真実に向けての一滴
「それに、まだ疑問点はあるんだ」
「どんなことですか?」
中野は前のめりになって尋ねてくる。
「高校入試の時に、中学から送られてきた芦川の成績表のことだ。国語も数学も理科も社会も、そして英語も……。どの教科も平均以上で優秀な成績だったんだ。だが、体育だけは違った」
あたしは指でグラスを軽く弾いた。
「体育の評定だけは1年生の時からずっと異常に低かった。5段階評価で最高でも3、時には2の科目もあった。他の教科はすべて4以上だったというのにだ」
中野は少し考えてから口を開いた。
「水泳部で活躍していたのに体育の評定が低いのは変ですね」
「そうだ。しかも体育の授業での様子を観察するとわかるんだが……」
あたしは少し言葉を選ぶように間を置いた。
「芦川は明らかに能力をセーブしている。全力を出していないように見えるんだ。例えば持久走の時も、周回遅れになっているわけじゃないが、明らかに本気で走っていない。バレーのサーブもそうだった。基本ができてはいるが、どこか躊躇しているような投げ方をする」
「でもそれは先輩の誤解かも……」
中野がまた割り込んできた。
「いや違う」
あたしは遮るように否定した。
「あたしは運動部の顧問をしているからわかる。あれは体力がないとか苦手とかそういう類のものじゃない。あえて力を抑えてるんだ。あたしが何か指示を出すたびに体を硬直させたり視線を逸らしたりするからな」
中野はしばらく考え込むように黙っていたがやがて小さく息を吐いた。
「確かにそれはちょっと怪しいですね……」
「だろ? だから、ずっと気になってたんだよ」
あたしはテーブルの上で拳を握り締めた。
「しかも彼女の体育の担当教員リストを見てみるとある名前がずっと続いている」
「名前?」
「梅垣佳恵という教師だ。三年間芦川の体育を担当し、なおかつ水泳部の顧問としても名前がある。そして今も多香美女子校に勤務している」
「うーむ……」
中野は腕組みして唸っている。
「その先生に多香美女子の方や梅垣先生に直接聞いてみたらどうですか?」
中野が提案した。
「ダメだ。できない」
即座に却下する。
「どうしてですか?」
「まず一つ目は芦川自身が中学の顧問と連絡を取らないでくれと長谷川先生に懇願していることだ。これは明確な意思表示だから無視できない。二つ目は仮に何があったのか尋ねても、多香美女子校も梅垣も、表面的な答えしかしないだろう。それに三つ目」
ここで一旦言葉を切る。
「もし何かしらのトラブルがあったとしてもそれを認めるとは思えない。プライドもあるし学校側としても問題を大きくしたくないだろうからな。むしろこちらが変な詮索をしていると思われるだけだ」
中野は納得したようにうなずいた。
「なるほど……。確かにそうかもしれませんね」
「だが決定的な証拠があるわけでもないし本人に直接聞くこともできない」
ここでようやく核心部分に入る。
「どうしたものかと考えていたら先日とうとう事件が起きた」
「事件?」
中野の目が大きく見開かれる。
「ああ。今年最初の水泳の授業の前だ」
あたしは、あの日の出来事を中野に語り始めた。
「授業開始時間を過ぎても現れなかったんだ。生徒に聞くと、気分が悪いから先に行って、と頼まれたらしい。どうも様子がおかしいと思って、あたしは更衣室に向かった」
中野は固唾を呑んで聞き入っている。
「すると……制服のまま固まっていたんだ。水着を手にしたまま震えていてな。『水着を着られない』と真っ青な顔で言うんだ」
「そんな……」
中野が小さな声で呟いた。
「あたしはとりあえず保健室へ連れていった。休ませている間に落ち着くかと思ってな。しばらくして様子を見に行ったんだが……そこへ偶然、お前が入ってきたんだよ」
「あの時のですね!」
中野が思い出したように手を打った。
「そう。お前がいつも通りの口調で『今日は出張だけど授業前に泳いできた』とか言ってたよな」
「ええ、そうです! 頼まれていた書類をお届けするために急いでいたんですが……」
中野は照れ臭そうに髪をかきあげた。
「そのやり取りを見ていた芦川がな……少し表情が和らいだんだ」
「本当ですか? 急に押しかけてきたのに?」
「ああ。どうやら安心したようだった。普段は厳しい体育教師と思っていた先生が、お前みたいな穏やかそうな先生と自然に話している様子が新鮮に映ったんじゃないか」
「それは光栄ですねぇ」
中野が嬉しそうに笑った。
「それで……話してくれたんですか?」
「ああ。ようやく口を開いてくれたんだ。体育教師としてではなく、一人の『榊原先生』として話を聞いてほしいと。中学で何があったのかを」
そしてそれは、あたしが想像していたよりも、はるかに重い内容だった――




