第9話 星の降りそうな夜に
サイゾウとゲンさんが軍役から帰って来た。
特に大きな戦闘もなく、二人とも無事だった。
その夜、里では慰労の宴が催された。
焚き火が焚かれ、ささやかな焼き物で盃を重ね、笑い声が夜空にこだまする。
そんな輪から少し離れた木の下で、マイはアヤカと並んで腰を下ろしていた。
膝には風を寝かせていた。
火照った小さな頬に夜風が心地よかったのか、風はすやすやと穏やかな寝息を立てている。
「皆、楽しそうやな」
マイがぽつりとこぼすと、アヤカもにこりと笑ってうなずいた。
「無事でよかったですね。サイゾウさんもゲンさんも…」
「あの時も、こんな夜やったわ...」
マイの言葉に、アヤカは少し首をかしげて彼女を見た。
マイの視線は、焚き火の向こう、酔った男たちの輪の中、無邪気に笑うショーゾーを見つめていた。
「前の戦から帰ってきた時な、タイガがめっちゃ興奮して、
『ショーゾーさんすごかったんだよ!敵を一手に引き受けてさ。俺たちを逃がすために命張ってくれたんだよ!もう俺、一生ショーゾーさんについていく』
って言いふらしてて...」
「うんうん、アホタイガ、言いそう」
アヤカが苦笑する。
「それ聞いた瞬間、なんやもう…胸がきゅーってなって、いてもたってもおられんくなってな...」
マイの頬が、羞恥で赤らむ。
「みんなの前で叫んでもうたんよ。
『ショーゾーのアホ!待ってる女の気持ちも知らんと!私、あんたがおらんくなったら生きてかれへん』って」
アヤカの目が丸くなった。
「そしたら、あのアホもな、酒入ってたからか泣き出してもうて…二人してわんわん泣いてさ。
みんな笑ってたけど、あれで里の公認の仲になったんや」
マイの視線は、いまも焚き火の向こうのショーゾーを優しく見つめている。
「男なんてな、皆かっこつけて英雄ぶって、仲間のために死ぬとか、自分に酔ってる奴ばっかや」
マイの声は冗談めかしていたが、どこか哀しみも滲んでいた。
「せやからアヤカも、大事な人がそんな風に、かっこつけようとしてたら…ちゃんと止めたらなあかんよ」
アヤカははっとしたようにマイを見た。
だがすぐに顔を背け、赤く染まった頬を隠すように立ち上がった。
「わ、私そんな人いないもん!」
小走りに立ち去るその背中を、マイはふふっと笑って見送った。
「ふうちゃん、アヤカにも、ええ人できるかなぁ」
風の寝顔をそっと撫でながら、マイは静かに目を細めた。
焚火の前からサイゾウが大声で叫んでいた。
「おいオユキ、酒が足りねぇぞ!持ってきてくれ」
「はぁ? 私はアンタの女房じゃないんだからね。これ以上注文するなら、私を嫁にしてから言いなよ」
調理場の方から顔を覗かせたオユキが、憎まれ口を叩いた。
宴席のあちこちからくすくすと笑いが起こる。誰もが二人のやり取りを微笑ましく感じていた。
サイゾウとオユキが互いを想っていることは、この里ではとうに公然の秘密だった。
「う、うるせ〜、誰がお前なんか…」
それでもオユキは怒らない。
むしろ少しだけ意地悪く笑って、
「早くしないと、誰かに取られちゃうかもよ〜」
と言い残して、また調理場のほうへと戻っていった。
「ふっ、何言ってんだか…」
そうつぶやいたサイゾウの隣に、ショーゾーが腰を下ろす。
サイゾウに徳利を傾けて、盃を差し出した。
「なぁ、サイゾウ」
「なんだよ」
「もう、俺たち…この世界で生きてくしかないんだろ?」
ショーゾーの声は、酔いのせいか、それとも何か覚悟めいたものか、妙に真っ直ぐだった。
「お前がさ、現代に残してきた妻子を想って、ずっとここで独りでいるのは…俺、すげぇと思う。ピュアっていうか、筋が通ってるっていうか。でもな…」
言いながら、ショーゾーは顔を上げ星空を見上げた。
「もし俺が戻れない世界で、マイが一人で待ってるとしたら…俺は耐えられねぇな。」
盃を空にしながらショーゾーは言葉を続けた。
「誰かと幸せになってくれてた方がいいって、俺なら思う。多分、お前の奥さんだって、そう思ってるよ」
「…わかってるんだ…」
サイゾウはそうつぶやき、拳を膝の上に置いたまま、指先に力を込めた。
ふと視線を上げると、調理場の隅、ひとり後片付けをしているオユキの背中が見えた。
サイゾウはその背中に何度も救われてきたことを、思い出していた。
星が空を覆っていた。
風が山を渡り、焚き火の炎を小さく揺らした。
酔いは、なぜか一向に回らなかった。
(この空の向こうに、帰る場所がある。でも…それは、たぶん、二度と届かない。)
そのことを、ようやく心が受け入れ始めている自分に、気づいてしまった。
オユキは調理場の隅、片付けの手を止めて、ひと息ついた。
「困らせちゃったかな、アイツ…」
ぽつりと唇の端から漏れた言葉に、自分でも少し苦笑する。
サイゾウには、あの元いた世界に家族がいる。
妻がいて、子がいる。
その重さを、オユキもわかっている。
家族の元に帰れるなら帰してやりたい。
でもそれは恐らく叶わない…
「アイツ、きっと孤独なんだ…」
そう思うたび、胸の奥に小さな痛みが走る。
サイゾウは、里のリーダーとして誰よりも強く、頼りにされている。
どんな危機でも先頭に立ち、誰にも弱音を見せない。
冗談を飛ばし、茶化して笑って、それで皆が安心する。
だけど、誰よりも重たいものを背負っているのは、サイゾウ自身なんだ。
皆が信じてすがってくるから、倒れるわけにいかない。
(そんな生き方、どれだけしんどいだろう)
「せめて、私にくらい弱みを見せてくれたらいいのに…」
言葉にならない想いが、夜の空気に吸い込まれていった。
「アイツにも、ちゃんと幸せになってほしい…だけ、なんだけどな...」
宴は三々五々酔いが回った者から帰路につきバラけだした。
サイゾウは水が飲みたくなり井戸へ向かう途中、オユキが片づけをしていた調理場を横目で見た。
しかし、そこにオユキの姿はもうなかった。
井戸の水をがぶ飲みし、井戸脇の切り株に腰を下ろし星空を見上げた。
そんなサイゾウの背に、そっと近づく気配があった。
「…星、綺麗だね」
静かな声に、サイゾウが目を細める。振り向かなくても誰だかわかる。
「おう。この星空、これだけは未来にはない贅沢な光景だな」
ふたりの間に、夜の空気がしばらく流れる。
「…さっきの、気にしてないから」
オユキがそっと言った。
「冗談だしね。あんたのこと、困らせたくて言ったんじゃない」
「…わかってる」
サイゾウは声を落として応える。
「でも、お前の言葉は、いつも冗談に聞こえなくて困るんだよ…」
それを聞いて、オユキは微笑んだ。
「…だって、本気だから」
「…」
サイゾウは小さく息をついた。
何か言いかけて、けれどすぐには言葉が出ない。
その沈黙を埋めるように、オユキが静かに言った。
「私はね…、最初から、あんたが残してきた家族を想って、必死で生きてる姿に惹かれたの…」
「…置いてきた家族のこと思うと俺は…」
サイゾウは絞り出すように言った。
「戻れたとして、俺は15年も経過したおっさんだ。戻る場所なんて、もうどこにもねぇんだ、きっと...」
オユキは黙って聞いている。
「それに、恐らく戻れない可能性の方が高い。それなら割り切ってこっちで幸せにって…、簡単に割り切れないんだよ…」
苦悶の表情で気持ちを吐露するサイゾウに、オユキがそっと呟く。
「…私が言うべきことじゃないかもしれないけど…、戻れない世界を想って今いる世界で幸せを求めちゃいけないなんて、生きているって言えるのかな…」
サイゾウは下を向いたまま、何も言わなかった。
でもその拳が、少しだけ震えているのをオユキは見逃さなかった。
「私は…、待ってるから。いつまでも…」
オユキは努めて明るく言った。
やがて、サイゾウがぼそっと呟く。
「…お前の膝、借りる日が来るかもな」
「ふふっ、その時は、ちゃんと撫でてあげる」
ふたりはそれ以上、何も言わなかった。
星空の下、不器用な二人の心の距離は確かに縮まっていく…。
今回は里の女達のエピソードを書きました。
戦国に落ちてきた女達も各々の思いを抱えて生きているということを知ってもらいたい回です。
彼女たちは、戦国で戦う男達にとって重要な心の拠り所として、今後も活躍していきますのでお見知りおきください。