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水面の影と光  作者: 与一
第2章 ある先輩と後輩について
14/21

梅垣佳恵の本性

「ところで先輩。その、梅垣についてなのですが……」

「うん?」

「競泳界隈での梅垣先生の水泳指導者としての評価はどうなんでしょうか? 」

その質問に、あたしはわずかに眉を寄せた。

「中野、お前、日本水泳教育学会の役員だったよな。その辺りの情報はないのか?」

 実のところ、今日、中野に話したのも、彼女なら何か梅垣に関して情報を持っているかと思ったからだった。

「それがですね……」

中野は少し困ったように苦笑した。

「学会はどちらかというとレクリエーションや教育学的アプローチ、あるいは学術的な研究が中心でして……競技水泳、特に中高生年代での実践的な指導論になると、少し畑違いなんです。もちろん、競技指導者との交流もありますし、情報収集も行っていますが、やはり専門は違うんですよね」

なるほど、そういうことか。中野は水泳の指導技術や生理学的な知識には非常に詳しいが、全国区のトップ競技者の育成に関わるような世界観とは少し距離があるということだ。あたしも競泳の世界には詳しくない。

「そうか。まあ仕方ないな」

「でも、先輩は、すでに何か情報を掴んでいるんですよね?……」

中野が促す。あたしは椅子に深く座り直した。

「ああ。梅垣の件だがな……」

あたしは鞄の中から1冊の雑誌を取り出した。表紙には競泳に関連する写真と文字が踊っている。全国のクラブや強豪校の活動報告などが掲載される季刊誌だ。発行されたのは去年の春ごろ。中3の芦川が急下降する直前だ。あたしは、あるページを開いて中野に示した。

「……この記事を見てくれ」

そこには、「躍進! 多香美女子中学水泳部」の見出しと共に、若い女性コーチがカメラに向かって笑顔でVサインを送る写真が載っていた。その横に添えられたキャプションには、「梅垣佳恵先生(38歳・多香美女子中学水泳部顧問)」と書かれている。記事は梅垣の指導哲学を紹介するものだった。

「……この記事を見てくれ」

そこには、「躍進! 多香美女子中学水泳部」の見出しと共に、若い女性コーチがカメラに向かって笑顔でVサインを送る写真が載っていた。その横に添えられたキャプションには、「梅垣佳恵先生(多香美女子中学水泳部顧問)」と書かれている。記事は梅垣の指導哲学を紹介するものだった。

「選手の才能を最大限に引き出す指導力」「チームをまとめるカリスマ性」――。そんな褒め言葉が並び、その中で特に目を引く箇所があった。

「特に中3女子の芦川選手は、梅垣先生の熱心なマンツーマンの指導のおかげで目覚ましい成長を遂げており、今後の活躍が大いに期待できる」と書かれている。

「ちょうど芦川は梅垣に不審を募らせていた頃だ。この記事、なかなか『正確』なことを書いているじゃないか。ただ、『芦川選手』の『今後の活躍』は違ったものになったようだがな」

あたしは低く含み笑いを漏らした。

「『厳しいながらも愛情深い指導で、選手たちからも慕われている』ですか……」

中野も呆れたように呟いた。

「これが芦川さんの言う梅垣の『外面』ってわけですね。学校や外部の目にはこういう風に見せかけていたんですね」

「そうだ。学校側も保護者も『梅垣は厳しいけど良い先生』という幻想を信じ切っている。表彰状や結果という武器がある限りな」

あたしは吐き捨てるように言った。指でテーブルをコツコツと叩く。

「表向きは理想の指導者。内心では支配欲と嫉妬に狂った暴君か」

「でもこんな記事が出てしまうということは……」

中野が顔を曇らせる。

「この業界、そういう『華やかな舞台』ではこういうパフォーマンスが求められるんだよ。結果さえ出せば多少の粗は見逃される。特に女子競技の世界では、こういうドラマチックな師弟関係みたいな演出は好まれるからな」

あたしはため息をついた。

「要するに芦川は……そんな欺瞞の象徴みたいな存在だったわけですか。表向きは『優秀な弟子』として利用され、裏では徹底的に搾取される……」

「そう考えると余計に腹が立ってくるな」

あたしの声が一段と低くなる。グラスを持つ手に力が入る。ギリギリとジョッキを握りしめているのが自分でも分かる。

「この写真……」

中野はじっと睨んでいる。何かを探しているのように。そこに小さく掲載されている一枚の集合写真。プールサイドで肩を組んで笑う女子生徒たち。その端に、芦川と思われる一人の少女が写っていた。白い競泳水着に包まれた華奢な体。しかし水泳部ならではの引き締まった筋肉が見て取れる。凛とした立ち姿だが、何かがおかしい。

……その表情だ。口は一文字に引き結ばれ、目は虚ろで焦点が合っていない。他の生徒たちが心からの笑顔を見せているのに比べて、芦川のそれはまるで彫刻のようだった。楽しさも喜びも一切感じさせない、ただそこに「立たされている」だけのような印象。その隣には、満面の笑みを浮かべた女性コーチがいる。他ならぬ梅垣佳恵だった。太陽のような明るい笑顔。

「……」

中野が何も言わずに、ふとその梅垣の顔を親指と人差し指で挟み込むようにして、顔の下半分――つまり鼻から下を器用に覆い隠して見せた。まるで写真の一部分だけを切り取るように。そしてそのまま指を離さない。

「なっ……」

あたしは息を呑んだ。梅垣の顔の下半分が遮断されたことで、残ったのは両目の部分だけになった。そして、そこには――。

あたしの背筋に冷たいものが走った。あの写真の中の梅垣の目が、まるで別人のように冷たく光っているのだ。口元の笑顔を隠した途端、そこにあったのは温かい指導者の瞳ではなく、獲物を品定めするかのような計算高く、どこか冷酷で鋭利な光を宿した瞳だった。まるで仮面の下の素顔が露わになったかのようだ。

「これ……」

中野が指を離さぬまま、静かに言った。

「笑顔の下に隠されている本当の顔です。これが……梅垣先生の本性でしょう」

あたしはゴクリと唾を飲み込んだ。心臓が早鐘のように打つのを感じる。中野の言葉が重く響く。そうだ、そうに違いない。あの表面的な笑顔は全て演技だ。自分の目的を達成するための仮面に過ぎない。芦川に向けたあの残酷な行為も、彼女が作り上げたもう一つの顔の一部なのだ。これは戦略だ。周囲を欺き、意のままに操るための……。写真の中の芦川の虚ろな瞳が脳裏に焼きつく。あの目は、この偽りの笑顔の下に隠された恐ろしい本性を知っていたのかもしれない。


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