降伏の洗礼
「そうだ」
低く抑揚のない梅垣先生の声には有無を言わせぬ威圧感があった。
「お前が着ているその水着を脱げ。スイムキャップはかぶったままでいい。それは許してやる」
私の頭が真っ白になった。
「え……いえ、その……」
「聞こえなかったのか? 水着を脱げと言ったんだ」
周囲からは小さなざわめきが漏れた。みんな目を逸らしたり、互いにちらちら視線を交わしたりしている。
「それは……!」
「芦川」
先生がもう一歩、私に近づいてくる。
「別にお前が悪いと思わないのなら、脱がなくてもよい。その代わり委員長として、今回の不始末の責任者を挙げるんだ。そいつに責任をとらせればいい」
その言葉に思わず体が凍り付く。周囲の生徒たちが目を伏せる。誰も顔を上げない。当たり前だ。誰だって巻き込まれたくない。私だって逆の立場ならそうする。
でも――。
倒れた子は悪くない。手伝っていた子たちも悪くない。遅れた原因を作ったわけじゃない。ここで誰かの名前を言えば、その子が私の代わりになる。でも、それはしたくなかった。
長い長い沈黙が続く。誰も何も言わない。音一つ発しない——。
「……分かりました。悪いのは私です……」
ようやく私は、喉の奥から絞り出すように言った。
「そうか。よろしい。それなら、芦川、早くしろ!」
梅垣先生はぴしゃりと言った。
私は震える手で水着の縁に触れた。指先がかじかむほど冷たかった。周囲の視線を感じながらゆっくりと肩紐を下ろしていく。プールサイドは静寂に包まれていた。布地が肌に擦れる音が妙に大きく聞こえる。胸元が露わになりかけると、反射的に両腕で胸を覆った。
「早くしろっ!」
先生の怒号が飛ぶ。私はやむを得ず布地を引き下げる。腰回りが軽くなり、脚を通して最後の部分を取り去った。私は必死に両腕で身体を抱きしめるように覆った。濡れた水着が重たく足元に落ちる。
「これで、いいですか?」
私が震える声で尋ねると、梅垣先生は冷ややかな笑みを浮かべた。
「まだだ。プールに入れ。そして泳ぐんだ。まずは平泳ぎ、二往復、計二百メートルだ」
周囲からどよめきが起こった。そんなことまでさせるのか、という視線が集まる。けれど、もう引き返せなかった。
私は唇を噛みしめ、震える足でプールへ向かった。水に触れた瞬間、冷たさが全身に広がった。泳ぎ慣れているはずの水が、今は私を閉じ込める檻のように感じられた。
平泳ぎを終えた時、私は息を切らしながら壁にしがみついた。これで終わった。そう思いたかった。
「なんだ、その泳ぎ方は。足がちゃんと動いていなかったぞ。もう一度、やり直せ」
血の気が引いた。それでも逆らえなかった。私は再び水の中へ進んだ。腕を回すたびに体力が削られていく。息継ぎをするたび、プールサイドの人影が目に入った。誰も助けてくれない。誰も止めてくれない。ただ黙って見ている。
再び平泳ぎ二往復を終えた時には、もう立っていられなかった。水の中で膝をつき、震える手でプールサイドにすがりつく。
今度こそ上がれる。そう思った瞬間だった。
「何を休んでいる。次は背泳ぎ二往復だ」
その言葉が私の胸にナイフのように突き刺さった。背泳ぎ、仰向けの姿勢になる。この無防備な身体を、梅垣先生とクラスメイトたちの視線に晒しながら。そんなことができるわけない。体は震えるばかりだ。
「無理です……もう……できません……」
絞り出すような声で訴えた。しかし先生は容赦ない。
「できないだと?」
先生の口元は笑っているようだが、目は鋭く私を見据えている。
「お前はさっき『分かりました』と言ったな。委員長として責任を取るんだろ。委員長で、水泳部のトップでありながら、途中で投げ出すのか」
「でも……もう、やめてください……」
「甘ったれるな!」
大きく鋭い声が響いた。プールの水面がその声で微かに波打った気がする。
「水泳部に入部した時、お前は、私の前で誓ったはずだ。『どんなこともあきらめずに最後まで取り組みます』と」
中学一年生の時の入部式。そうだった。確かに私は水泳部の新入部員代表として壇上に立ち、そう宣言した。あの時の清々しい決意が、今は皮肉な枷となって私を縛り付ける。
「思い出したか?」
梅垣先生が嘲笑うように言った。
「そんな……」
私は歯を食いしばった。
「水泳部員としての誇りがあるんだろ? それを見せろ」
涙が溢れそうになる。プライド? 今の私のどこにそんなものがあるというのか。ただ命令されるままに、周囲の視線に晒されながら耐え忍ぶだけ。これが「水泳部員の誇り」というのか?
「分かりました……」
か細い声で答えるしかなかった。背泳ぎの姿勢に入るために水面に浮かび上がる。息を整えようとしても震えが止まらない。肺が酸素を求めて激しく脈打っている。体の芯から冷えが広がり、筋肉が硬直していく。
「五メートルごとに報告を入れろ」
と先生が命じた。
一メートルずつ、頭の中で数えながら必死に水を掻く。仰向けになると天地が逆さまに見え、遠くの空と近くの水面が混ざり合う。この不安定な状態で泳ぐというのは、想像以上に体力を消耗する。しかも裸だ。胸や下腹部の曲線が水の抵抗を受け、微妙に歪んでいるのがわかる。それがどれほど異様で醜いか……考えたくもない。
「五メートル……!」
プールサイドに立つ先生に聞こえるように、何とか大きな声を出す。水の重みが首筋にかかり、呼吸が浅くなる。目の端に映るプールサイドの人影。梅垣先生はもちろん、クラスメイトたちもみんなこちらを見ている。誰も何も言わない。ただ黙って観察しているだけ。その無言の圧力が一番辛い。
「五十メートル到達。……ターンします」
壁を蹴り、再び仰向けになる。そこから先は、ただ耐える時間だった。五メートルごとに報告しながら泳ぎ続ける。
腕は重くなり、脚は痙攣し始める。息は乱れ、視界は滲む。それでも止まることは許されない。
プールサイドでは相変わらず誰も何も言わなかった。ただ、私を見ているだけだった。
「百メートル到達……ターンします」
二度目のターンで壁に触れた瞬間、全身から力が抜けそうになった。だが、それでもようやく半分だ。肩で息をしながら、また五メートルごとに報告を続ける。喉は焼けるように乾き、腕も脚も思うように動かない。それでも止まることは許されなかった。
水を掻く。ただ、それだけを繰り返す。
そして――。
ようやく四度目のスタート台が目の前に現れた。
「二百メートル……到着しました……」
プールサイドに片手を伸ばし、全身の体重を預けるようにして縁に必死にしがみついた。
「まあ、いいだろう。よし、上がっていいぞ」
梅垣先生は満足そうな笑みを浮かべて告げた。私は恐る恐るプールから上がり、プールサイドの隅に立つ。手で胸の部分と前の部分を覆う。
先生はプールサイドに立つ生徒たちを見渡しながら言った。
「みんな、ちゃんと見たか。これが芦川の泳ぎだ。平泳ぎでは脚をしっかり伸ばしていた。無駄な力が入っていない。背泳ぎも身体の軸がぶれていなかった。こうして、実際に泳いでいるのを見ると、よく分かるだろう」
それから軽く時計のほうに目をやると、
「さて、もう時間だな。今日はこれで終了にしよう」
授業の終わりのチャイムが鳴った。先生は生徒を整列させ、挨拶をさせると、そのまま去っていった。
クラスメイトたちも、静かに立ち去っていく。誰も、私と顔を合わせないようにする。
私は、一人、プールサイドに立ち尽くしていた。寒さと羞恥心で震えが止まらない。水滴が体を伝って落ちていく。目の前の景色がぼやけていく。涙があふれ出た。誰もいなくなったプールサイドで私はうずくまり、声をあげて泣いた。




