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水面の影と光 ~「春のジャージはプールの季節」前日談~  作者: 与一
第2章 ある先輩と後輩について
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長い暗闇を越えて

「結局、芦川は水泳部から逃げるかのように引退した」

あたしはゆっくりと言葉を紡ぐ。

「だが話はそこで終わらなかった。むしろ、彼女の受難はそこから始まったと言ってもいい」

中野の顔が曇る。

「引退した後だ。芦川に関する嫌な噂がじわじわと広まり始めた。みんながいる前で、自分からやったという。……そういう趣味があるんじゃないか、という根も葉もない中傷だったらしい」

「そんな馬鹿な。中学生ですよ? 真に受ける人がいるんですか……」

 中野が呆れたように言った。

挿絵(By みてみん)

「ああ。普通なら一笑に付す程度の話だ。でもな……多感な時期の子供たちにとって、こうした話題は恰好な餌食だ。ましてや水泳部のエースであり、委員長だった芦川だ。芦川に対する嫉妬や羨望、それ以外にもいろいろな感情が噴き出し、広がったんだろうな。だがな、あたしは直感的に思ったよ。勝手に広がったんじゃない。作為的なものだ。勿論、芦川にはそのことは話してはいない」

「先輩、それってもしや……」

中野が慎重に切り出す。本当は気づいているはずだ。あたしは頷いた。

「ああ。この噂を裏で煽っていた人物がいるはずだ」

「梅垣……ですか?」

「確証はない。だが今までの状況を考えると辻褄が合う。だって、現場には、多数の生徒がいた。目撃者はたくさんいる。なのに、変な形で話が広まっている。もし、本当にそういうことをしでかした生徒がいたとなれば、学校としてもそのままにしておくわけにはいかない。だが、うわさが広がるだけで、芦川は生徒指導部などから問いただされるということもなかった。訳の分からないことばかりだ。そもそも、梅垣は、どんな経緯であれ、自分の教え子がつらい思いをしているのに何もしなかった。あたしに言わせれば、それだけで教師失格だ」

「最低ですね……」

中野が低い声でつぶやく。

「梅垣にしてみれば、試合の結果を出せなかった芦川が許せなかったのか、生徒たちに自分への忠誠心を試したかったのか。あるいは、本当に単なる腹いせか……」

あたしは改めてジョッキに手を伸ばした。既に温くなっている。

「芦川は中学で完全に孤立した。友達だと思っていた連中も次々に離れていく。先生たちは見て見ぬフリだ。梅垣に睨まれたくないからな。それでも芦川は諦めなかった。この逆境を乗り越えるための術を見つけたんだ」

「それが……うちの学校への進学ですか?」

中野が顔を上げた。

「そうだ。芦川の地元のこの高校なら多香美の影響が少ない。新天地で気持ちを新たにする。そのための準備を秋から密かに始めたんだろうな。入試もトップレベルの成績で合格している。彼女の意志の強さが表れている」

「芦川さんのその経験が……今の彼女を作ったんですね」

中野の声に同情と共感が混ざっている。

「卒業式の直後、寮に戻ると、かつて、自分の代わりに大会に出てもらった後輩から手紙が届いていたそうだ。内容は、『先輩、あの時、かばってくださったのに、何もできなくてごめんなさい。新しい高校で幸せになってください。私は大丈夫ですから』というものだった。それだけが、この話のわずかながらの救いかな」

 あたしは付け加えた。少しだけ声が柔らかくなったのを感じた。

「先輩に全てを話した後、芦川さんはどうだったのですか?」

中野が心配そうに尋ねた。

「あの子は……安堵したような表情をしていた。長い間、ずっと一人で抱え込んでいた重荷を下ろせたような、そんな感じだ。泣きながらな。初めて見たよ……あんなにも感情を露わにする芦川を。今までずっと、我慢していたんだろうな……。それに中学の話をしながら、何度もあたしに『ごめんなさい、ごめんなさい』って謝るんだ。あたしのことを勝手に警戒していたことを。仕方ないよ、芦川にとって女性の体育教師と言えば、ずっと梅垣のイメージだったんだからな。そこへ、あたしみたいな奴を見れば、そうもなるよ……」

芦川のその時の様子を思い出す。今にも消え入りそうな声で何度も謝る姿が、あたしの胸に刺さる。

「芦川さん、梅垣のせいで謝る癖がついてしまったんでしょうね」

中野も深刻な顔で言った。あたしは無言でうなずいた。

「それで、今は体育の授業はどうしているんですか?」

「ひとまず、水泳の授業には出さないことにした。見学でさえ厳しいと思ったからだ。あの時のことを思い出して、また動けなくなるかもしれない」

「そうですよ。辛すぎますしね……」

中野が眉を寄せる。

「水泳の授業は出なくてもいい、と言っておいた。本人は気にしていたが、実のところ、さぼる奴というのは毎年、二、三人いるもんだからな。無理をさせないことが優先だ」

「焦らず見守るのがベストでしょうね」

中野が深く頷いた。

「ああ。かなり厳しいものを抱えてはいるな。ただ、あの話を聞いた後だと、むしろよくここまで持ち直したと思うよ」

あたしは窓の外に目をやった。夜の街灯がぼんやりと道を照らしている。


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