第十五話 抉られた過去
夢を語るのは簡単で、続けるのは難しい。
才能を疑い、未来を疑い、それでもペンを握り続ける理由はどこにあるのか。
真逆の場所から歩いてきた二人。
恵まれすぎた重圧と、何も持たぬ空白。
交わるはずのなかった線が、漫画という一点で重なったとき――物語は、静かに熱を帯び始めます。
第十五話「抉られた過去」。
彼らが抱える傷と、覚悟の輪郭をお楽しみください。
雨だった。
放課後の教室は静まり返り、窓ガラスを叩く水音だけが残っている。
「……なあ」
珍しく、篤の声は低かった。
机に座ったまま、窓の外を見ている。
雄大は違和感を覚えた。
いつもの軽薄さがない。
挑発も、皮肉も、ふざけた空気もない。
「お前さ」
篤が続ける。
「なんで漫画なんだ?」
唐突だった。
だが、その問いは妙に重かった。
雄大は少し黙り込む。
言葉を選ぶように視線を落とす。
「……逃げ道だったから」
篤がわずかに眉を動かす。
「俺の家さ」
雄大の声は淡々としていた。
「代々、エリートなんだ」
「医者、官僚、大学教授……」
雨音が強くなる。
「当たり前のように言われ続けたよ」
――名門納戸井大学に行け
――それが一族の義務だ
――お前ならできる
「できてたよ」
雄大は小さく笑う。
「勉強は得意だったから」
「期待通りの点数も取れてた」
だが。
「……ある日、気づいた」
声がわずかに揺れる。
「俺、何も選んでないって」
教室の空気が重く沈む。
「人生の全部が決められてた」
「大学も、将来も、職業も」
「俺自身はどこにもいなかった」
篤は黙って聞いている。
珍しく茶化さない。
「漫画だけだった」
雄大が呟く。
「誰にも指図されなかったのは」
沈黙。
篤が小さく鼻を鳴らす。
「……なるほどな」
そして。
自嘲気味に笑った。
「真逆だな、俺」
雄大が顔を上げる。
篤は机の上に寝転び、天井を見ながら言った。
「俺の家、底辺だぞ」
軽く言う。
だが、その言葉の奥に滲むものは重い。
「親父は消えた」
「母親は働き詰め」
「家は常に金がない」
「進路?」
篤が乾いた笑いを漏らす。
「そんなもん考えたこともねぇ」
雄大は黙り込む。
「中学の頃な」
篤の視線は天井のまま。
「ちょっとしたことで家から追い出された」
「戻るなってさ」
淡々と語られる事実。
「行く場所なんてねぇし」
「そのまま適当に生きて」
「気づいたら不良だよ」
雨音だけが響く。
「でもな」
篤の声が少しだけ変わる。
「漫画読んだ時だけは違った」
「世界があった」
「居場所があった」
「何者でもない自分が消えた」
ゆっくりと起き上がる。
「だから俺は漫画家になる」
一切の迷いなく言い切る。
「それ以外に欲しい人生がねぇ」
雄大の胸に、何かが刺さる。
違う道を歩いてきた二人。
真逆の環境。
真逆の価値観。
それでも。
同じ場所に辿り着いていた。
雄大が静かに言う。
「……俺もだよ」
篤が視線を向ける。
「漫画以外で、生きてる実感がない」
窓の外。
雨はまだ止まない。
だが教室の中で、二人の空気は奇妙なほど澄んでいた。
「エリートの逃亡者」
「家無しの不良」
篤が笑う。
「ひでぇコンビだな」
雄大も小さく笑う。
「売れなさそうだ」
一瞬の静寂。
そして同時に言った。
「――でも」
視線が交差する。
「漫画家になる」
雨音の向こうで。
未来だけが、妙に鮮明だった。
「漫画家になる、か……」
篤が呟く。
その声には、珍しく現実の重さが滲んでいた。
「でもよ」
机に頬杖をつきながら続ける。
「綺麗事じゃ食えねぇぞ、この世界」
雄大は即座に答えなかった。
わかっている。
そんなことは、嫌というほど。
「成功率、何%だと思う?」
篤が指で机を叩く。
「プロになれる奴なんてほんの一握り」
「食えてる奴なんてさらにその中の一部」
「夢見て消えてく連中、腐るほどいる」
言葉は冷酷だった。
だがそれは現実だ。
雄大は静かに言う。
「知ってるよ」
視線を逸らさず。
「だから怖いんだ」
篤が一瞬だけ目を細める。
「怖い?」
「当たり前だろ」
雄大の声は低い。
「俺は“戻る場所”がある」
「だからこそ失敗が許されない」
「漫画で駄目だったら、全部終わる」
家。
一族。
期待。
それらは保険ではない。
鎖だ。
「後戻りできないって意味じゃ」
雄大が続ける。
「お前と大差ないよ」
篤がふっと笑う。
「違うな」
短く否定する。
「俺には最初から戻る場所がねぇ」
軽く言う。
だが、その軽さが妙に痛い。
「失敗しても失うもんはない」
「最悪、野垂れ死にだ」
「シンプルだろ?」
雄大は言葉を失う。
篤は立ち上がり、窓の外を見る。
「でもな」
雨に滲む街を見下ろしながら。
「だから賭けられる」
振り返る。
「全部」
教室の空気が張り詰める。
「半端な覚悟の奴が生き残れる世界じゃねぇ」
「才能だけでも無理」
「努力だけでも無理」
「狂ってなきゃ無理なんだよ」
その言葉に、異様な説得力があった。
雄大は小さく息を吐く。
「……狂ってる自覚はあるよ」
篤がニヤリと笑う。
「だろうな」
「優等生が人生投げ捨てて漫画だぞ」
「正気じゃねぇ」
雄大も笑う。
「不良が将来設計ゼロで漫画も十分だろ」
二人の間に、奇妙な静けさが流れる。
篤が手を差し出す。
「じゃあ、確認だ」
雄大が視線を向ける。
「売れなくても続ける」
「評価されなくても描き続ける」
「地獄みたいな生活でも辞めない」
「それでも漫画家になる」
教室。
雨音。
沈黙。
雄大はゆっくりと立ち上がる。
そして、迷いなくその手を掴んだ。
「ああ」
視線がぶつかる。
「それしかない」
強く握られた手。
才能も保証も未来もない。
だが。
覚悟だけは、確かにそこにあった。
窓の外で雨が降り続ける。
まるで、何かを洗い流すかのように。
手を離した瞬間だった。
「……で?」
篤が現実的な声を出す。
「どうすんだ?」
一気に空気が変わる。
夢から、現実へ。
雄大が眉をひそめる。
「どうって……」
「漫画家になる方法だよ」
篤が呆れた顔で言う。
「気合いと根性でデビューできるなら苦労しねぇ」
正論だった。
「持ち込み」
雄大が答える。
「それしかないだろ」
「どこに?」
「……決めてない」
篤が盛大にため息をついた。
「お前さ」
「頭いいくせに肝心なとこ雑だよな」
雄大も反論できない。
篤は鞄を漁り、くしゃくしゃの漫画雑誌を取り出した。
「普通ここだろ」
表紙には業界最大手の名前。
誰もが知る人気誌。
「まずは王道」
雄大が顔をしかめる。
「競争率、地獄だぞ」
「当たり前だ」
篤は即答した。
「どうせ狙うなら一番上だろ」
その理屈は乱暴だが、妙な説得力がある。
「負けたら?」
雄大が問う。
「次行くだけだ」
あまりにも簡単に言い切る。
「デビューできるまで叩き続ける」
「壁なんて壊れるまで殴ればいい」
雄大は思わず苦笑する。
「脳筋すぎる……」
「うるせぇ」
だが、次の言葉は静かだった。
「諦めたら終わりなんだよ」
篤の目が笑っていない。
「才能の有無なんて後から決まる」
「運も評価も全部結果論だ」
「続けた奴だけが勝つ」
教室の空気が再び重くなる。
雄大はしばらく考え込む。
そして、小さく息を吐いた。
「……合理的ではないけど」
篤がニヤリとする。
「でも?」
「嫌いじゃない」
篤が笑う。
「だろ?」
雄大が窓の外を見る。
雨は少し弱くなっていた。
「じゃあ」
決意を込めて言う。
「持ち込みに行くか」
篤が即座に答える。
「今週末な」
「早すぎだろ!」
「勢いが命だ」
「準備が――」
「描け」
一言だった。
「死ぬほど描け」
逃げ道を許さない声音。
雄大は一瞬言葉を失い、そして笑った。
「……とんでもない奴と組んだな俺」
篤が肩をすくめる。
「今さら気づいたのか優等生」
雨の向こう。
まだ何も始まっていない未来。
だが二人はもう、同じ方向を見ていた。
漫画家になる。
それだけが、揺るがない現実だった。
過去は人を縛り、同時に突き動かします。
逃げ場だった者と、唯一の救いだった者。
動機は違えど、向かう場所が同じであることは時に運命よりも強い。
雨の教室で交わされた約束は、まだ何の保証もない。
けれど、その不確かな決意こそが物語を前へ進めます。
次回、彼らはついに現実の扉――持ち込みへ。
夢と現実が衝突する瞬間を、どうぞお待ちください。




