光へ向かう季節へ
新しい学校に来て早いもので、もう半年以上過ぎた。
今は秋。季節が移り変わる。それはこの世界の変わらないリズムなのかもしれない。
高校に入ってからというもの、私はようやく「自由」というものがどういうものかを少しずつ理解できるようになっていた。あの学校がいかに狭い世界で、いかに歪んだ価値観で支配されていたかを痛感する毎日だ。今いるこの高校には、多様な個性を持つ人たちがいて、それぞれが尊重されている。
先生たちもそうだ。天文部の村野瀬先生に、担任の吉岡先生、他にもいろんな先生方がいる。特に体育の榊原先生は、「鬼」と呼ばれることもあるが、本当は生徒一人ひとりのことを見てくれているのを知っている。佐藤だってそう。彼は相変わらずおっちょこちょいだけれど、いつもまっすぐに私に接してくれる。彼と一緒にいると不思議と安心できるのだ。ここには私を傷つける人はいない。そんな当たり前のことが、どれだけ幸せなことか。
今、私は天文部で月齢を調べるためにここ最近の新聞を広げていた。ふと社会面の小さな記事が目に入る。
『私立校の教諭、不正行為で懲戒免職』
数日前の新聞記事だ。隅の小さな記事で、その日の新聞を読んだときは、見落としていた。読んでみると、城北市内にある私立女子校で起きた事件だという。懲戒免職になったのは38歳の女性体育教師。氏名は記載されていない。部費や学校費の私的流用、複数の保護者からの物品の不正受給……。読めば読むほど、特定の人物像が脳裏に浮かび上がる。
梅垣先生だ。
心臓が嫌な音を立てて跳ね上がった。
あの人の顔が、冷酷な瞳が、耳障りな声が蘇ってくる。入学してしばらくは、その名前を聞くだけで身体が硬直したものだった。彼女は私を潰した人だ。彼女の支配から逃れても、その影はいつまでも付き纏ってくる。この新しい高校にいる限り安全だと思っていた。でも時々思うのだ。もし、あの人が……私を探し出したら? もしあの学校の闇が、私を追いかけてきたら?
怖かった。
それに、後ろ髪を引かれる思いもあった。あの学校に残してきた後輩たちのことだ。彼女たちも私と同じように苦しんでいるのではないか。梅垣先生の餌食になっているのではないか。
「先輩、あの時、かばってくださったのに、何もできなくてごめんなさい。新しい高校で幸せになってください。私は大丈夫ですから」
私の卒業式の時、唯一、もらったメッセージ。後輩が、急いで書いたメッセージ。「何もできなくてごめんなさい」は私のほうだ。「私は大丈夫ですから」なんて嘘に決まっている。
新聞記事にもう一度、目をやる。
懲戒免職。
そんなこと、あるはずがないと思った。あの人が、あの梅垣先生が、学校に必要とされていないなんて。あの学校での彼女の影響力は絶大だったはずだ。誰もが彼女の言いなりだった。いや……違うのか。
この記事が本当なら、あの人はもう学校にはいない。学校も彼女を必要としていなかったのかもしれない。そう思うと少しホッとしたような……いや、複雑な気持ちだ。自分が逃げ出した後も、彼女の魔の手から他の生徒たちが救われるか心配していた。でも、これで少しはあの学校の空気が変わるのだろうか。
窓の外を見上げた。秋の空は高く澄んでいて、どこまでも遠くへ行きたい気持ちにさせられる。
私は深呼吸をひとつして立ち上がった。何かしていないと落ち着かない。
とりあえず榊原先生に相談しよう思った。先生にはこの高校に来た時の事情も、すべて包み隠さず話していた。この学校を選んだ理由も。
体育教官室のドアをノックし、「失礼します」と声をかける。榊原先生はデスクに向かって何か書類を書いていたようだが、すぐに顔を上げた。
「おお、芦川か。どうした?」
私は少し緊張しながら、手に持っていた新聞を差し出した。その小さな記事を指さす。
「……先生。これ……」
榊原先生は眉ひとつ動かさずに新聞を受け取り、記事に目を通した。その表情はまったく変わらない。まるで昨日の天気予報でも見るかのように淡々としている。
「……ああ、これか」
先生は新聞をデスクに置き、ペンを弄びながら私に視線を戻した。
「読んだぞ。どこの誰だか知らないけれど、世の中には、あたしと違って不心得な教師もいるからなあ。困ったものだ」
先生は冗談めかして言っている。その声音にはまったく深刻さが感じられない。まるで自分に直接関係ない芸能人のスキャンダルの話でもするみたいだ。
「……懲戒免職って」
私はぽつりと言った。
「先生は……あまり驚かれないんですか?」
榊原先生は少し首をかしげた。
「そりゃあね。記事の内容が小さいし、学校も先生も名前は出ていない。誰のことを言っているのか分からないものにいちいち驚いてたら疲れちゃうだろ?」
そして続けた。
「ただな、懲戒免職という処分は重いぞ。これは解雇とか停職とかとはわけが違う。教員資格剥奪にはならないから法的には教員になろうと思えばなれる。だがな……世間の目というのはそういうものじゃない」
榊原先生の目が真剣になった。
「一度でも『懲戒免職』という烙印が押された人間を、公立校はもちろん私立が積極的に採用すると思うか? 特に強豪校の部活動で名を馳せていたら、尚更だ。競技の世界は狭いし、情報もすぐ回る。過去が知られて『うちには向いてない』と言われるのがオチだ。それに……」
先生はちらりと記事に目を落とす。
「いくら少額でもな。金をちょろまかしたなんて噂が立ったら、まともな大人は二度と信用してくれないよ。ましてやスポーツの世界では『清廉潔白であること』が求められるからな。たとえそれが冤罪でも、一度『疑い』を持たれたら最後だ。人間不信にもつながる」
「そうなんですか……」
私は俯いた。記事に書かれている額は10万円程度。私の知っている彼女が、それだけで満足していたとはとても思えない。もっと多くのものを搾取していたはずだ。むしろこの額は、あまりにも小さすぎる。
「この記事では、部費の流用が10万円程度で、後は保護者から物品をもらっただけみたいに書いてありますけど……本当はもっとひどいことをしてたんじゃないかって思うんです」
私の言葉に、榊原先生は小さく鼻を鳴らした。
「そうさ。世間も、そう思うだろうよ。だから、その教師は、再び日の目を見ることはないだろう。金を盗む奴に待っているのは、地獄だけだ」
榊原先生の言葉は簡潔で重い。
「それに……この学校の『調べ』が終わったってことは……彼女はもう学校にはいないんですよね」
「だろうな。でなければ記事になんかならない。公に発表したってことは、学校も『一件落着』ってことさ。これ以上、調査も追求もしないという宣言でもある」
私は先生の言葉をゆっくりと噛みしめた。つまり……本当に終わったのだ。あの人の支配は。
「まあ……あとは勝手にするだろうさ」
先生はまた新聞を手に取り私に渡した。まるでこの話はこれで終わりだという合図のようだ。
「芦川。お前が気にすることじゃない。この記事に出てくるのは、どこかの誰かさんだ。お前とは無関係の人間だ」
先生の目は、まるで遠い昔の出来事を語るかのように虚空を見つめている。それは、私にあの出来事はもう過去のものだと言い聞かせようとしているようにも聞こえた。そうだ。過去だ。私の新しい生活が始まってからもう半年以上過ぎた。彼女はもういない。それなら……。
「……わかりました」
私は小さく頷いた。先生はうなずき、もう一度私を見た。その顔にはいつもの鋭さの中に、わずかながら温かみが宿っていたように見えた。
「それじゃあ、今日はもう帰れよ。外も暗くなってきたしな」
「はい。ありがとうございました」
私は深く頭を下げて体育教官室を後にした。
体育教官室を出て、私はふぅっと小さく息を吐き出した。廊下には夕方の柔らかな光が差し込んでいて、窓の外では木々が赤や黄色に色づいている。晩秋の静かな空気が心地よい。
歩きながら、頭の中ではまだ榊原先生との会話がぐるぐると巡っていた。
(……あれほどひどいことを私にした人間が……こんなにもあっさりと?)
あの人の冷たい眼差しや、嘲笑う声、そして私を貶めるために繰り出された卑劣な手段の数々。どれも鮮明に思い出せる。それなのに……その張本人が、こうもあっさりと消えてしまった。しかも、私には全く関係のない形で。
信じられない気持ちと、どこか安堵する気持ちが入り混じっている。心の奥にずっと刺さっていた棘が、ほんの少しだけ抜け落ちたような感覚。
(……これで……終わったの?)
本当に?
でも、一つの区切りはついたのかもしれない。もう彼女はこの世界にはいない。少なくとも、あの学校のあの教壇にはいない。そう思うと、肩の力が少し抜けるのを感じた。
私は校舎の階段をゆっくりと下りていく。窓から見える空はどこまでも高く澄み渡っていて、遠くの山々の稜線がくっきりと見える。
明後日は観測会がある。天体望遠鏡を担いで行くのは大変だけど、楽しみだ。週末には鈴木さんや高畑さんたちと遊びに行く約束もある。
それから、これは、ちょっと先だけど――春になったら。
水泳の補習。
やってみようかなと思う。今度、榊原先生に頼んでみよう。私も、ちょっとは前に進みたいんだ。
校庭に出ると、ひんやりとした風が頬を撫でていった。紅葉したイチョウの葉がはらはらと舞い落ちてくる。空は茜色に染まり始めていた。
私はその一枚をそっと拾い上げる。綺麗な黄金色だ。
あの人はもういない。それは変えようのない事実。そして私は前に進むしかない。
ゆっくりと歩き出す。その一歩はまだぎこちないけれど。
私は、自分の人生を歩んでいく。
もうあの人に囚われることはない。
私は背筋を伸ばし、まっすぐ前を見つめて歩き始めた。
夕焼けに照らされた校庭は、どこまでも広く感じられた。新しい季節がもうすぐ来る。それはきっと、私のこれからの人生にとって、希望の季節だ。そう信じたい。
(完)




