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水面の影と光  作者: 与一
第1章 ある生徒について
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不安な体育の授業

私の高校生活は順調に進んでいるように思えた。新しい友達もできたし、天文部での活動も充実していた。でも一つだけ、どうしても乗り越えられない壁があった。それは体育の授業だ。

担当は榊原英梨先生。女子も男子も分け隔てなく、厳しく指導する人だ。部活動はバレー部の顧問をしている。体育の授業で持久走をすれば、最後尾の生徒にも「もっと走らんか!」と声を枯らして励ます。よいことはよい、悪いことは悪い、とはっきり言う。生徒たちは榊原先生を陰で「鬼のサカキ」と呼んでいる。その厳格な雰囲気が、どうしても梅垣先生の面影を私に思い出させてしまうのだ。

梅垣先生もそうだった。とにかく厳しく、規律を重んじ、反抗的な態度には容赦がなかった。あの夏の日の水泳の授業で、プールサイドに横たわった私の脳裏に焼き付いた梅垣先生の顔。命令する口調。支配的な目。それらがフラッシュバックするたびに、体が硬直し、呼吸が浅くなる。

だから体育の授業のときはいつも必死だった。目立たないように、隅っこでひっそりと。誰の目にも留まらないように。できる限り平均点を取り続けるように。ボール拾いなら率先してやったし、整列や号令には誰よりも従順に見えたかもしれない。反抗的と見なされたくない一心だった。

その甲斐あってか、幸いなことに榊原先生から直接注意されたり呼び出されたりすることはなかった。あの多香美女子校での水泳部の頃のように、個人的に指導と称して何かを強要されたり、恥ずかしい思いをさせられたりすることは一切なかったのだ。それだけでも心臓が破裂しそうな緊張感から解放された気分だった。

 生徒たちは「鬼のサカキ」と呼んでいる。確かに厳しい。でもそれは公平な厳しさだった。男女を区別せず、能力によって扱いを変えることもない。そして何よりも、梅垣先生のように個人的な感情で生徒を貶めたり弄んだりするような素振りは微塵もなかった。おそらくそれは榊原先生の教育方針なのだろう。しかし私にとっては、それでもあの恐怖の記憶が消えることはない。別人だとは分かっているのだが、榊原先生の大声、鋭い眼光、命令口調、それら全てが梅垣先生のイメージに重なってしまうのだ。

 それでもどうにか体育の時間はやり過ごしていた。出席さえすれば単位はもらえる。成績も中の下あたりを保っていれば問題はない。そう思ってきた。

しかし、夏が近づくにつれ、憂鬱になってきた。体育の授業が体育館での体育からプールでの水泳に変わる時期になったのだ。また泳がなければならないのか。プールに入るのか。あの多香美女子校の理不尽な日々を思い出す。

榊原先生はそんなことはしないとはわかっていても、どうしても不安になってしまう。あの時とは違う先生だ。もっとも、梅垣先生は体育教師でもなかったわけだし。それでも、やはり水泳の授業は近づくにつれ憂鬱になる。あの中学時代の記憶が蘇ってくるからだ。梅垣先生の冷たい視線、命令口調、そしてなにより、あの夏の日の屈辱的な経験。

「もう終わったことだ」

何度も自分に言い聞かせる。ここは高校だ。もうあの女子校ではない。多香美女子中学ではない。それに、今のクラスメイトたちはとても温かい。私の過去を知らないから当然だが、それでも分け隔てなく接してくれる。体育の時間だって、榊原先生は厳しいけれど公平だ。少なくとも梅垣先生のように個人的な感情で特定の生徒を虐げたりはしない。

「大丈夫。ただの水泳の授業よ」

そう思うようにしながら、高校に入って最初の水泳の授業の日を迎えた。水泳の授業は男女別々の時間帯に分けられており、今日は女子がプールを使う番だった。

指定された時間に更衣室へ向かう。中では既に数人のクラスメイトが水着に着替え始めていた。談笑する声が響き、キャッキャッと楽しげな雰囲気だ。その光景に一瞬足が竦むのを感じたが、平静を装って自分のロッカーに向かった。

制服のボタンを外すと、バッグを開け、畳まれた水着を取り出す。

その瞬間だった。

――スルリ

布が擦れる音と共に、頭の奥で何かが弾けた。

「……っ!」

呼吸が浅く速くなり、喉が締め付けられるように感じる。指先が痺れ、持っていた水着が床に落ちた。

視界が歪む。ザワザワとした女子更衣室の喧騒が遠のき、代わりにあの夏の日のプールサイドの情景が鮮明に蘇ってきた。消毒薬のツンとした臭い。剥き出しのコンクリートの感触。冷たく滑るタイル。そして、こちらを見下ろす冷酷な視線。

『芦川…今着ているものを全部、脱げ』

突然、梅垣先生の冷たい声が頭によみがえった。何とか振り払おうと、強く目を瞑る。

ダメだ。ここはあの女子校じゃない。周りには友達がいる。怖い先生はいない。

理性ではそう分かっていても、身体は言うことを聞かない。全身が硬直し、手足の末端が氷のように冷たくなっていく。

「芦川さん……? 大丈夫?」

近くで着替えていたクラスメイトの一人が心配そうに声をかけてきた。

「顔色悪いよ? 具合でも悪いの?」

他の子も気づいて集まってくる。みんなが私を見ている。その視線が刺さるように痛い。違うの。具合が悪いんじゃない。ただ、あの時のことが……。

「え、ううん……大丈夫……」

私は、そう力なく答えるのが精一杯だった。私のせいで、みんなが遅れてはいけない。あの時は、倒れた子を介抱して遅れたことで、梅垣先生の機嫌を損ねたのだ。そのために、さらに酷い目に遭わされた。絶対に、ここでは同じ轍を踏むまい。

「本当に……? 無理しない方が……」

「お願い、先に……行ってて……」

私は俯いたままそう言った。これ以上心配をかけたくなかったし、何よりこの状況から早く抜け出したかった。一人になれば落ち着くかもしれない。

友達たちはまだ訝しげな顔をしていたが、「うん……何かあったらすぐ呼んでね」と言い残し、次々とプールへ向かっていった。

ひとりぼっちになった更衣室で、私は崩れるようにロッカーにもたれかかった。額には冷や汗が滲んでいる。深呼吸しようとしても、吸った空気が肺の奥まで届かない。ただの水泳の授業。ここは安全なはず。そう言い聞かせても、震えは止まらなかった。

あの日の記憶は、そう簡単には消えてくれない。

「おい、芦川。どうしたー!」

更衣室の戸が開いて、榊原先生の声が響いた。どうやら私だけがまだプールサイドに来ていないことを確認しに来たらしい。

「まだ、着替えてないのか―。集合時間はとっくに過ぎているぞ」

榊原先生の声は大きいが、別に非難の色合いはない。事実を言っただけだ。それは分かっている。でも、ダメだ。

「……すみません」

私の声は震えていた。制服の胸元を必死で押さえながら、足元に落ちた水着を見つめる。これを着るということは、またあの時と同じ状況に身を置くということ。あの理不尽な世界に戻ることなのだ。そう考えると、どうしても手が動かない。

「……き、着替えられないんです」

そう言いながら、しまった、と思った。「鬼のサカキ」に何てバカなことを言ってしまったのか。こんな言い訳が通用するわけがない。梅垣先生ならきっと激昂しただろう。あの時は「具合が悪い」と言ったら、「仮病を使うな!」と怒鳴られた。「本当なんです」と訴えても信じてもらえなかった。今回も、きっと……。

恐る恐る顔を上げると、榊原先生は腕を組んだまま、しばらく黙って私を見つめていた。怒っているのだろうか。それとも呆れているのだろうか。でも、返ってきた言葉は意外なものだった。

「そうか……わかった。とりあえず、保健室で休んでいろ」

榊原先生の口調はあっさりとしていた。特に気にしている風でもない。それが逆に、今の私にとっては救いのように感じられた。これ以上何も言われないなら、それでいい。

「……ありがとうございます」

小さく頭を下げて、私は保健室へ向かおうとした。しかし、榊原先生は私を引き留めるように、静かに言った。

「一人で行けるか? 付き添おうか?」

その声には、どこか気遣う響きがあった。これまでの先生への印象とは少し違う。いや、今まで見てこなかっただけかもしれない。

「いえ……大丈夫です」

「わかった。無理するなよ」

そう言うと榊原先生は、私の肩をポンと軽く叩いてくれた。その動作があまりにも自然すぎて、一瞬何が起こったのか分からなかった。ただ、触れられた肩からじんわりと温かい何かが伝わってくるような気がした。

「保健室の先生には電話で事情を伝えておく。あたしも早く付き添ってやりたいが」

榊原先生は少し困ったように眉を寄せた。

「この後も授業が二時間続く。遅くはなるが、必ず行くから待っていろ」

その言葉は、必要以上の詮索も同情もない、極めて実務的なものだった。そこに込められたわずかな気遣いを感じ取れたのは、榊原先生がいつも生徒に向ける率直で飾り気のない態度を知っていたからだろう。その簡潔さが、今の私には何よりもありがたかった。下手に慰められたり、心配されたりするよりも。

「はい……」

私は小さく頷いた。榊原先生はもう一度軽く私の肩を叩くと、颯爽と更衣室を後にした。その背中を見送りながら、私はようやく大きく息を吐いた。緊張で凝り固まっていた全身から力が抜けていく。制服のボタンを震える指で一つ一つ留め直し、持参したタオルと水着を袋に詰め直すと、重い足取りで保健室へと向かった。


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