第十四話 才能の値段
物語の裏側には、いつも別の戦場がある。
原稿の向こう側。
締切の内側。
そして編集部という名の混沌。
才能、個性、衝突――
それらを受け止め、形にし、時に振り回される存在。
編集者。
彼らもまた、この世界の当事者である。
本編では語られない、ほんの一幕。
今夜も誰かの机の上で、小さな悲鳴と小さな期待が交差する。
編集部の空気は、奇妙なほど静まり返っていた。
さっきまで中直修司がいた席。
そこに残るコーヒーの紙カップだけが、場違いな存在のように机の端に置かれている。
誰も触れない。
誰も話さない。
だが――
最も強く沈黙しているのは、狭間雄大だった。
「……アンケート一位、か」
ぽつりと漏れた声は、自分でも驚くほど乾いていた。
現実味のない数字。
だが、その重みだけは嫌というほど伝わってくる。
連載作品。
売れっ子漫画家。
読者評価トップ。
すべて、自分とは無縁の世界。
「気にすんなよ」
不意に隣で藤堂篤が言った。
珍しく、茶化すような調子ではない。
「売れてる奴なんて山ほどいるだろ。いちいち凹んでたらキリねぇって」
軽い言葉。
だが雄大は反応しなかった。
――違う。
数が問題じゃない。
「元・同じ学校」という事実が、何よりも残酷だった。
同じ教室。
同じ廊下。
同じ空気。
そこから、一位。
「……あいつは」
雄大の指先が、無意識に握り締められる。
「俺より遥かに頭も悪かった」
静かな言葉。
しかし、その場の空気が一瞬で変わった。
篤が眉をひそめる。
「お前、それ言うか普通」
「事実だ」
「だから余計ダメなんだよ」
篤の声に、わずかな苛立ちが混じる。
「勉強できるとかできないとか、そんなもん漫画に関係ねぇだろ」
「……関係ない?」
雄大の視線がゆっくりと上がる。
その目には、苛立ちとも違う感情が宿っていた。
「ならなぜ、俺は勝てない」
言葉が落ちる。
重く。
鋭く。
逃げ場のない問い。
篤は一瞬だけ黙り込んだ。
だがすぐに鼻で笑う。
「知らねぇよ」
投げやりな口調。
けれどその眼差しは、どこか真剣だった。
「勝ち負けで描いてねぇからじゃね?」
「……何?」
「お前さ」
篤が椅子に深く座り直す。
「漫画を競技みたいに考えすぎなんだよ」
「点数つけて、順位つけて、正解探して」
「それは当たり前だろ」
「違うね」
即答だった。
「売れてる奴ら見てみろよ。
あいつら、別に”正しい漫画”描いてねぇだろ」
雄大の思考が一瞬止まる。
「意味わかんねぇ台詞」
「ありえねぇ展開」
「理屈ぶっ壊れのキャラ」
「それでも面白けりゃ勝ちなんだよ」
篤の口元が歪む。
いつもの不敵な笑み。
「勉強のテストとはルールが違う」
雄大は何も言えなかった。
否定できない。
だが、受け入れきれない。
その時だった。
「はいはい、そこまで」
低く、よく通る声。
振り向くまでもない。
八島歩だった。
「編集部で哲学バトル始めないでくれる?」
呆れたような視線。
だが、その目は鋭い。
「……聞いてたんですか」
雄大が小さく言う。
「全部ね」
歩は即答した。
「で?」
腕を組む。
編集者の顔。
完全な仕事モード。
「結論出た?」
二人は沈黙した。
歩はため息をつく。
「才能がどうとか、頭がどうとか」
「正直どうでもいい」
「重要なのは一つだけ」
机を軽く指で叩く。
「売れるかどうか」
容赦のない現実。
「中直修司は結果を出している」
「あなた達はまだ何も出していない」
「それだけの話」
空気が凍る。
だが歩は続けた。
「悔しい?」
雄大の喉がわずかに鳴る。
答えは不要だった。
「なら描きなさい」
一言。
迷いのない命令。
「感情は燃料になる」
「でもね」
その視線が鋭く細められる。
「自己憐憫はただのブレーキ」
雄大の胸に突き刺さる。
「才能の値段を決めるのは市場」
「学校でも偏差値でもない」
「読者よ」
編集部の雑音が遠のいた気がした。
歩は踵を返しながら言う。
「締切、前倒しするから」
「……え?」
篤が素っ頓狂な声を上げる。
「火が付いたでしょ?」
歩は振り返らずに言った。
「だったら冷める前に描け」
悪魔のような合理性。
だが、これ以上なく編集者らしい判断。
雄大は唇を噛み締めた。
劣等感。
焦燥。
怒り。
悔しさ。
すべてが、確かに燃えていた。
「……描きます」
小さく。
だが確かな声。
篤がニヤリと笑う。
「やっと面白くなってきたじゃん」
静かな戦いは、もう始まっている。
次元の違うライバルを前にして。
逃げ場のない世界で。
夜。
篤の部屋には、異様な静けさが満ちていた。
普段ならテレビの音か、スマホの動画か、何かしらの雑音が流れている。
だが今夜は違う。
机の上の原稿用紙。
散乱するネーム。
転がるシャープペン。
そして――
黙り込んだままの狭間雄大。
「……おい」
篤がベッドに寝転んだまま声をかける。
「さっきから一ページも進んでねぇぞ」
雄大は答えない。
視線はネームに落ちたまま。
だが、明らかに描けていなかった。
頭の中にある。
物語も、構図も、流れも。
それでも――手が動かない。
「……くそ」
小さな悪態。
紙を握り潰す音。
篤が半身を起こす。
「またかよ」
「……違う」
雄大の声は低い。
「違わないね」
篤は即座に切り返す。
「お前のそれ、いつもの”考えすぎ病”」
雄大の指先が止まる。
「なあ」
篤がゆっくり立ち上がる。
珍しく真面目な声。
「何を怖がってる?」
その一言で、空気が変わった。
雄大の瞳が揺れる。
怖がっている?
違う。
そうじゃない。
これは――
「負けるのが嫌なんだろ?」
核心だった。
雄大の肩がわずかに震える。
「中直修司に」
「世の中に」
「自分の幻想に」
篤の言葉は容赦がない。
「完璧じゃなきゃ出せない」
「負けるくらいなら描けない」
「違うか?」
沈黙。
完全な肯定。
雄大の拳が強く握られる。
「……俺は」
絞り出すような声。
「凡人だ」
篤が眉をひそめる。
「自分で言うなよ気持ち悪ぃ」
「事実だ」
雄大の声は震えていた。
「努力して、考えて、計算して」
「それでも届かない」
「才能が違う」
部屋の空気が重く沈む。
篤はしばらく黙っていた。
珍しく、すぐに言葉を返さない。
やがて、ぽつりと呟く。
「当たり前だろ」
雄大が顔を上げる。
「……え?」
「才能が違う?」
篤は鼻で笑った。
「そんなもん、最初から全員違うに決まってんだろ」
乱暴な言い方。
だが、その目は真っ直ぐだった。
「同じ土俵に立ってると思ってんのが間違いなんだよ」
「じゃあ……どうすれば」
雄大の声は、無意識に弱さを帯びていた。
篤は迷わず答えた。
「ズルしろ」
「……は?」
「才能の差? 埋められねぇよ」
「だったら別の武器使え」
机のネームを指で弾く。
「発想」
「勢い」
「狂気」
「開き直り」
「理屈で勝てねぇなら、理屈をぶっ壊せ」
雄大の思考が止まる。
「漫画ってのはな」
篤の声が少しだけ熱を帯びる。
「頭の良さで描くもんじゃねぇ」
「感情を直接ブチ込むもんだ」
その瞬間だった。
雄大の中で何かが弾けた。
理屈。
計算。
構成。
正しさ。
それらに縛られていた思考が、わずかに軋む。
「……感情」
「そうだよ」
篤がニヤリと笑う。
「お前、今めちゃくちゃムカついてんだろ?」
否定できない。
「嫉妬してんだろ?」
反論できない。
「悔しくて仕方ねぇんだろ?」
胸が焼ける。
「それ描けよ」
あまりにも単純な答え。
だが――
何よりも核心だった。
雄大の視線がネームに落ちる。
整いすぎたコマ割り。
無難な展開。
安全な構成。
――違う。
今、描くべきものは。
雄大は乱暴に紙を引き寄せた。
シャープペンを握る。
線が走る。
迷いなく。
理屈なく。
衝動のままに。
篤が小さく笑う。
「それでいいんだよ」
机の上に、新しい物語が生まれ始めていた。
才能の差を埋めるためではない。
才能のルールそのものを、踏み越えるために。
おまけ
「編集者という生き物」
月園舎 編集部。
深夜。
「……なんでこうなるのよ……」
八島歩は机に突っ伏していた。
目の前には二つのネーム。
・狭間雄大 ― 緻密、理屈、完成度高
・藤堂篤 ― 荒削り、勢い、意味不明
正反対。
評価不能。
胃に悪い。
「普通はね……」
歩がぼそりと呟く。
「普通はどっちかに寄るのよ……」
隣の席の編集者が苦笑する。
「また問題児拾ったんですか?」
歩はゆっくり顔を上げる。
疲労と諦めと職業病が混ざった目。
「違うわよ」
一拍。
「問題児が問題児を連れてきたの」
編集部に笑いが漏れる。
「最悪の組み合わせじゃないですか」
「胃薬いります?」
「前例ないですよそれ」
「前例なんて知るか」
歩は即答した。
「面白くなりそうなのが一番タチ悪いのよ」
誰も反論できない。
歩は二つのネームを見比べる。
「優等生の天才気取り」
「才能型のバカ」
小さくため息。
「……最高に編集者泣かせね」
だが、その口元はわずかに笑っていた。
「でも」
赤ペンを握る。
「嫌いじゃないのよね……こういうの」
編集部の夜は、今日も平和ではなかった。
シリアスな本編とは違い、少し肩の力を抜いたおまけ回でした。
編集部視点というのは、創作ものでは実は非常に重要で、
物語の「現実感」を強める装置でもあります。
どれだけ天才的な作品でも、
どれだけ衝撃的な才能でも、
必ずそれを受け止めて悩む大人がいる。
歩はまさにその象徴です。
そして何より――
編集者が楽しそうに苦しんでいる時、作品はだいたい面白くなります。
次回から再び本編へ。
物語はさらに騒がしくなっていきます。




