秘密の決算報告
やがて暦は11月も終わりに近づき、朝晩の冷え込みが一段と厳しくなってきた頃だった。
あたしは体育教官室で午後の授業の準備をしながら、その日も特に期待せず社会面を眺めていた。地元の政治家の汚職疑惑の続報や、交通事故のニュースが並ぶ中で、ふと一つの小さな記事が目に留まった。
それは社会面の片隅にひっそりと掲載された、ほんの数行の短い記事だった。
その記事のタイトルは以下の通りだった。
私立校の教諭、不正行為で懲戒免職
××県城北市内にある私立女子校において、38歳の女性教諭が10月31日付で懲戒免職処分となったことが明らかになった。
学校側の発表によると、この教諭は保健体育が専門で、過去5年間にわたり、担当していた部活動の部費や学校費など、合計10万円を私的に流用していたとのことである。
学校の経理監査で不審な点が見つかったことから調査が開始され、詳細な調査の結果、不正流用の事実が判明した。さらに調査の過程で、当該教諭が顧問をしている部活動の生徒保護者から、複数回にわたって不正に物品を受け取っていたことも明らかになった。
学校側は、「生徒および保護者の皆様の信頼を著しく損なう行為であり、深くお詫び申し上げます。今後は、再発防止に向けて管理体制を強化し、教職員一同、教育活動に真摯に取り組んで参ります」とのコメントを発表した。
「ふーん」
あたしは新聞から顔を上げ、小さく呟いた。ほとんどの人が気にも留めないし何も思わないような記事だ。社会面の端っこで埃を被っているような扱い。まるでスペースがあいたから無理やり詰め込まれたかのような場違い感がある。
だが。あたしの頭の中では違った意味合いが走る。
××県城北市内にある私立女子校。
一つしかない。芦川のいた多香美女子校だ。
38歳の保健体育の女性教諭。
思い浮かぶ人間は一人しかいない。梅垣佳恵だ。
5年で10万? 笑わせる。少ない額だ。部活動の保護者から物品をもらうというのも、よくあること。お菓子や果物程度ならお礼の範疇で済まされる。梅垣の日常茶飯事だろう。それをわざわざ問題にした。
どうやら学校側は、不都合な真実を隠蔽するために、軽い罪をでっち上げたのだ。そして保護者や関係者に対して「誠意を示すため」と称して、最も重い処分である「懲戒免職」を適用することで幕引きを図った。
(なるほどな)
あたしはグラスに残っていたコーヒーを啜る。
学校側の狙いは明白だ。「不正行為」という分かりやすい罪状で本人を処分し、同時に「管理体制の強化」というお題目を掲げる。これにより世間への説明責任は果たしたつもりなのだろう。実際、この小さな記事だけを見れば「ああ、そういう悪い人もいるのね」で済まされてしまう。深掘りされないから都合がいい。些細な不正でも厳しく対処するというポーズを取れば、保護者や地域住民への言い訳になる。
学校名も処分された教師の名前も出てはいない。これは学校側が新聞社に働きかけて、あえて出さないようにしたのだろう。「私立女子校」としか書かれていないのはそのためだ。
(結局、学校にとって大事なのは『梅垣佳恵』という人物よりも『多香美女子校』というブランドなんだな)
あたしは苦笑いを浮かべた。彼らにとっては顧問ひとりの人格などどうでもいい。その顧問が引き起こした問題や不祥事が学校の評判を傷つけない限りは。そして今回は「小さな不正」という体裁でケリをつけられたことで満足しているのだ。梅垣個人がどれほどの悪徳を積み重ねてきたかは考慮されていない。彼女は単に「処理すべき不備」として扱われただけだ。
一方で。
(さすがは中野だ)
あたしの頭にはあの穏やかな笑顔が浮かぶ。彼女が仕掛けた罠は、こうして効果を現した。しかも、芦川、梅垣双方にとって、最も良い形で。芦川からすれば、自分の嫌な過去とは全く関係ない形で顧問の処分が行われたことになる。あたしが記事の詳細を知り得たのも偶然の産物だし、そもそもこの小さな記事を目にすること自体が稀だ。芦川がこれを見て梅垣のことだとは気づいても、まさかあの「仏の中野先生」が裏で糸を引いていたなどとは夢にも思うまい。彼女が嫌な思いをしなくて済むのはよかった。
梅垣のほうは……きっと骨身に染みるだろうな。学校側からこうも簡単に切り捨てられることの辛さ。これまで築き上げてきたであろう地位や権威が、いとも容易く崩れ去る恐怖。ましてや「部費を10万ちょろまかした」なんて三文芝居みたいな罪状で、言い渡されたのは懲戒免職。どんな気分だろうな。学校はお前のことを心底必要としていたわけではないと突きつけられ、しかも自分たちの被害は最小限に抑えられる形でお払い箱にされたのだから。
あたしは記事をもう一度眺める。そこに滲み出る学校の「保身」を想像すると、なんともいえない苦味が胸に広がった。
ちょうどその時、カチャリと扉が開いた。
「榊原先生、ご機嫌ですね。何か、面白い記事でもあったのですか」
中野紗耶香だ。今日も相変わらずの笑顔だ。あたしはその新聞記事をしたら、
「おや、まあ、横領と不正受給だなんて、よくない教員もいるもんですねえ。……あら、懲戒免職ですか、これからが大変ですね――学校は。今から新しい先生を探そうにも、苦労することでしょうし。この時期はどこも決まっていますから」
彼女は記事を流し見しながら、暢気にそう言った。その口調には同情も軽蔑も含まれておらず、単なる事実認識のように響く。まるで他人事だ。それにしても、辞めさせられた教師ではなく、学校のことを心配しているあたりがまた……なんというか。この笑顔は果たして、不動明王のものなのか、大日如来のものなのか。
「……中野先生こそ今年は高3で大変だったでしょう。特に夏休み前後のあたりは」
あたしは中野の方を見た。わざと探るような視線を投げる。
「まあ、確かに、今年は高3の進路ために大学の説明会にはたびたび行きましたし、美術部の全国展示も重なりましたし、学会のほうも、忙しくなりましたが……、でも、これもすべて大切な生徒のため、と思えば、そんなに大変とも思いませんでしたよ」
中野はいつもの柔らかい笑みを浮かべながら答える。まるで本当に何事もなかったかのように、ごく自然に夏の記憶を振り返っているだけだ。声のトーンも普段と変わらない。いやむしろ、どこか余裕さえ感じさせる。まあ何を聞いてもしらばくれるから、これ以上は聞いても無駄だ。あたしはカップに残っていたコーヒーを一気に飲み干した。
窓の外では、落ち葉が舞い散るのが見える。秋も深まり、冬の足音が近づいてきている。
勿論、全て終わったわけではない。だが、少なくとも芦川にとっては、ひとつの重荷が取り除かれたことは確かだった。




