悲しい水泳部時代
梅垣佳恵の指導は、水泳部としても体育教師としても、かなり厳しいものだった。水泳部では、どんなに体調の悪い時でも、部員を泳がせることもあった。少しでもタイムが落ちると、「もっと速く!」「根性出せ!」と大声で怒鳴られる。体力的に限界で泳げなくなってしまうと、「根性がない」と叱責される。平手打ちされることも頻繁にあった。
その中でも芦川に対してだけは特に苛烈を極めた。芦川は一年生の頃から期待された選手で、梅垣の指導の一番の標的になった。泳法のフォームが少し乱れただけで「そんな泳ぎ方しかできないのか!」と罵られ、バシッと叩かれたり蹴られたりすることも日常茶飯事だった。
それだけではない。練習メニュー自体も芦川にだけ桁違いに過酷だった。他の部員が基礎トレーニングをしている時間も芦川だけはずっと泳ぎっぱなし、休憩もほとんど与えられず、何度もタイムトライアルを課された。しかもそのタイム基準は全国トップクラスの選手並みで、到底クリアできるものではなかった。ミスをすれば容赦なく激しい暴言が飛ぶ。
体育の授業でも梅垣の差別は明白だった。芦川がどんなに完璧な動きを見せても梅垣からの評価は厳しく、他の生徒に対する評価より遥かに厳しかった。体力テストで高い記録を出しても「運が良かった」「たまたま調子が良かっただけ」と扱き下ろされ、低評価をつけられた。
逆に芦川がちょっとしたミスをすると、他の生徒には決して見せないような厳しい叱責や罰則が課せられた。「なぜこんな簡単なことができない」「あなたには才能がない」などと、人格を否定するような言葉も浴びせられた。
それでも芦川は耐えた。梅垣の罵声が耳をつんざいても、身体中に青痣が浮かんでも、涙でプールの水が滲んでも、泳ぐのをやめなかった。それは意地やプライドだけではない——幼い頃から培われた責任感と献身の精神が、彼女を支えていたのだ。どんなに酷い仕打ちをされようと「自分が頑張ればみんなも報われる」と信じていた。だからこそ、芦川はメダルを取り続けた。全国区の大会で次々と入賞し、多香美女子校の水泳部史上稀に見る輝かしい実績を築き上げていった。
だが皮肉なことに、その「好成績」という結果こそが、さらに梅垣の策略を加速させる燃料となったのだ。
* * *
中野がふと眉をひそめた。
「でも、先輩、いくら厳しい顧問だからと言って、なぜ、梅垣はそこまで芦川さんに集中して当たるんですか? 部のために好成績も上げているのに?」
あたしはジョッキに半分ほど残っていたビールを呷り、泡の消えかけた黄金色の液体を喉に流し込んだ。
「そこなんだよ、中野。その矛盾した行動……それが、梅垣という人間の狡猾さの本質だ」
グラスをテーブルに戻すと、あたしはゆっくりと言葉を選んだ。
「あいつはな……芦川歩美の中に眠る、ある種の『素質』を見抜いていたんだ。体育教師としての研ぎ澄まされた嗅覚とでも言うべきか……あるいは歪んだ人間観察眼とでも呼ぼうか」
「素質……ですか?」
中野が首を傾げる。
「ああ。それはただ体力的に優れているとか技術が高いということだけじゃない。むしろ、もっと厄介で、奴にとっては都合の良い『資質』だ」
あたしは続けた。
「まず第一に、芦川は驚くほど従順で我慢強い。一度立てた目標を容易に諦めない。どんなに辛い状況でも自分を奮い立たせて食らいつこうとする粘り強さだ。そして第二に、他人に迷惑をかけまいとする極端なまでの自己抑制心。周りの期待を敏感に感じ取り、自分の痛みや弱音を隠し通そうとする献身性だ」
「つまり……芦川さんの性格を利用したと?」
中野の目が鋭くなる。
「まさにそれだ」
あたしは頷いた。
「梅垣は芦川を通して部全体をコントロールしようとしたのさ」
「どういうことですか?」
中野が身を乗り出す。
「あいつにとって芦川はただの道具じゃなかった。彼女を『標的に』するだけで、他の部員たちに無言の圧力をかけられたんだ。誰だって、目の前で仲間が鞭打たれるように扱われたら萎縮するだろう? ましてや芦川はエースだ。そんな彼女が必死に食らいつき続ける姿を見せつけられれば、他の連中は文句も言えない。『芦川さんでも耐えてるんだから』と勝手にハードルを上げてくれる」
「……一種の見せしめですか?」
「その通りだ」
あたしは苦々しい口調で続けた。
「さらに巧妙なのは、梅垣が芦川を潰すつもりがなかったということだ。むしろ『好成績』という結果を出し続けていた。そして、その好成績こそが逆効果だったんだ。他の部員たちに向けた、潜在的な『嫉妬』と『競争意識』を煽る材料になるからな。『あんなに厳しくされてるのに、どうしてあの人は結果が出せるんだろう』『私たちが甘いわけじゃない』と勝手に思うようになる。結束ではなく競争を生み出す装置として機能させていたんだ」
「残酷ですね……」
中野が呟く。
「勿論、梅垣はそこまで理論的考えてやっていたわけではない。本能的なものだろう。ところがあいつは一つだけ芦川の持つ素質を見誤っていた」
「それは何ですか?」
「聡明さだ」
あたしは静かに答えた。
「芦川は頭がいい。スポーツだけでなく勉強でも優秀だっただろう? それ以上に彼女は観察力があり分析力がある。最初はただ指示に従うだけだったが、徐々に梅垣のやり方に疑問を持ち始めていたんだと思う。他の部員たちがどれだけ消耗しているか、精神的に追い詰められているか……気づき始めていたんだ。他人への気配りと言う資質と重なったのかもしれん」
「それで?」
「ここからは推測が混じるが……芦川はおそらく梅垣にバレない方法で抗い始めた。自分の練習メニューを工夫したり、後輩たちにさりげなく負担を減らすための助言をしたり、自分のできる範囲で部内の空気を変えようとしたんじゃないだろうか。実際、芦川も、高熱の後輩を梅垣が試合に出そうとしているのを見て、自分が代わりに出ると申し出たことがあったと、言っている」
中野は黙って聞いている。
「梅垣はそう言った芦川の動きに気づき始めただろう。自分の支配体系に小さな穴が開きつつあると。だからこそ焦りが出たのかもしれない。そして迎えたのが中3のあの授業での出来事だった」
芦川から聞いた話の中でも、最も嫌な部分だった。芦川のまるで他人事のような話しぶりが、いかに傷を抱えているかを物語っていた。思い出すだけで不快な話だ。だが、中野には話しておくのが筋だろうし、それが芦川への誠意でもあると思った。
――その日、体調不良で倒れた生徒がいたために集合が遅れてしまった。いつものように梅垣は生徒に怒鳴り散らしていたが、それに芦川が真正面から抗議してきた。激高した梅垣は、水着を脱いで泳ぐように命じ、もし自分が悪くないと思うのなら、他の者を代わりにそうさせろと叫んだ。芦川が黙ってその命令を受け入れ、プールに入ってしまったのだという――
「それが原因で、芦川は水泳への熱意を完全に失ったんだ。中3になって急に低迷した理由はそこにある」
あたしは静かに告げた。中野は言葉を失っていた。それはそうだろう。こんな話、普通に生きていたら聞かないだろう。




