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アンケート-選ばないという選択-  作者: 菊池まりな


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第30話 彩音への言葉

 彩音に連絡したのは、翌日の朝だった。

「話したいことがあります。今週中に会えますか」


 返信は十分後に来た。


「明日の夕方はどうですか。場所はどこでも」


 美佳は「前回と同じカフェで」と返した。彩音が指定した店。彩音のホームに近い場所で話す方が、彩音の反応を正確に見られると思った。


 翌日、彩音は先に来ていた。


 前回と同じ窓際の席。でも今日は、テーブルの上に何も置いていなかった。スマートフォンも、ノートも。手だけが、テーブルの上に揃えて置かれていた。


 待っていた、という姿勢だった。


 美佳は向かいに座った。注文を済ませてから、まっすぐ彩音を見た。


「土曜日の公民館に、行きました」


 彩音の表情は、動かなかった。


「知っています」彩音は静かに言った。「気づいていました」


「気づいていた」


「美佳さんと、もう一人。入口から分かりました」


 美佳は少し間を置いた。「それでも、何も言わなかった」


「来てほしかったので」彩音は答えた。「声をかけたら、来なかったと思って」


 コーヒーが来た。


 美佳は一口飲んでから、言った。


「途中で席を立った男性を、見ましたか」

 彩音は少し眉を動かした。「席を立った方、ですか」


「四十代くらいの、無口な男性です。会の途中で、スマートフォンを見て、そのまま出ていった」


「気づきませんでした」彩音は正直に言った。「私は後ろの席にいたので」


 美佳は彩音を見た。


 嘘ではないと思った。知らなかった、という顔だった。


「その男性のことを、調べました」美佳は続けた。「フォームに三百件以上、問いを投稿していた人です。昨夜以降、SNSのアカウントがすべて消えて、連絡が取れなくなっています」


 彩音の手が、テーブルの上で少し動いた。


「消えた、というのは」


「行方が分からない、ということです」


 沈黙があった。


 彩音は視線をテーブルに落とした。考えている顔だった。否定しようとしている顔ではなかった。


「その方が、フォームに三百件」彩音はゆっくり言った。「それは──私は知らなかった」


「知らなかった?」


「投稿数の多い方がいることは、数字で見ていました。でも誰が、とまでは確認していなかった」


 美佳は「なぜですか」と聞いた。


「個人を特定するつもりがなかったから」彩音は顔を上げた。「問いは、誰のものでも受け取るつもりでいたので」


 美佳は一度、息を整えた。


「彩音さん」美佳は言った。「その男性に、昨夜個別のメッセージが届いていました。フォームの自動送信ではなく、その人だけに向けて作られた問いが」


 彩音の表情が、初めて変わった。


「個別に、ですか」


「はい」


「私は──そんな機能は作っていない」彩音の声が、少し低くなった。「フォームは全員に同じ条件で開いています。特定の誰かにだけ何かを送る仕組みは、入れていない」


 美佳は彩音を見た。


 動揺していた。演じている動揺ではなかった。


「問いが問いを返す機能は、誰が設計しましたか」


 彩音は少し間を置いた。


「手伝ってくれている人がいます」


「誰ですか」


「……技術的なことが得意な人で」彩音は言葉を選んでいた。「名前は、まだ言えない」


「まだ、ということは、いずれ言えますか」


「美佳さんが一緒にやってくれるなら」彩音は静かに言った。「全部、話します」


 美佳はコーヒーカップを両手で包んだ。


 冷めかけていた。


「彩音さん」美佳は言った。「断れない構造が、育っています」


「断れない構造」


「強制されていない。でも断ることのコストが、気づかないうちに上がっている。フォームに問いを書き続けた男性は、やめるタイミングを見失っていた可能性がある。問いが問いを返す設計は、やめる理由を作らない」


「でも」彩音は言った。「誰も傷ついていない。みんな、自分の意志で書いている」


「消えた男性は、傷ついていないと誰が確認しましたか」


 彩音は答えられなかった。


 美佳は続けた。


「彩音さんに嘘をついている人がいます。男性が消えたことを、誰かが彩音さんに知らせなかった。個別のメッセージを送る仕組みを、彩音さんに教えずに動かしていた」


「それは──」彩音は口を開いて、閉じた。


「彩音さんの善意を、誰かが使っています」


 長い沈黙があった。


 窓の外で、車が一台通り過ぎた。それだけの音が、やけに大きく聞こえた。


 彩音はしばらく、テーブルの一点を見ていた。


 それから顔を上げた。目が、少し赤かった。


「美佳さんは」彩音は言った。「私が間違っていると思っていますか」


 美佳は少し考えた。


「間違っていないと思っています」美佳は答えた。「始めた理由も、続けている理由も。でも──正しい善意の中に、断れない構造が育つことがある。それを、彩音さんに伝えたかった」


「やめてほしいということですか」


「今日は、そこまで言えない」


「なぜですか」


「彩音さんの周りにいる人間のことを、まだ全部知らないから」美佳はまっすぐ言った。


「手伝っている人が誰なのか、何を目的としているのかを、もう少し知りたい」


 彩音は「……分かりました」と言った。小さな声だった。


 店を出る前、翔から通知が入った。


 美佳はそれを彩音に見せずに確認した。


 一行だけだった。


「男性の端末から、LAPISのサーバーと同一の暗号化パターンが検出されました」


 美佳はスマートフォンをポケットに戻した。


 彩音が「また連絡します」と言って、先に出ていった。


 美佳は一人、窓際の席に残った。


 彩音の手が置かれていたテーブルの上を見た。何も残っていなかった。


 LAPISの暗号化パターン。消えた男性の端末に。


 終わったはずのものが、また人に触れていた。


 今度は、誰を通して。

彩音は知らなかった。知らなかったことが、何かを変えた。でも何を変えたのか、美佳にはまだ分からなかった。


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