降伏の洗礼
「そうだ」
梅垣先生の声は低く落ち着いているが、有無を言わせぬ威圧感があった。
「お前が着ているその水着を脱げ。ただしスイムキャップはかぶったままでいい。特別扱いだ」
私の頭が真っ白になった。
「え……いえ、その……」
「聞こえなかったのか? 水着を脱げと言ったんだ」
周囲からは小さなざわめきが漏れた。みんな目を逸らしたり、互いにちらちら視線を交わしたりしている。
「そんな……先生……!」
「芦川」梅垣先生が一歩近づき、私の肩を掴んだ。指が食い込むほど強く。「お前は委員長だぞ? それに水泳部のエースでもある。他の生徒のお手本となるべき存在だ。今こそその『範』を見せる時じゃないのか?」
「範……」
「そうだ。自分の不始末を認めて正直に謝るのは当然だ。その上で、行動で示すのも必要だと思わないか?」
先生の目に炎が宿っていた。いや、これは燃え尽きた灰のような冷たい輝きか。
「ですが……その……」
「できないと言うのか? 委員長の責務から逃げるつもりか?」
「いえ、そういうわけじゃ……」
「じゃあやるんだ。ここで脱ぐんだ。だが、今回の不始末の原因が自分ではないと思うのなら、委員長として公平な判断をするがいい。その原因となった人物の名前を挙げればいい。そいつにここで責任を取ってもらうだけだ」
私は目を閉じた。瞼の裏にクラスメイト達の顔が次々と浮かぶ。あの子もダメだ。この子も傷つく。結局誰にも押し付けられない。誰にもこんな恥辱を受けさせたくない。
「……わかりました」
喉の奥から絞り出すような声だった。
「わかったなら早い。早く脱げ。時間がもったいないぞ!」
私は震える手で水着の縁に触れた。指先がかじかむほど冷たかった。周囲の視線を感じながらゆっくりと肩紐を下ろしていく。プールサイドは静寂に包まれていた。布地が肌に擦れる音が妙に大きく聞こえる。胸元が露わになりかけると、反射的に両腕で胸を覆った。
「そこで止まるな」
梅垣先生がぴしゃりと言い放つ。
「全部脱ぐんだ」
「はい……」
さらに布地を引き下げる。腰回りが軽くなり、脚を通して最後の部分を取り去った。私は必死に両腕で身体を抱きしめるように覆った。濡れた水着が重たく足元に落ちる。
「これでいいですか?」
私が震える声で尋ねると、梅垣先生は冷ややかな笑みを浮かべた。
「まだだ。プールに入れ。そして、泳ぐんだ。まずは……平泳ぎだ。往復100mをな」
周囲から再びどよめきが起こった。そんなことできるわけがないという目が集まっている。しかし、今更引き返すことなどできなかった。私はプールサイドに立ち尽くし、水面を見つめていた。その冷たい水が見えるだけで身体が震える。
「早く入れ。水泳部のお前の泳ぎを手本として見せてやるんだ」
梅垣先生の言葉が私に浴びせられる。私は唇を噛みしめながらも、ゆっくりとプールへと足を進めた。
足が水面に触れ、徐々に体全体が水に沈んでいく感覚に身震いした。水温は予想以上に冷たく、全身の体温が奪われていくようだった。それでも私はなんとか泳ぎ始める。周囲の視線が肌に突き刺さる中、必死に平泳ぎを続ける。
どうにか泳ぎ切った後、息切れしながら水面から顔を出した。身体は冷え切り、全身に鳥肌が立っていた。それでもなんとかやり遂げたと思った瞬間だった。
「まだだ!」
梅垣先生の声が飛んできた。私は思わず振り返り、彼女の冷酷な表情を見る。
「次はクロールだ! 2往復してこい!」
その言葉に全身の血の気が引くような感覚を覚えた。しかし逆らえばどうなるか分からず、私は再び泳ぎ始めた。息を継ぎながら進むたびに視界がぼやけ、精神的にも肉体的にも限界を迎えていた。周囲からは同情の視線と共に、何とも言えない緊張感が漂っていた。だが誰一人として助け舟を出してくれる者はいなかった。
やっとのことで2往復を終えた時、私はもう立っていられず、水の中で膝をついてしまった。体は痙攣し、震える手足でなんとかプールサイドへ這い上がろうとした。
「今度は背泳2往復だ。まだやれるだろう?」
その言葉が死刑宣告のように感じられた。背泳ぎ。つまり、仰向けで泳ぐということだ。この無防備な身体を、梅垣先生とクラスメイトたちの視線に晒しながら。そんなことができるわけない。そう思った瞬間、震えが止まらなくなった。
「無理です……もう……できません……」
絞り出すような声で訴えた。しかし梅垣先生は冷たく言い放った。
「できないだと?」
梅垣先生が眉を吊り上げた。その顔には期待通りの展開に喜びさえ浮かんでいるように見えた。
「お前はさっき『わかりました』と言ったな。委員長として責任を取ると決めたんじゃないのか。途中で投げ出すなど、それこそ規律違反じゃないか」
「でも……本当に体が……」
「甘ったれるな!」
雷のような叱咤が飛び、私は縮み上がった。プールの水面がその声で微かに波打った気がする。
「水泳部に入部した時、みんなの前で誓ったんだろう。『どんなこともあきらめずに最後まで取り組みます』と」
中学一年生の時の入部式。そうだった。確かに私は水泳部の新入部員代表として壇上に立ち、そう宣言した。あの日の清々しい決意が今は皮肉な枷となって私を縛り付ける。
「思い出したか?」
梅垣先生が嘲笑うように言った。
「そんな……」
私は歯を食いしばった。
「水泳部員としての誇りがあるんだろ? それを見せろ」
涙が溢れそうになる。プライド? 今の私のどこにそんなものがあるというのか。ただ命令されるがままに裸で泳ぎ、羞恥と恐怖に打ち震えながら耐え忍ぶだけ。これが私の知る「水泳部員の誇り」なのか?
「わかりました……」
か細い声で答えるしかなかった。背泳ぎの姿勢に入るために水面に浮かび上がる。息を整えようとしても震えが止まらない。肺が酸素を求めて激しく脈打っている。体の芯から冷えが広がり、筋肉が硬直していく。
「5メートルごとに報告を入れろ」
と先生が命じた。
「1メートル……2メートル……3メートル……」
数えながら必死に水を掻く。仰向けになると天地が逆さまに見え、遠くの空と近くの水面が混ざり合う。この不安定な状態で泳ぐというのは、想像以上に体力を消耗する。しかも裸だ。胸や下腹部の曲線が水の抵抗を受け、微妙に歪んでいるのがわかる。それがどれほど異様で醜いか……考えたくもない。
「4メートル……5メートル……」
声を出すだけで喉が乾く。水の重みが首筋にかかり、呼吸が浅くなる。目の端に映るプールサイドの人影。梅垣先生はもちろん、クラスメイトたちもみんなこちらを見ている。誰も何も言わない。ただ黙って観察しているだけ。その無言の圧力が一番辛い。
「6メートル……7メートル……」
背筋が弓なりに伸びているのがわかる。乳首が水面に出たり消えたりするたびに、奇妙な感覚が走る。脚が自然と開き気味になっていることに気づき、慌てて内股を寄せようとすると余計にバランスを崩した。
「8メートル……9メートル……」
ターン地点が見えてきた。そこまで行けばUターンできる。少し休める。ほんの少しだけ。壁に手をつき体を支える時間だけは許されている。問題はその後だ。再びスタートしなければならない。あの恐ろしい姿勢で25メートルを泳ぎ切るなんて……。
「10メートル到達……ターンします」
水中で身体をひねり、壁を蹴る。冷たい水が背中を滑り落ちる感触。すぐに次のストロークが始まる。仰向けに戻り、また同じ羞恥心との闘い。
「11メートル……12メートル……」
今度は逆方向に進むため、視界に入るのはプールサイドではなく天井と換気口。でもそれが慰めになるわけではない。むしろ視線の方向が変わっただけで、注目されている事実は同じだ。
「13メートル……14メートル……」
息が続かない。鼻から微かに水が入り、ツンとした痛みが走る。それでも続けなければならない。2往復。あと半分もある。
「15メートル……16メートル……」
左腕がつりそうな感覚。右脚がガクガクし始めた。全身の筋肉が悲鳴を上げている。もう無理だ。もう止めたい。でも言えない。そんなことを言えばどうなるか。あの冷酷な微笑みが蘇る。きっとまた別の罰を与えられるに違いない。
「17メートル……18メートル……」
喉が渇き、唇が切れそうになる。視界が滲んできた。涙なのか汗なのかわからない液体が目に入る。まばたきのたびに瞳孔が収縮し、周囲の光景が二重三重に見える。
「19メートル……20メートル到達……ターンします」
二度目のターン。壁に手を当てた瞬間、体中の力が抜けそうになる。肩が上下し、呼吸が荒くなる。心臓が破裂しそうだ。ここまで来てまだ終わっていないなんて信じられない。
「はぁ……はぁ……続きを泳ぎます……」
もう数えられない。数字が頭に入ってこない。意識が朦朧としてくる。ただ泳ぎ続けることだけを考えよう。最後まで諦めない。水泳部員としての矜持か。それとも単なる自己保身か。もはや区別できない。
「21メートル……22メートル……」
脚の動きが鈍くなってきた。足先が攣りそうになっている。それでも動かさなければ進まない。水の抵抗は容赦なく私を押さえつけ、疲れ果てた筋肉からは簡単に力を奪っていく。
「23メートル……24メートル……」
プールの終わりが見えてきた。ラストスパート。いや違う。もうターンはない。ゴール地点に辿り着けば……
「25メートル……到着しました!」
プールサイドに片手を伸ばし、全身の体重を預けるようにして縁にしがみつく。脚がガクガクと震え、うまく立っていられない。水滴がぽたぽたと滴り落ちる中、梅垣先生の方を見る勇気はなかった。
「芦川、よくやった」
梅垣先生の声がする。顔を上げると、彼女は満足そうな笑みを浮かべていた。
「みんなも芦川の泳ぎを見たか。あれが模範的な姿勢だ。あの誠実さと努力する姿を忘れるな。ささあ、今日はあとは自主練習をしろ」
先生はプールから上がり、その場を離れていった。クラスメイトたちも、静かに立ち去っていく。誰も、私に顔を合わせないようにする。
私は、一人、プールサイドに立ち尽くしていた。寒さと羞恥心で震えが止まらない。水滴が体を伝って落ちていく。涙が止まらなかった。




