不安な体育の授業
私の高校生活は順調に進んでいるように思えた。新しい友達もできたし、天文部での活動も充実していた。でも一つだけ、どうしても乗り越えられない壁があった。それは体育の授業だ。
担当は榊原英梨先生。部活動はバレー部の顧問をしている。みんな「鬼のサカキ」と呼んでいる。厳しい先生だった。持久走の時など、少しでもだらけている女子がいると「もっと速く走れ!」と、すぐに大声をあげる。中学とは違うと、頭では理解してはいるのだけれども、どうしてもあの頃の記憶と重なってしまう。だから、私はできるだけ、目立たないようにしていた。そのおかげか、榊原先生のほうから直接私に声をかけられることもなく無難に過ごせた。
しかし、夏が近づくにつれ、問題があることに気づいた。水泳の授業が始まるのだ。それを思うだけで憂鬱な気分になる。
「あの頃とは違うんだ」
何度も自分に言い聞かせる。今はもう私も高校生だ。ここは共学だ。先生も違う。クラスメイトも違う。みんなとてもよくしてくれる。だから大丈夫なはずだった。そう思おうとした。
けれど、プールという言葉を聞くだけで、胸の奥がざわつく。
水着。更衣室。プールサイド。思い出したくない記憶ばかりが頭をよぎった。
そうしているうちに、最初の水泳の授業の日を迎えた。
プールは男女別々の時間帯に分かれているので、男子とはすれ違うこともない。
休み時間のうちに更衣室へ向かう。中では既に数人のクラスメイトが水着に着替え始めていた。談笑する声が響き、キャッキャッと楽しげな雰囲気だ。その光景に一瞬足が竦むのを感じたが、平静を装って自分のロッカーに向かった。
制服のボタンを外すと、バッグを開け、畳まれた水着を取り出す。
その瞬間だった。
――スルリ
布が擦れる音と共に、頭の奥で何かが弾けた。
「……っ!」
呼吸が浅く速くなり、喉が締め付けられるように感じる。指先が痺れ、持っていた水着が床に落ちた。
視界が歪む。ザワザワとした女子更衣室の喧騒が遠のき、代わりにあの夏の日のプールサイドの情景が鮮明に蘇ってきた。消毒薬のツンとした臭い。剥き出しのコンクリートの感触。冷たく滑るタイル。そして、こちらを見下ろす冷酷な視線。
『……芦川、今着ているものを全部、脱げ』
突然、梅垣先生の冷たい声が頭によみがえった。何とか振り払おうと、強く目を瞑る。
ダメだ。ここはあの女子校じゃない。周りには友達がいる。怖い先生はいない。
理性ではそう分かっていても、身体は言うことを聞かない。全身が硬直し、手足の末端が氷のように冷たくなっていく。
「芦川さん……? 大丈夫?」
近くで着替えていたクラスメイトの一人が心配そうに声をかけてきた。
「顔色悪いよ? 具合でも悪いの?」
他の子も気づいて集まってくる。みんなが私を見ている。心配してくれているだけだ。それは分かっている。なのに、身体が勝手に身構えてしまう。
「ううん。……大丈夫……」
力なく答えるので精一杯だった。私のせいで、みんなが遅れてはいけない。あの時は、倒れた子を介抱していたために遅れてしまった。今度は私のせいで、誰かに迷惑をかけるわけにはいかない。
「いいから……」
「でも……」
「私はかまわないから。先に行って」
つい口調が強くなってしまった。友達は少し驚いたようだったが、それでも、
「うん……何かあったらすぐ呼んでね」
と言い残して出て行った。
ひとり残った私は、崩れるようにロッカーにもたれかかった。額には冷や汗が滲んでいる。深呼吸しようとしても、吸った空気が肺の奥まで届かない。ただの水泳の授業。ここは安全なはず。そう言い聞かせても、震えは止まらなかった。あの時の感覚がよみがえる。
「おい、芦川。どうしたー!」
更衣室の戸が開いて、榊原先生の姿が見えた。どうやら私だけがまだプールサイドに現れていないので、見に来たのだ。
「まだ、着替えてないのか。集合時間はとっくに過ぎているぞ」
榊原先生の声は大きいが、別に非難の色合いはない。事実を言っただけだ。それは分かっている。でも、ダメだ。
「……すみません」
私の声は震えていた。制服の胸元を必死で押さえながら、足元に落ちた水着を見つめる。これを着るということは、またあの時と同じ状況に身を置くということ。あの理不尽な世界に戻ることなのだ。そう考えると、どうしても手が動かない。
「……き、着替えられないんです」
そう言いながら、しまった、と思った。「鬼のサカキ」に何てことを言ってしまったのだろう。
水泳の授業なのに着替えられない。そんな言い訳が通用するはずがない。
怒鳴られる。叱られる。みんなの前へ引っ張り出される。そして――。
あの日の光景が頭をよぎる。
プールサイド。梅垣先生の声。クラスメイトたちの視線。私は思わず体をすくめた。
もうおしまいだ——。
榊原先生はじっと私のほうを見ていた。怒っているのだろうか。それとも呆れているのだろうか。やがて、ぽつりと言った。
「そうか……。じゃあ、保健室で休んでいろ。ひとりで行けるか」
先生の口調はあっさりとしていた。特に気にしている風でもない。それが、今の私にとっては最もありがたかった。
「……ありがとうございます」
お礼を言うと、制服のボタンを震える指で一つ一つ留め直す。タオルと水着はバッグに詰め直す。
「保健室の先生には連絡しておくから。ゆっくり休んでいろ。あたしも授業が終わったら、様子を見に行くから」
そう言い残すと、更衣室を出て行った。先生の態度はあっさりしたものだった。それなのに、不思議と胸の苦しさが少しだけ和らいだ気がした。
私は制服のバッグを抱え直し、ゆっくりとプール棟を後にした。




