコーヒーを受け取った。「美佳さんって」と言いかけて、止まった。


「何ですか」


「言葉の選び方が、丁寧ですね。謝らなくていいとか、あなたが決めることとか。突き放しているわけじゃないけど、ちゃんと線がある」


美佳は少し考えた。「意識してそうしているわけじゃないです。でも──」


「でも」


「断れない形にしたくない、というのは、ずっと思っています」


ユリが「そうか」と言った。「LAPISのこととも、繋がっていますか」


「繋がっていると思います」と美佳は言った。「前からそう思っていたのか、途中からそうなったのかは、もう分からないけれど」

朝倉が来たのは、四十分後だった。


インターホンが鳴って、美佳が開けると、朝倉が立っていた。少し疲れた顔をしていたが、目は覚めていた。


「廃施設から直接来ました」と朝倉は言った。「翔によろしくと言われました」


「翔から聞きました」と美佳は言った。


「入ってください」


朝倉が部屋に入った。ユリに「おはようございます」と言った。ユリが「おはようございます」と返した。


「昨夜、大丈夫でしたか」と朝倉はユリに言った。


「大丈夫でした」とユリは言った。「よく眠れました」


「それは良かった」と朝倉は言った。それ以上は何も言わなかった。それでよかった。

美佳はコーヒーをもう一杯入れた。朝倉に渡した。



朝倉が受け取って、美佳の隣に座った。「緊張していますか」と小さく言った。


「少し」と美佳は返した。


「俺もです」と朝倉は言った。


それを聞いて、少し楽になった。


九時五十八分に、翔から『準備できました。繋いでください。』とメッセージが来た。

美佳は端末を手に取った。通話を繋いだ。

翔、有栖川、ミオが入ってきた。


「全員いますか」と翔が聞いた。


「います」と美佳は言った。「美佳、朝倉、ユリ」


「こちらは翔、有栖川さん、ミオさんです」

六人が一つの通話の中にいた。


「始めていいですか」と翔が聞いた。

美佳は朝倉を見た。朝倉が頷いた。ユリが静かに手を膝の上に置いた。


「始めてください」と美佳は言った。


翔とミオが操作を始めた。


通話の中で、二人が短い言葉を交わしていた。確認の声だった。「Bライン、接続」「認証通過」「選択ログの収集、停止確認」「入口の経路、切断開始」。


美佳は端末を持ったまま、窓の外を見た。

曇りはまだ続いていた。でも少し明るくなっていた。雨は降らないかもしれなかった。


「美佳さん」と翔が言った。「端末認証の切断、今から行います。端末に通知が来るかもしれませんが、そのままにしておいてください」


「分かりました」


三秒ほど間があった。


美佳の端末が一度だけ、静かに振動した。

通知ではなかった。何かが切れた感触だった。


「切断、完了しました」と翔が言った。

しばらく、誰も喋らなかった。


「確認します」と翔が続けた。「選択ログの収集、停止。接続の基本経路、閉鎖。端末認証システム、停止。三つ、完了しました」


「久坂さんが加えた部分は」と有栖川が聞いた。


「動いています」と翔は言った。「共感ボタンの収束機能と、個別生成のDM機能は、まだ残っています。ただ──入口が一つ減ったので、新しい端末を引き込む経路は限られました」


「完全には止まっていない」と美佳は言った。


「完全には止まっていません」と翔は言った。率直に言った。「でも、今できる範囲のことは、しました」


美佳は「ありがとうございます」と言った。翔に向けて、でもミオにも向けて言っていた。


ミオが「ありがとうございました」と言った。誰に向けてかは分からなかったが、その声は少し違っていた。何かが終わった人の声だった。


「久坂さんについて、これからどうしますか」と有栖川が聞いた。


「追いません」と美佳は言った。


少し間があった。


「理由を聞いていいですか」と翔が言った。


「久坂さんは設計図を渡しました。止めてほしいという意味で」美佳は少し考えながら言った。「それが全部正しい動機からだったかどうかは分かりません。でも、今できる範囲でやったことは、久坂さんの渡したものを使いました。それで十分だと思っています」


「残っている部分が、また動き始めたら」と朝倉が言った。


「そのときはそのときに考えます」と美佳は言った。「今日の判断を、今日以外に使いたくないです」


朝倉が「分かった」と言った。


「一つだけ」とミオが言った。


全員が静かになった。


「ユリさん、聞こえていますか」


「聞こえています」とユリが言った。


「昨日、有栖川さんから、謝りたいと伝えてもらいました」とミオは言った。「直接、言わせてください」


ユリが美佳を見た。美佳は何も言わなかった。ユリが正面を向いた。


「聞きます」とユリは言った。


「変電施設の場所を、あなたに教えました」とミオは言った。「あなたの問いに、外からの答えが要らないことを分かってほしかった。でもそれは、私があなたに聞かずに決めたことでした。あなたが一人で夜を過ごすことになったのは、私のせいです。ごめんなさい」


ユリが黙った。


しばらく間があった。通話の中で、誰も何も言わなかった。


「分かりました」とユリは言った。「今すぐ全部受け取れるかどうか分からないけど、聞きました」


「ありがとうございます」とミオは言った。


それ以上は何もなかった。でも、それ以上は要らなかった。


通話が終わったのは、十時半頃だった。


美佳は端末をソファに置いた。


朝倉が「腹が減りました」と言った。


美佳は少し笑った。「何か作ります」


「手伝います」とユリが言った。


三人で台所に立った。冷蔵庫を開けたら、卵と残り野菜しかなかった。


「スクランブルエッグでいいですか」と美佳は言った。


「十分です」と朝倉は言った。


ユリが野菜を洗い始めた。朝倉がフライパンを出した。美佳が卵を割った。


窓の外の光が、少しだけ白くなっていた。


雨は降らなかった。


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