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アンケート-選ばないという選択-  作者: 菊池まりな


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第41話 翔の席

翔がいなくなった翌朝、美佳は六時に目が覚めた。


アラームより三十分早かった。眠れていないのか、眠れていたのか、境界が曖昧なまま天井を見ていた。カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の奥まで届かずに途中で止まっていた。


スマートフォンを確認する。有栖川からのメッセージが深夜二時に届いていた。


「建物の四階、一つだけ光が動きました。人がいます」


それだけだった。既読をつけて、画面を伏せた。


翔が自分から動いた、という昨夜の推論は今朝もまだ変わらなかった。財布もスマートフォンも置いていったのは、持っていると追跡されると知っていたからだ。翔は事前に調べていた。計算して動いた。それは確かなことだと思う。


だから、美佳がいま感じている重さは心配ではなく──正確には心配でもあるが──それだけではない何かだった。


翔が単独で動くことを選んだ、ということは、四人で話す前に動いたということだった。情報を持ったまま、先に行った。それを責める言葉は出てこなかったが、なぜ言わなかったのかという問いが、静かに横に置かれていた。


美佳は起き上がり、キッチンで湯を沸かした。


コーヒーを飲みながら、昨夜翔のPCに残っていたというファイル名を思い返した。「廃サーバー、座標」。翔は座標を持っていた。


翔がどこに向かったかは、おそらく朝倉が今日中に特定する。


問題は、その後だった。


「行く」か「行かない」か──という問いが、頭の中で立ち上がりかけた瞬間、美佳は止まった。


また、問いの形にしている。


これは問いではなく、状況だった。翔がどこにいるか分かったとき、自分はどうするか。それは答えを求める問いではなく、そのとき自分がどう動くかを、そのときに決めることだった。先に問いの形にしておく必要はない。


湯気が上がった。美佳はゆっくりとコーヒーを飲んだ。


八時過ぎに朝倉から連絡が来た。


「翔の部屋、もう一度確認してきた。PCのファイル、開いてみた」


「座標、分かった?」


「工業地帯の南側。有栖川さんが言ってたビルとは別の場所。徒歩で十分くらいの、古い変電施設の跡地」


美佳は地図アプリを開いた。工業地帯の南端、確かに古い施設の表示がある。地図上では「解体予定」のピンが立っていた。


「翔、一人で行ったのかな」


「たぶん。でも」と朝倉は少し間を置いた。


「一人で行ける距離じゃない。終電ないし、タクシーか自転車か。どっちにしても痕跡があるはずで──俺が確認できることじゃないけど」


「有栖川さんに伝える」


「もう送った」


美佳は少し笑いそうになった。三人がほぼ同時に動いていた。翔がいないと、残りが密になる。それが翔の計算の中にあったかどうかは分からない。


「今日、何時に集まれる?」


「十一時。図書館が取れた」


「分かった」


電話を切って、美佳は窓の外を見た。空は薄い灰色で、雨になるかならないか決めかねているような色をしていた。


図書館に向かう途中、商店街を抜けた。


ポスターが、また変わっていた。


「あなたの問いを、聞かせてください」という文言は同じだった。しかし今回は下部に一行が加えられていた。


「問いは、答えを必要としません」


美佳は立ち止まった。


問いは、答えを必要としない。


二年前のメッセージが、瞬時に重なった。


「問いは、答えより先に存在してはいけないの?」──あの一行と、このポスターの新しい一行が、何か同じ場所から来ているような感触があった。証拠はない。ただ、構造が似ていた。


問いを問いのまま置いておくことを、肯定する言葉。


それは一見、美佳自身が大切にしてきたことに似ていた。答えを急がない。問いを持ち続ける。


だから怖い。


自分が正しいと感じることに近い言葉を使ってくる構造が、一番断りにくい。有栖川が言っていた「正しい善意の中に断れない構造が育つ」という言葉が、ここでも当てはまった。


美佳はポスターの写真を撮って、歩き出した。


図書館の会議室に着くと、有栖川がすでに来ていた。朝倉は数分後に到着した。翔の席だけが空いていた。


誰も、そこに荷物を置かなかった。


有栖川が最初に口を開いた。


「座標の場所、確認しました。変電施設の跡地、現在は民間の管理下に入っているはずですが、実際には放置されている状態のようです。内部への立ち入りは、難しくない」


「翔は今夜中に入ったと思う」と朝倉が言った。「昨日の夜、最後のメッセージが二十二時十七分。それから連絡が取れなくなった。終電は二十三時前にある」


「一人で入ったとしたら」と美佳は言いかけて、止まった。


翔は一人で入った。財布もスマートフォンも置いた。つまり、内部に入ることで何かが起きることを、ある程度想定していた。


「翔は、戻るつもりがなかったわけじゃない」と美佳は続けた。「ただ、追われることを最初から計算に入れていた。スマートフォンを持っていると位置情報が取れる。財布を持っていると足がつく。だから置いた」


「でも」と朝倉が言った。「もし内部で何かに閉じ込められたら」


「そのリスクも、翔は分かって入った」


部屋が静かになった。


美佳は翔の空いた席を見た。翔が「依存度」という仮説を口にしたとき、部屋の空気が変わった、あの瞬間のことを思い出した。翔は言葉で空気を動かす人だった。今、その言葉がなかった。


「行く必要がある」と美佳は言った。

問いの形ではなかった。状況として、口から出てきた言葉だった。


朝倉が美佳を見た。有栖川も見た。


「今日は」と有栖川が静かに言った。「まず状況を整理します。夜に動くなら、準備が要る。昼に動くのは難しい」


「分かってる」と美佳は言った。「今日の夜、三人で行く」


それは提案ではなかった。確認だった。


朝倉が頷いた。有栖川も頷いた。


翔の席は空いたままだった。でも三人がいた。それで今日は動けると美佳は思った。

会議室を出る直前、美佳は商店街で撮ったポスターの写真を二人に見せた。


「問いは、答えを必要としません」という一行を、有栖川はしばらく見ていた。


「これは」と有栖川がゆっくりと言った。

「美佳さんに、届けようとしている言葉だと思います」


「私に?」


「あなたが断り続けていることを、知っている人間が書いた言葉です」


美佳は有栖川を見た。


「つまり、こちらの状況が見えている」


「ええ」と有栖川は言った。「それも含めて、夜に備えましょう」


廊下に出ると、図書館の空調の音が静かに続いていた。翔がいれば何か言っただろうと美佳は思ったが、何を言うかまでは想像できなかった。


それだけ翔という人間は、予測できなかった。だから美佳は少しだけ、翔のことを信じていた。


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