第九話 タイマン
——恐怖に耐えることには慣れている。
生まれた時から常に、この身を焼く忌々しい陽の光が手の届かない空の上から俺を睨め付けていた。
俺にとって光は恐怖であり、闇の静寂こそが最も心を落ち着かせる時間だった。
そして俺は悟った。
たとえ俺が怯えても、逆に反抗心を剥き出しに太陽を睨み返しても、それで陽の光が弱まるわけでもなければ俺の肌が鋼鉄に生まれ変わるわけでもない。
洞窟の中でぶら下がる蝙蝠のように、この暗い環境こそが正常であると認識すれば、それ以上窓の外で歌う小鳥を妬ましく思うことはなくなった。
けれども、それもまたほんの一瞬だった。
俺が本当に怯えていたのは陽の光ではない。
本当に怯えていたのは——
ルシアンは怪物から少し離れた周囲を走り出した。
倒す必要はない。
ただイリアスたちが帰還魔法を発動するまでの時間を稼げばいい。
彼とてここで死ぬつもりなど毛頭なかった。
ルシアンが怪物の背後に辿り着いた時、その姿を追って怪物も振り返る。
掌に既にあの水球が形成されていた。
ルシアンに照準を定め、放たれる。
「うぉっ!」
彼は前に転がって水球を回避する。
今まで彼がいた場所は大きく抉れていた。
素早く起き上がり、視界に怪物を捉える。
視線の先には既に次の水球を構える怪物の姿があった。
——連続で撃てるのかよッ!!?
すぐさま放たれた二球目を躱すと、立ち止まることなくそのまま走り続ける。
続けて放たれ続ける水球の嵐が後方の景色を破壊していく。
——距離をとったらダメだ!!
水球が撃たれたタイミングを見計らい、方向を変えて怪物の元へ向かう。
次の球が放たれるまでのほんの僅かなインターバル。
眼前で放たれた水球を間一髪で躱し、お返しとばかりに胸部に掌底を放つ。
横に振り払われた怪物の腕を屈んで潜り抜け、開いた脇に拳を放つ。
怪物は反対側の手でアッパーを打つ。
顔に目掛けて放たれたそれを体を右に逸らして避けるが、腕についたヒレが頬を少し裂いた。
「ツッ!」
痛みに怯むことなく、伸ばし切った怪物の腕をホールドして少し捻る。
腕と脇で関節をガッチリ固定する。
——打撃、斬撃がダメなら!
ルシアンは全体重を乗せ、固定した関節を可動域の逆方向に向けて力を掛けた。
一瞬、怪物の腕はギチギチと音を立てた。
しかし次の瞬間、怪物の腕は何の抵抗もなく力を掛けた方向に曲がる。
——折れ……た……?
骨が折れた、とはまた違う感覚にルシアンは困惑する。
しかし彼が理解するよりも先に、しがみついていた怪物の腕が彼の体を持ち上げた。
そしてその彼を後方へと投げ飛ばした。
受け身をとって着地し、怪物の方を見る。
怪物の腕はまるで多関節の蛇か、あるいは軟体生物のようにうねうね曲がりくねっている。
——関節を外した!? いや、身体の構造そのものを組み替えたのか!!
「欲張りすぎるだろッ!!」
怪物のあまりの理不尽思わず悪態を吐く。
そうこうしているうちに怪物は急接近し、ルシアンの頭部に拳を振るう。
ヒレのことを考慮し、腕の軌道よりも大きく体を動かして回避する。
しかし——
「がっ、あぁッ!!?」
ルシアンを襲ったのは途轍もない痛みと熱、そして闇。
顔の右半分を手で覆い、痛みに悶える。
下を見ると、血が腕をつたってポタポタと滴っている。
——なんで……!? いまちゃんと避けて……!?
覆っていた手を離すが、以前として彼の視界の右半分は闇のままだった。
残った左側の視界が怪物を映す。
振り切られた怪物の腕、そこにあるヒレは通常よりも大きく開かれていた。
変形したヒレが攻撃範囲を広げ、それを見誤ったルシアンの右眼球を切り裂いたのだ。
「クッ……ツゥ……!!」
未だ痛みに硬直するルシアン。
そんなことはお構いなしとばかりに、怪物は彼の首元を掴む。
そして感じる一瞬の浮遊感。
怪物は彼を掴んだまま飛び上がると、そのまま彼の身体を床へと叩きつけた。
「ガァッッ!!!」
地面はその衝撃で崩れ、一泊置いてまた浮遊感がルシアンを襲う。
そして彼の体はまた床に叩きつけられたが、それと同時に水飛沫が舞い上がる。
「ゲホッ! オェッ!!」
ルシアンは地面に這いつくばりながら吐血する。
そこは今までいた広間の更に地下、床一面に水が張られた空間だった。
部屋の先は広く、崩れた天井から入る光ではここがどれだけ広いか分からなかった。
「……最下層じゃなかったんかい」
吐いた血が水に混ざり、濁っていく。
血混じりの水には血涙を流して満身創痍の彼自身の姿が映った。
そしてそれを見下ろす怪物の姿も。
視界の端に怪物の脚が映る。
「ゴフッ!!!」
怪物の蹴りがルシアンの胴を打ち、そのまま蹴り上げた。
蹴り上げられた彼の身体は受け身もなしに水面に落ちた。
必死に力を振り絞り、起きあがろうとする彼に向かって、追い討ちとばかりに怪物は水球を生み出し、構えた。
「ま——」
水球は未だ起き上がれずにいる彼に対して、無慈悲に放たれた。
コンコン。
ルシアンは物音で目を覚ます。
起き上がるとそこは寝室だった。
彼は今ベッドに腰掛け、部屋を見渡している。
——ここはギルドの宿舎? ……いや違う、ここは俺の家の……?
そこは見慣れた、彼自身が育った寝室だった。
どうやら今は夜のようで、カーテンの隙間から月光が差し込んでいる。
コンコン。
そして、未だ窓を外から叩き続ける者のシルエットを映し出している。
彼にはそれが誰か分からない。
コンコン。
窓を叩く音とともに、微かに声が聞こえた。
——起きて。
「……!」
ルシアンは夢でなく、現実でまた目を覚ました。
彼の半身は水に沈み、崩れた瓦礫が所々にのしかかっている。
ボヤけた視界の先では、あの怪物の後ろ姿が見えた。
彼から遠ざかるように歩いて行き、その視線は上に向いていた。
その先は、アリエル達が上の階層に上がっていった通路があった。
怪物は飛び上がると、崩れた天井に着地して元いた階層に戻る。
そしてそのまま歩みを進め、上に向かう階段のほうへと向かっていく。
その様子を、ルシアンはただ横たわったまま見ていた。
「……」
——体が動かない。今何分経った? 多分十分は経ってないんだろうなぁ……。まぁ、頑張ったほうでしょ
ルシアンは半ば諦め、そして幾分か満足していた。
彼はあの怪物に、恐らく一等級冒険者ですら手こずるであろう相手に、彼は戦い抜いた。
結果的に敗北に終わった。
このまま行けば怪物は上の階層に上がり、アリエルやダイを殺すかもしれない。
しかし、例えそうなったとしても誰も彼を責めはしないだろう。
——……なんで頑張っちゃったんだろ?
彼は突然自分の行動に疑問を持った。
彼はおそらくこのまま、ここで一人寂しく死んでいく。
孤独だ。
それは彼が最も恐れていたものだった。
ギルドに加わって半年。
故郷の屋敷に篭っていた彼にとって、ダイたちは初めての友達だった。
そんな友達を失うのが怖くて、彼はこうやって捨て駒になった。
しかしどうせ死ぬなら一緒ではないか。
どうせこの後全員死ぬのなら、あの時一緒に死んでいるべきではなかったのか。
何故、誰よりも孤独を恐れていた彼は、最後に一人犠牲になることを選んだのだ。
そこまで考えて、すぐ思考を辞めた。
——もういいか……どうでも……終わったことだ
全ては終わったこと。
これから終わること。
これ以上考えても仕方がなかった。
そう結論づけると、ルシアンはゆっくりと瞼を閉じた。
——貴方も孤独を恐れているの?
「……」
元いた階層に戻った怪物は、上へと続く階段へと足を進めた。
その目的はここに立ち入った残りの者たちの排除。
そこに生物としての合理性も使命感も存在しない。
ただ何かから与えられた本能に沿って、怪物は歩みを続けていた。
その歩みが、止まる。
「——?」
怪物が振り向くと、そこには死んだと思っていたルシアンがいた。
彼は瀕死の重傷を負いながらも、怪物の背から生えたヒレを掴んで引いていた。
「まだだ……ッ!!」
怪物がそれに気付いたのも束の間、彼は手に込める力を強めた。
そして万力の握力は怪物のヒレを突き破り、ヒレの節を掴むと、そのまま下の階層目掛けて投げ飛ばした。
「——!」
投げ落とされた怪物は水飛沫をあげながら床に落ちる。
それに続けてルシアンも上の階層から飛び降り、勢いよく着地する。
「ハハッ! 第二ラウンドだッ!!」
ルシアンは笑いながらそう叫ぶと、怪物に向かって駆け出す。
あそこで足止めにならず、仲間と共に死ぬことが孤独じゃないというのなら、彼は決してその選択を選ばない。
——仲間のためにここで死ねッ!!!!
凄まじい速さで接近するルシアンに向かって、怪物は拳を振り上げる。
彼はそれを避けることなく腹で受けると、さっきのように怪物の腕をホールドし、関節を固めた。
そしてまた勢いよく怪物の腕に対して関節と逆方向に力を掛けた。
バキッ! ブチッ!
骨が折れる音に続いて、肉が引きちぎれる音が響いた。
ルシアンは怪物が体の構造を組み替えるよりも早く、その腕を靭帯ごとへし折ったのだ。
「キヒッ」
力なく垂れる怪物の腕を見て、ルシアンは思わず笑いが漏れた。
真に死を覚悟した時、彼は自分の体が格段に軽くなるのを感じた。
生への執着という重りは心身から剥がれ落ちた。
対して、仲間の命に対する執着は燃料となり、彼の体を何倍にも強く突き動かす。
ルシアンはこの時初めて、自分の肉体を完全に支配したように感じた。
怪物が掌をルシアンに向ける。
掌に空いた穴の中から、あの水の流れる音が徐々に大きく聞こえてくる。
その瞬間、彼はとある物を突き出し、怪物の掌の穴の中に無理矢理差し込んだ。
それは崩れた床と共にこの階層に落ちた、ガレオの盾の残骸である。
無理矢理差し込まれた盾の残骸は掌の穴を完全に塞ぎ、隙間から僅かに水が漏れる。
しかし、それは本来排出される水の量には到底及ばない。
次の瞬間は行き場を失った水の圧力によって、怪物の腕は内側から爆ぜた。
「バランス良くなったじゃねぇか! あぁ!!」
両腕を失った怪物に対し、精一杯叫ぶ。
今までにないほど強く拳を握り締め、怪物の顔面に叩き付けた。
渾身の一撃。
怪物の体は数メートル後方へ動き、体勢は今までにない程仰け反った。
しかし倒れない。
怪物が体勢を戻した時、既に最初に折られた腕は音を立てながら元の形へと再生していた。
その結果にルシアンは悪態を吐きながらも、笑みを崩さずにいた。
「……クソッ」
敗北には違いない。
しかしやり切った。
決死で稼いだこの時間は、きっと仲間たちの命を救うだろう。
既に振り上げられた怪物の拳から目を逸らし、仲間の無事を案じながら、ルシアンはトドメの一撃を待った。
その時——
「天におわします我ら主たる神々よ」
聞き慣れた声の祈りと共に——
「ねがわくば、どうかその浄化の光で、我に、かの者を打ち滅ぼす力をお与えください」
突如放たれた光の矢が——
「『ジャッジメントアロー』」
怪物の拳と頭部を貫いた。