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水面の影と光  作者: 与一
第2章 ある先輩と後輩について
10/21

気になる新入生

芦川が更衣室で動けなくなった日から、十日ほど過ぎた。

週末の夜、あたしは馴染みの居酒屋の個室で、後輩の中野と杯を交わしていた。この店は、個室と個室の間が空いているので、面倒な話をしても漏れない。あたしはラフな格好だが、中野は今日も大学の説明会の帰りということでスーツ姿だ。他愛ない世間話が一段落したところで、あたしは言った。

「なあ中野」

「はい? 先輩、どうしました?」

「お前があたしの後輩だと聞くと、みんな驚くんだ。そして、『だから、中野先生、ああなのですね』だとか、『鬼のサカキにしごかれて、可哀そうに』とか言うんだよ。体育祭の準備していた時だって、あたしが、お前にリレーのバトン、取りに行ってくれって頼んだだけなのに、お前のクラスの女子生徒たちが『中野先生、あんまりしごかないでくださいね』って訴えてきたんだぞ」

「へー、そうなんですか? 私も、榊原先生が先輩だというと、なぜか、みんな、心配してくるんです。『先生、よくあの榊原先生のところにいたのに、生きてたな』とか、『すごいな、お前は。榊原先生にしごかれて、壊れなかったなんて』とか。『壊れてたら、ここにいないでしょう?』って、言うんですけどね」

「みんな、あたしをなんだと思っているんだよ…」

わざとらしく拗ねた口調で言うと、中野はますます楽しそうに笑った。

「みんな、先輩への愛情表現ですよ。先輩は愛されキャラですから」

「誰が愛されキャラだ。まったく……」

あたしはグラスに残っていたビールをぐいっと煽った。まあ、悪気があって言っているわけじゃないのは分かっている。生徒も、なんだかんだ言いながら、ついてきてくれる。むしろ、そんな風に遠慮なくからかえるくらい、あたしと中野の関係が自然なものとして受け入れられているということなのかもしれない。

「それにしても、私も嬉しいですよ。先輩がそんな風に言ってもらっているなんて」

中野は相変わらずニコニコしている。こいつのこういう屈託のなさが、周りの人間を惹きつけるのだろう。

「嬉しいもんか。まったく……」

そう言いながらも、あたしの口元も少し緩んでいるのを感じた。

その時、ちょうどよく店員が新しいビールを持ってきてくれた。タイミングがいい。

「あ、すみません。もう一杯お願いします」

中野が追加の注文をする。あたしももう少し飲みたい気分だった。

店員が去っていくのを見送りながら、あたしは本題に移っていく。

「この前、保健室で休んでいた芦川もそうだった。あたしが普通に中野と仕事の話をしているだけなのを、物珍しそうに見ていた。中野があたしの後輩だというと、すごく意外そうな顔をしていた」

「まあ、そうでしょうね。先輩、厳格ですから。芦川さんて、多香美女子中学から一般入試で入ってきた子で、先輩が、気になるっていっていた…。中学では水泳をやっていたと言う。でも、入学してから特に問題を起こしたって話もないですし。天文部に入ったんですね。うちの木島がかわいい後輩が入ったって言って、喜んでましたよ」

同じ体育科だが、あたしは高1、中野は高3を担当している。

「まあ、普通に学校生活を送っている。友達もできたようだ。ただ、ただ、体育の時だけは、最初の授業の時から、ずっと、あたしに対してだけ、一線引いている感じなんだ」

「先輩も変なところ、気にするんですね。何しろ、鬼のサカキなんですから、怖いと思う子もいるでしょう」

中野はクスクスと笑いながら、あたしのことをからかった。まったく、こいつはいつもあたしをからかう。

「茶化すなよ。確かに、特に1年生は慣れないうちは、怖いと思うかもしれない。でも、芦川の場合は、最初の授業の時から、あたしを見る目が違ったんだ。警戒していると言うか……いや、もっとひどい、何か、あたしの背後に何か怖いものでもあるみたいな、そんなふうな様子なんだ。学校生活にはなじんでいて、友達もできている。それなのに、体育の時の、あたしに対して怯えるような姿勢だけは、ずっと変わらない。いや、むしろひどくなってきていると言ってもいい。あたしも、芦川には直接、声をかけないようにしてきた」

あたしは芦川の様子を思い出す。いつも、あたしの目を避けるようにしている。何か話しかけようとしても、すぐに俯いてしまう。あたしがそばを通るだけで、体を強張らせているのが分かる。別に大人しい生徒なわけでもないのに。それどころか、隣のクラスの佐藤という、幼馴染の男子に対しては、かなりきつめな冗談も言い合う仲だ。他の先生方のことも、普通に、話しかけるし、話しかけられている。ただ、あたしだけ、だ。明らかに態度が違う。

「それって、先輩の気にしすぎじゃないですか。先輩って、見た目からして迫力ありますから。私なんか、先輩のこと、昔から尊敬していますけど、他の人たちは、やっぱり怖いって思ってるんじゃないですかね」

なかなか分かってくれない。

「どうも、多香美女子中学の時、体育の授業か水泳部で、何か大きなトラブルがあったのではないか、と思うんだ。多香美女子の水泳部はかなり強いことで有名なんだよ。芦川はそこで、結構、いい成績を収めていたようだし。それなのに、推薦ではなく、一般入試でわざわざうちに来た。それに、うちの学校には立派な屋内温水プールがある。だが、彼女は長谷川先生が勧誘に来ても、断った。彼女はすでに天文部に入部していたんだ」

「でも、それってそんなにこだわるとこですかね? 中学とは違う部活に入る生徒なんて珍しくないですよ。むしろ多いんじゃないかな。他にやりたいものが見つかるというのは、ごくごく普通のことだと思いますよ。先輩のバレー部だって、そうやって入ってきた子たちもいっぱいいるでしょう」

中野は簡単にはあたしの言うことに納得してくれない。理論的に反駁してくる。

「問題はそこじゃないんだ。長谷川先生が勧誘に来た後だ。芦川は長谷川先生のもとにやって来て、どうして自分が水泳部に入っていると知っているのかと尋ねたそうだ。そして、中学の顧問が悲しむから、自分のことは伝えないで欲しい、と言ったそうだ」

「……それは確かに、ちょっと変かもしれませんね」

さすがに中野も何か感じるところがあったようだ。首を傾げながら眉を寄せている。

「だろ? なんでわざわざそんなことを確認しに来るんだ? それに、その後の『中学の顧問が悲しむ』って言い方はなんだ? まるで芦川は中学の顧問のことを特別に気遣っているように聞こえる。いや、むしろ自分のせいで相手が悲しむことを恐れているかのような言い草だ。それに『中学の顧問』という言い方も少しおかしい。普通なら『前の顧問』とか『中学の先生』とか言うだろう。わざわざ『顧問』っていう役職名を使ったんだ」

「うーん……」

中野は腕を組んで唸っている。普段のふんわりした表情からは想像できないほど難しい顔をしていた。

「先輩の言いたいことはなんとなく分かりますが……。その水泳部の顧問とは合わなかったとかいうことですかね。まあ、人間同士だから、そういうことはあるでしょうし、でも、先輩がそこまで気にすることですかね? 水泳部では優秀だったということですが、実際、大会での戦績はどれぐらいなんですか?」

「確かに多香美女子中では優秀だった。しかも一般的な優秀さじゃない。強豪チームの中でトップクラス。全国レベルの大会にも何度か出場している」

「え! それはすごいですね」

中野は素直に驚いている。

「だろ? でも、それが中3の夏の大会からだ。突然、急降下し始めたんだ。それまでは県大会はもちろん地区大会でも上位入賞が当たり前だったのが、ぱったりと止まった。地区大会の予選落ちばかりで、そのまま沈黙したんだ。まるで別人みたいに」

「それってケガとか病気とか……?」

「調べてみたが、入院した記録もないし、持病等の学校への伝達もない。それにケガなら治れば復帰できるはずだ。それなのに、中3の夏の大会から、まるで意欲をなくしたかのように結果がついてこなくなった。これは単なるスランプじゃない。何かが起きたんだ」

あたしはさらに続けた。

「それだけじゃない。芦川は中3の最後に一気に戦績が下降したとはいえ、それまでは水泳部の中心選手として活躍していたんだから、部内の事情や他校との繋がりにも詳しいはずなんだ。多香美女子は高校も併設されていて、ほとんどの生徒はエスカレーター式に上がる。だからわざわざ他県の高校の水泳部に自分から声をかけるような縁はないはずなんだ。芦川は、当然、そのことはわかっているはずだ」

「つまり……何が言いたいんですか?」

中野が促すように問いかけた。

「多香美女子中学と芦川が選んだうちの高校の水泳部。この両者に特別なつながりはない。むしろ接点を探すことの方が難しいくらいだ。それなのに芦川は長谷川先生に『どうして知っているのか』と確認に行った。しかも『中学の顧問に伝えないで』と懇願した。これは、あまりにも不自然だと思わないか?」

あたしはグラスに残っていたビールを飲み干し、中野を見つめた。

「ああ、なるほど……」

中野は納得したように深く頷いた。

「言われてみれば確かにそうですね。それだけの経歴があるのに突然の低迷。そして高校選びの謎。そこに長谷川先生とのやり取りが絡んでくるとなると……」

「きっと、中学でなにかあったんだよ」

あたしは低い声で言った。


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