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アンケート-選ばないという選択-  作者: 菊池まりな


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第42話 内側から

夜まで時間があった。


美佳はカフェに出勤し、いつもと同じように仕事をした。オーダーを取り、コーヒーを淹れ、テーブルを拭いた。手が動いている間、頭の別の場所が静かに整理を続けていた。

昼過ぎ、宮下ユリが来た。


ユリとは半年前に知り合った。小さな会社で事務をしていると言っていた。口数が少なく、カフェではいつも窓際の席に座って、本を読むか、スマートフォンを見るか、どちらかだった。


「こんにちは」とユリは言い、いつもの席に向かった。


美佳はアイスコーヒーを持っていった。ユリは顔を上げて「ありがとうございます」と言い、それからすぐにスマートフォンに視線を戻した。


画面が見えた。


@LAPIS_echoだった。


美佳は何も言わずにカウンターに戻った。


ユリが@LAPIS_echoを見ていることは、今日初めて気づいたわけではなかった。先週も、先々週も、同じ画面を見ていた。ただ美佳はそれを、確認として受け取るだけにしていた。


カウンターの内側で、美佳はグラスを拭きながら考えた。

ユリに何かを言うべきか。


また、問いの形にしている。


言うか言わないかではなく──ユリが今どこにいるかを、もう少し見る必要があった。


共感ボタンの収束が、画面の外の人間の頭にまで届いていた。カフェの常連客が「正しいことをしているのに、不安なのはなぜだろう」と話していた。ユリは今、どの段階にいるのか。


十五分後、ユリがカウンターに来た。お代わりを頼みながら、少し迷うように口を開いた。


「三枝さん、最近、何か気になることってありますか」


予想していない切り口だった。美佳は手を止めずに「気になること、ですか」と返した。


「なんか」とユリは言い、言葉を探すように窓の方を見た。「ずっと頭にある問いというか。消えない感じの」


「あります」と美佳は言った。


「どうしてます、それ」


美佳はコーヒーをユリの前に置いた。


「置いておきます」


「置いておく」


「答えが出るまで待つんじゃなくて、そこにあることを認めて、隣に置いておく感じで」

ユリは少し黙った。それから「答えを出さないといけない気がして、ずっと」と言った。「答えが出ないと、自分がだめな気がして」

美佳は頷いた。急がなかった。


「その感覚、いつ頃から?」とだけ聞いた。


「最近」とユリは言った。「一ヶ月くらい」


一ヶ月。@LAPIS_echoの共感ボタンが実装されたのが、先月だった。美佳はその一致を静かに受け取った。表情には出さなかった。

「答えを出せない自分がだめなんじゃなくて」と美佳は言った。「答えを急がせる何かが近くにある、っていう可能性もあると思います」


ユリは美佳を見た。


「外側に?」


「外側に」


ユリは少し考えるような顔をして、「そういう見方、したことなかった」と言った。それからコーヒーを持って席に戻った。

美佳はその背中を見ながら、何も足さなかった。


退勤は十八時だった。


着替えて店を出ると、朝倉がすでに外で待っていた。


「有栖川さんは現地集合」


「分かった」


二人で歩き出した。工業地帯までは電車で三十分、そこから徒歩だった。日が落ちるのが早い季節で、空はすでに紺色に近かった。

電車の中で、朝倉は何も聞かなかった。美佳も何も言わなかった。ただ並んで座っていた。窓の外を工場の灯りが流れていった。


美佳はユリのことを考えていた。


一ヶ月で変わった、とユリは言った。一ヶ月は短い。でも短い期間で変わるように設計されているとしたら——共感ボタンの収束が、特定の感情パターンに向かうよう設計されていたとしたら。


ユリは今、何番目の段階にいるのか。


翔の仮説が頭に浮かんだ。依存度、という言葉。問いへの依存を育て、答えを外に求めさせる構造。ユリが「答えを出せない自分がだめな気がして」と言ったとき、その言葉はどこから来たのか。ユリの内側から来たのか、外側から植えられたのか。


美佳自身にも、かつて同じ問いを翔に向けられたことがあった。「自分の問いですか、それとも植えつけられた問いですか」。

答えは出なかった。でも、問いを持ち続けることが美佳にはできた。


ユリにも、それができるといい、と美佳は思った。できるかどうかを決めるのはユリだった。美佳にできることは、外側に原因があるかもしれないという可能性を、一度だけ置いておくことだった。


最寄り駅で降りると、空気が変わった。

潮と錆と油の混じったような匂い。工場の稼働音が低く続いていた。有栖川が改札の外で待っていた。


「状況は」と美佳は言った。


「建物の四階、今夜も光があります。昨夜と同じ窓」と有栖川は言った。「変電施設の跡地は、そこから南に徒歩十二分です」


「翔の気配は」


「分かりません。ただ」と有栖川は少し間を置いた。「建物の周囲を昼に確認したとき、南側の扉の錠が、内側から掛けられていました」


朝倉が有栖川を見た。


「内側から、ということは」


「中に誰かいる、ということです」と有栖川は言った。「あるいは、いた」


三人は歩き出した。


街灯の少ない道だった。工場の灯りが遠く、


足元だけが暗かった。美佳は前を向いて歩きながら、今夜この場所に来ることを、問いの形にせずに決めたことを思い出した。


翔が先に動いた。だから三人が続く。それだけだった。


変電施設の跡地が見えてきた。


フェンスで囲まれた敷地の中に、低い建物が二棟並んでいた。窓はすべて塞がれ、灯りはなかった。静かだった。静かすぎた。


有栖川が南側の扉を示した。


錠は、内側から掛かったままだった。


朝倉が扉を軽く押した。動かなかった。


美佳は扉の表面を見た。錆と汚れの中に、わずかに新しい傷があった。最近、誰かが触れた痕だった。


「翔」と美佳は小さく言った。声ではなく、確認として。


扉の向こうで、何かが動いた。


三人が止まった。


もう一度、音がした。規則的だった。ランダムではない。パターンがあった。


朝倉が美佳を見た。美佳は頷いた。


「モールス」と有栖川が静かに言った。「短・長・短──」


美佳は耳を澄ました。音が続いた。壁を叩く音だった。弱かったが、確かにそこにあった。


「R」と有栖川が言った。「短・長・長──W。短──E」


三人が顔を見合わせた。


RWE。


意味を探す前に、音が続いた。


「短・長・短・短──L。短・短──I。短・短・短──S。短──E」

LWISE、ではなかった。


「──ELSE」と有栖川が言い直した。「RW──いや」


朝倉が紙に書き始めた。


音が一度止まり、また始まった。最初から繰り返している。


R・W・E・L・S・E。


「RWELSE」と朝倉が言った。「意味が──」


「待って」と美佳は言った。


もう一度、最初から聞いた。


短・長・短──R。短・長・長──W。短──E。


「区切りが違う」と美佳は言った。「RとWとEじゃない」


音が続いた。美佳は目を閉じて聞いた。


短・長・短、間、長・短・短、間、短──

「R、D、E」と美佳は言った。「それから──」


長・短・長・長──Y。


「RDEY?」と朝倉が言った。


「違う」と美佳は言った。「もっと前から」

最初の音に戻った。


短・長──A。


「A」と美佳は言った。「最初はA」

A・短・長・──R。A・R──


「ARRE」と有栖川が言いかけた。


「ALREADY」と美佳は言った。「ALREADYだ」


音がぴたりと止まった。


三人が扉を見た。


また音が始まった。今度は別のパターンだった。


短・短・短──S。長・長・長──O。短・短・短──S。


朝倉が息を飲んだ。


SOS、ではなかった。


音が続いた。


短・短・短・長──その後に、長い間。


美佳は有栖川を見た。有栖川の表情が、かすかに変わっていた。


「ALREADY INSIDE」と有栖川が静かに言った。「──翔さんは、中にいます」


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