第19話 名もなき英雄達
―翌朝。
朝餉を済ませ、旅支度を整えた僕とサイゾウ、ショーゾーは、改めて柘植隼人のもとへ出立の挨拶に向かった。
「思いがけぬ長逗留となり、大変お世話になりました。我ら三名、これより平成の里に戻りまする」
そうサイゾウが頭を下げ、三人そろって床に手をついた。
柘植はしばし沈黙ののち、静かに頷いた。
「…此度の働き、まこと大きなものであった。礼を言うのはこちらの方ぞ」
そう言って、懐紙に包んだ路銀を三人に手渡す。
「キュウサクと蛍のことは、心配するな。悪いようにはせぬ。」
その声色は、戦場で冷徹に命を下していた男のものとはまるで違い、優しさが滲んでいた。
僕は、言わずにはいられなかった。
「柘植様…。あの、ひとつだけ……」
「なんだ?まさか、また床板を壊すつもりではあるまいな」
冗談めかしたその言葉に、僕は思わず笑ってしまった。
(ああ、これがこの人の本当の姿なんだ)
僕はそう感じていた。
けれどどうしても確かめたかった。
「此度のこと、キュウサクも蛍も…、もとは私たちの仲間で、特に蛍に関しては敵方。
にもかかわらず、柘植様があれほどまで手厚くご尽力くださったのは…」
言いかけたところで、柘植がふっと苦笑した。
「丹波様だな…。余計なことを…。」
しかしその声音に、怒気はなかった。
「出立が少し遅れるが…、俺の話を聞いてくれるか」
そう言って柘植は、静かに口を開いた。
「俺もな、蛍たちと同じように望まずして忍になった子供だった」
サイゾウとショーゾーが、息を呑む音が聞こえた。
「親に売られたわけではなかったが、伊賀の山中に生まれし者は、忍びか、そうでないかの二択を迫られる。忍びを選ばねば、狭く痩せた畑を耕すだけの、一生ひもじい思いをする生き方を選ばねばならぬ。」
「それでも家督を継げればまだいいがな。兄弟が多ければ得られる土地もない。そうなれば居場所を得るには、忍びの道を選ぶしかなかったのよ。」
伊賀忍びという生き方は、小さく貧しい地域の人々が人らしく生きて行くための苦肉の策だった。
それは以前百地丹波が言っていたことと同じだった。
「俺には弟がいた。二つ下の、気の優しいやつだった。兄である俺の陰に、いつも隠れているような…」
柘植の目が遠くを見つめる。
「ある日、弟が初めて任務を言い渡された。…だが俺は別任務で、ついてやることができなかった」
柘植の眉間がわずかに歪む。
「帰ってきた弟の様子は…昨夜のお前の仲間と同じだった。人を殺めた直後の目をしていた」
喉の奥で言葉がつかえたように、彼は一度黙る。
「…そして数日後、弟は、崖から身を投げた…」
その一言に、僕の胸が締めつけられた。
「助けられなかった。俺が隣にいてやれなかったからだ」
苦しげにそう言うと、柘植は目を伏せ、拳を握りしめた。
「…だから、キュウサクは俺にとって“弟の生まれ変わり”のように見えた。
今度こそ、あの時できなかったことを果たしてやりたいと思った」
沈黙…誰も言葉を挟めなかった。
「蛍も同じだ。あの娘の目を見た時、思った。忍びの技に染まりながら、人としての心をどこかに閉じ込めたまま…ただ、生き延びてきたのだと」
柘植はふうっと息を吐いた。
「俺たち忍は、覚悟を持って命を懸ける生き方を選んでいると思い込んでいた。
だが、そうじゃなかった。選んだんじゃない、選ばされたんだ」
そう言って、柘植は僕に目を向けた。
「ゴエモン、お前の言葉を聞いて、俺は変わった。冷徹でいなければ仲間は守れぬと思っていたが、熱を失えば、人はただの刃物に成り果てる。…それでは、また弟を見殺しにするだけだと気づいたんだ」
(この人ならば、安心して二人を任せられる…)
「…二人のこと、よしなにお願いいたします」
サイゾウとショーゾーも、深々と頭を垂れた。
柘植は腕を組み、目を閉じてしばし黙っていたが、やがて口元に微笑を浮かべた。
「行け。…お前たちは、戻るべき場所へ帰るがいい」
そう言って背を向ける柘植に、僕は深く一礼し、そっと胸の内で呟いた。
(ありがとう。きっと、あの二人は…あなたに救われる)
柘植との語らいを終えると、僕たちは再び、あの離れの一室へと戻った。
襖を開けると、香の残り香がまだほのかに漂っている。
畳に敷かれた寝具の中で、キュウサクは目を開けていた。虚ろな瞳は何を見るでもなく、ただ天井のあたりをぼんやりと見つめている。
それでも昨夜よりは、ほんの少しだけ穏やかな表情をしていた。
その横で、じっと座って寄り添っていたのは蛍だった。僕たちに気づいた彼女は、そっと顔を上げる。
目元にはまだ赤みが残っていたけれど、表情には何かを乗り越えた人間の気配があった。
「そろそろ行くよ」
僕は静かに告げた。
「…うん」
蛍は頷き、僕の方へと歩み寄ってきた。
「ありがとう。…全部、あなたのおかげ」
「いや、俺は何もしてない。君が、自分で決めたことだ」
「でも…、あなたに出会ってなかったら、私は“無かったこと”のまま一生生きてたと思う。痛いとか苦しいとか、全部感じないまま…それが強さだと思ってた」
その声はかすかに震えていたが、涙はもうなかった。
「俺もさ」
僕は少し笑って言った。
「“守るためなら仕方ない”って、自分に言い聞かせてた。でもそれだけじゃ駄目だ。感じることを捨てたら、俺たちはただの“殺人道具”になっちまう」
蛍はしばらく黙って僕を見つめ、やがてイタズラっぽく口元を緩めた。
「やっぱりもう一回言っておこう。」
「…?」
「心が戻って、全部取り戻せたら、ゴエモン、いただきに行くって」
サイゾウが「ぷっ」と吹き出し、ショーゾーが「こりゃモテモテだな」と笑う。
僕は思わず顔を真っ赤にして視線を逸らした。
そのとき、蛍の背後から小さな声がした。
「…いくの?」
キュウサクだった。
「…すぐ帰ってくるから。体、ちゃんと治せよ」
僕がそう言うと、キュウサクはほんの少しだけ、首を動かして頷いた。
「…俺、…ごめん、迷惑…かけて…」
か細い声だった。
「謝るな。命を張って守ったんだ、この町の人々を。立派だった」
サイゾウがそう言って、そっと彼の肩に手を置いた。
「…帰りたいな、里に……ケンタや風、チビたち、お土産待ってるだろうな…」
そう言った途端、キュウサクの両目から大粒の涙が溢れた。
「キュウサク、ゆっくりでいい。お前の速さで…また一緒に笑える日を、待ってるからな」
ショーゾーの言葉に、キュウサクは小さく、でもはっきりと
「…うん」
と答えた。
僕たちは静かに襖を閉めた。
この砦を守った名もなき英雄たちの帰還。
でも僕たちは忍び。
砦の正門をくぐることもなく、裏門の勝手口からひっそりと後にした。
見送りもなければ、功を称える声もない。
それでも僕たちの胸の中には、たしかにひとつの“誇り”が残っていた。
戦いを経て得た、痛みと絆。
そして、里の外にも“通じ合える誰か”がいるという希望。
背に朝の風を受けながら、僕はふと振り返る。
あの部屋の向こうに残した二人。
壊れかけた心を携えて、それでも立ち直ろうとする二人の姿が思い浮かぶ。
(また、会える。きっと)
「さあ、帰ろう」
僕は小さく呟いた。
「懐かしい、僕らの里へ」




